悪魔に抵抗しなさい
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- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 5章6節~11節
5:6だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。
5:7思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
5:8身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
5:9信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。
5:10しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
5:11力が世々限りなく神にありますように、アーメン。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 5章6節~11節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
クリスチャン作家C.Sルイスという人がいますが、『キリスト教の精髄』という著書の中で、高慢について大変鋭い指摘をしています。
「獣は自分が獣であることを知りません。人間も同じように、自分自身の欲望に従って生きていき、獣のような状態に近づいたとしても、それに気づくことがありません。」
恐ろしい言葉ですが、高慢な人というのは自分が高慢であることに気づかないという事です。そして自分がどれだけ悪く変化しているのかについても気づかないものです。高慢とは神の前で自分を欺くだけではなく、自分自身をも欺くという恐ろしい罪悪です。C.Sルイスはさらに指摘します。
「すべての罪悪の中で、最も悪い罪悪は私たちの信仰生活の中心にまで浸透することができるとは怖いことである。しかしその理由を理解するのは難しくない。それほど悪くはない罪悪は悪魔が私たちの獣のような本性を利用するために生じるものであるけれども、しかし高慢とは獣のような本性を通して来るのではなく、それは地獄から直ちに出て来る。高慢は純然とした霊的な罪悪である。そのために他の罪悪に比べて、はるかにずる賢く致命的である。」
つまり、C.Sルイスによれば、罪の中で、高慢という罪は最大の罪であり、他のいかなる動物的な罪よりも深刻で恐ろしい罪悪であると考えています。確かにその通りであるかもしれません。罪の本質とは高慢なのかもしれません。なぜなら、そもそも人間を神様から引き離そうとするサタンは、高慢の罪によって天から落とされたからです(イザヤ14:12~15)。
【1】. 従順と謙遜、不従順と高慢
1ペトロ5章5節には「神は高慢の者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」と書かれています。高慢は神に敵対し、神に不従順であり、決して神を仰いだり、神に従順することはありません。高慢とは、突き詰めれば自己崇拝であり、十戒の第一戒の違反なのであります。私たちが救われなければならない理由は、まさにこの高慢のためであると言っても言い過ぎではないでしょう。私たちの中に隠れている高慢の、その、ぞっとさせるような姿を悟らなければなりません。それでは、謙遜とは一体何でしょうか。謙遜とは高慢がない状態ではありません。自分の心の中に高慢がない人は誰もいないからです。謙遜とは自分の心の中に確かに高慢という罪が隠れているということを自覚することです。そして日々、この高慢が隠れている自我に死ななければ、生きて行く事ができないということを告白する人であります。従って、信仰の道とは、謙遜な道なのであります。キリスト者とは、自分自身の中にある罪をはっきりと自覚し、キリストの十字架と共に自己を否定していく人生であり、旧い自分に死んで行く人生であります。私たちがイエス様の十字架によって救われたのは、この高慢から救われて、自己崇拝から離れ、不従順な者から従順な者に、自分の力で生きる者から、神の力によって生かされる者へと変えられるためであったのです。続いて5:6~7節をご覧ください。
“だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。”
だれも自分の救われたことを他の人に自慢する人はいませんね。救いとは裁かれて当然の私が、ただ恵みによって救われたのであって、自分の内側には何の功績もないからです。救われた者が自然に高慢を悔い改め、自分を否定し、低くへりくだるようになるのは、神の力強い御手を信じるからであります。救われた者は全ての思い煩いを神様に委ねようと致します。それは神様が私たちのことを一時も忘れずに顧みてくださり、私たちの将来に責任を持ってくださり、人生の最後まで私たちを愛してくださるということを信じるからです。続いて5:8~9節をご覧ください。
