神の羊の群れ
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- 川栄智章 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 5章1節~5節
5:1さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
5:2あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。
5:3ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
5:4そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
5:5同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 5章1節~5節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
本日から、ペトロの手紙1の5章に入ります。いよいよ1ペトロも次週のあと一回を残して終了することになりました。この手紙の特徴は、苦難の中で栄光を待ち望むということで、「苦難」と「希望」と「栄光」がキーワードであると最初にお話しさせていただきました。しかし、教会に約束されている、やがて受けることになる栄光と、教会の現在置かれている状況を見比べるなら、そこにはあまりにも大きなギャップがありました。当時、ローマ帝国は強大な国家であり、皇帝は全ての権力をその手に収め、最強のローマ軍を所有していました。一方で、教会には軍隊もなく、武器もなく、組織もなく、そしてカタゴンベといわれる地下墓地に隠れながら、なんとか命だけを繋ぎ止めて生きていました。正常な生活を放棄して、財産を捨てて、ただ命だけを維持しながら、信仰を守っていたというのが彼らの現実でありました。恐らく、「我々教会がいかにして神の栄光でありうるのか?」という疑問が心の中から沸いて来たのではないでしょうか。本日はその答えを探して行きたいと思います。1-2節をご覧ください。
【1】. キリストの受難の証人
“さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。”
ここでペトロは、自分のことを、第一に「長老の一人であり」、第二に「キリストの受難の証人」であると言っています。一見、二つの言葉はどちらもペトロの自己紹介としては、相応しくないもののように聞こえてきます。ですから、ある人は、筆者が自分のことを長老の一人として紹介しているために、この手紙の本当の著者は、ペトロではなく、ローマ教会の一長老であったと考えます。「1:1では大胆に『使徒ペトロから』と書き始めたものの、うっかり筆を滑らせて、本当の正体を暴露してしまった」と言うのです。しかし、これはそういうことではありません。長老とは「年配者」という意味ですが、幅広い意味を持っていまして、共同体の中で羊を牧する者は、当時、普通に「長老」と呼ばれていました。これは昔からイスラエルにおいて白髪の年長者が尊ばれ、年長者の知恵と経験の故に、彼らに共同体を治める責任が任されていたという習わしを、キリスト教共同体もそのまま引き継いだと考えられています。共同体を治める責任が年長者に任されていまして、恐らくペトロとしては、自分自身のアイデンティティが使徒であるよりも、長老であり、羊の牧者であったという事だと思われます。
それから、もう一点、著者がペトロではないと主張する理由として、ペトロが、自分を「復活の証人」であると言ったなら、確かにその通りだと思われますし、また、もし、「変貌の山における、イエス様のご威光の目撃者である」と言ったなら、それはそうだと受け入れられるのですが、ここでは「キリストの受難の証人」と書かれています。実際、ペトロはイエス様が十字架に架かられた目撃者ではなく、その前にイエス様を三度否認し、一目散に逃げて行った人物でした。ペトロを取り巻く誰もが、そのことを容易に思い起こすことができたでしょう。それはペトロの最も苦痛に満ちたエピソードであり、言ってみれば黒歴史でありました。それでは何故ペトロは、あえて自分を「キリストの受難の証人」と言っているのでしょうか。それは、キリストの十字架の実際の目撃者という意味ではなく、キリストの苦難に共に与っている者という意味だと思われます。ペトロは初代教会のリーダーとして、その役割を担っていました。教会を迫害する者たちは、ペトロさえ殺害できれば教会を滅ぼすことができると考え、ペトロはターゲットにされていたわけです。そのような訳で、行くところどこにおいても、自分が死と隣合わせであることを感じ取っていたに違いありません。だからこそ、ペトロは自分のことをあえて「キリストの受難の証人」と言いながら、今、まさに苦難の中に置かれている小アジアの人々を励ましているのです。
2節の「神の羊の群れを牧しなさい」という言葉は、ペトロがガリラヤ湖で復活の主から語られた言葉と同じ言葉です。ペトロはイエス様を三度否認しましたが、その後ガリラヤ湖において、復活の主が弟子たちに現れてくださり、特に立ち直ることができなかったペトロに対して「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」と質問されました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とペトロが答えると「私の羊を牧しない」という御言葉が与えられました。この問答が三度も繰り返されたのです。イエス様はペトロの三度否認した、あの黒歴史を、完全に拭い