【2】. 悪魔との闘い
“身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。”
悪魔がほえたける獅子のように、誰かを呑み込もうと探し回っています。私たちキリスト者は、悪魔の存在を完全に無視することも正しい態度ではありませんが、全てを悪魔のせいにすることもやはり正しい態度ではないでしょう。人類の冷酷でむごたらしい殺戮事件などを振り返る時、その背後に悪魔が存在していたと思われます。例えば第二次世界大戦中、ナチスのアウシュヴィッツ強制収容所の所長であったアドルフ・アイヒマンは、150万人のユダヤ人を大虐殺したと言われています。終戦後にアルゼンチンに逃亡したアイヒマンは、1960年についにイスラエルの秘密警察によってその足跡が突き止められ逮捕されました。当時、大変大きなニュースとなり、その後エルサレムにおいて裁判を受け、処刑されています。このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て、関係者は大変大きなショックを受けたと口を揃えます。なぜならば彼があまりにも「普通の人」だったからです。アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「彼はナチス親衛隊の中佐であり、ユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強な極悪人」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通のどこにでもいるような小役人に過ぎなかったのです。ごく普通の人によって、普通ではありえないような衝撃的な虐殺事件が起こったというのを見る時に、その背後に悪魔が存在していたのは明らかであります。しかし、だからと言って、すべての過ちを悪魔と関連しているように考えるのも間違っています。自分が風邪をひいてしまったときに、悪霊どもの仕業だと言ったり、自分が学校に遅刻した時には、悪魔によって妨げを受けたとか、悪魔に誘惑されて自分が悪事を働いたなどと、全てのことを悪魔に関連させてはならないといいうことですね。聖書にはイエス・キリストが悪魔と諸々の悪霊と戦われ、彼らを征服し外に投げ出し、サタンの統治を教会の領域から撤収させ、審判の時まで彼らは、獄につながれていると書かれています。コロサイ人の手紙2:15と、2ペトロ2:4をご覧ください。
コロサイ2:15
“そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。”
2ペトロ2:4
“神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。”
しかし、それにも拘らず悪魔は、まだ最後の火の審判を受けておらず、依然として外部から教会に影響を及ぼし、誘惑し、試みにあわせることができるとも書かれています。2コリント11:3、1テサロニケ3:5をご覧ください。
2コリント11:3
“ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。”
1テサロニケ3:5
“そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。”
悪魔と悪霊どもは、地獄に入れられ、縛られていますが、まだ火による審判を受けておらず、人間を神様から引き離すための何らかの影響力をもっているということです。このような訳で、教会は悪魔に対抗し、身を慎んで目を覚まして持続的に霊的な戦いをするように招かれているのです。「身を慎む」とは、これまで何回か出てきましたように、酒に酔ったり、この世にどっぷりつかったり、中毒にならないように、という意味でありました。悪魔は、自分たちの審判を意識しつつ、終末が近づく中で自分たちの持てるすべての力を注ぎ再起しようとしますが、最終的にはキリストにあって完全に征服され、悪魔と悪霊たちは、共に火の中に投げ入れられることになるでしょう。悪魔とは神様に拮抗する全能者ではなく、単なる被造物であり、そして悪魔の人間に対する影響力というのも、常に神様の摂理に従属しているのです。悪魔が牙をむき出して吠えていますが、それはあくまで鎖につながれている負け犬の遠吠えに過ぎないのです。この世における私たちの人生と、私たちの人生の最期は、サタンの手の中にあるのではなく、神様の御手の中にあって、守り導かれているのです。続いて1ペトロ5:10~11節をご覧ください。
【3】. 私たちを永遠の栄光に招いてくださった方
“しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。”
ここでは、私たちが依然として悪魔との霊的戦いに置かれているのは、神の御手の中で、永遠の栄光へと招くためであったと書かれています。私たちとしては、「一刻も早く、私たちを完全な天の祝福に入れてもらえたらどんなにいいだろうか」、「早く悪魔に対して、最後の裁きを下してくれればどんなにいいだろうか」と思うかもしれません。或いは「キリスト者は無意味に悪魔と戦わなくてもいいのではないか」と思うかもしれません。しかし、私たちの置かれている戦いというのは、実は「主の戦い」であり、私たちに先立って油注がれた方が進み行き、敵を武装解除させるので、その戦いというのは実際、掃討戦であるということを覚えなければなりません。旧約聖書を思い起こしてください。イスラエルが敵に勝利するために、信仰を持って、大胆に敵陣に進んでいかなければなりませんでした。ところがイスラエルを導かれる主ご自身が既に前もって敵と戦ってくださるので、敵の陣営には恐怖や、同士討ちや、油断などが起こり、不思議な仕方で、イスラエルに勝利が与えられるのです。この主の戦いにおいてイスラエルの民がすることといえば、ただ敗走する敵が捨てていった武器や食料や宝を分捕るだけでありました。このような「主の戦い」に私たちを招いてくださっているのです。従ってこの戦いは決して無意味な戦いではなく、私たちを永遠の栄光に招く戦いなのです。何と素晴らしいことでしょうか。10節に注目しますと、「①完全な者とし、②強め(堅く立て)、③力づけ、④揺らぐことのないようにする」とあります。「完全な者とする」という言葉は、「回復する」という意味でありまして、私たちがこの世においてたとえ何かを損失したとしても、自らの足りなさ、自らの罪と過ちによって取返しのつかないことをしてしまったとしても、それらは必ず回復され完全にされるという意味です。ペトロを見てください。恐らく彼は12弟子の中でも一番弟子であることを自負していたことでしょう。しかし一番弟子の彼が、イエス様を三度否定し、取り返しのつかないことをしてしまいました。12弟子たちは全員、主を裏切ったかもしれませんが、ペトロの裏切り方というのは、一度だけではなく三度も、それも呪いを込めて主を否定するという、他とは比べ物にならない裏切りでした。そのようなペトロを主は回復させてくださったのです。また、「強め、」とは、「固く立てる」という意味ですが、イエス様はペトロがご自分を否定し裏切ることを知っておられ、預言されましたが、同時にペトロの回復を預言され、そしてルカ22:32において次のように語ってくださいました。聖書をご覧ください。
“わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけて(堅く立て)やりなさい。”
あの時、主が語られた「兄弟たちを力づけなさい(堅く立てなさい)」という同じ言葉を、ここでペトロは使っているのです。恐らくペトロにとってあの時、主が語ってくださった「力づけて(堅く立て)やりなさい」という言葉を忘れられなかったのではないでしょうか。主を三度否んだ自分でさえ、復活の主によって回復され、その後、使徒としての働きを担い、まさに教会を堅固にする岩盤としての働きを担わせていただいたのです。現在私たち教会も、この使徒たちの土台の上に堅く建てられていますね。また、最後の「揺らぐことのないようにしてくださる」という言葉は、建築用語でして、「基礎づける」とか、「不動にする」という意味です。信仰がフィックスされる、要石に完全に結ばれるという意味だと思われます。これらのことを考えるなら10節は神の恵みによって、ペトロ自身に起こったことの証しであると考えられます。主がペトロ自身に何をしてくださったのかを、感情が高ぶるの中で証言しているのです。ペトロは、神の勝利に満ちた恵みの約束に圧倒され、ただ神に敬拝を捧げることしかできませんでした。「力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」
ここでペトロは決して、神の力が持続するように願ったり、祈っているのではなく。ただ、感動と共に、その中で喜んでいる様子が見えてくるようであります。のではないでしょうか。ペトロを回復させ、キリストを死者の中から再び生かされたその方の力強い御手が、私たちの希望であり、確信なのです。その方が約束された御言葉は決して地に落ちることなく、一つ残らず成就するのです。
【結論】
神によって召され、時が至って救われた私たちキリスト者は、高慢の罪を悔い改め、自我を否定しへりくだる者であります。悪魔は依然として吠えたけり教会に何らかの影響力を及ぼすことができますが、それは鎖につながれた負け犬のようでもあり、全てが神の御手の中にあって、神の許しがなければ何もすることはできないのであります。神は悪魔の攻撃や悪巧みさえも、キリスト者にとって益に変えて下さり、永遠の栄光に招くための戦いとしてくださいます。私たちはこの主の戦いに招かれているので、酒に溺れることなく目を覚まして歩んで行く事ができるのです。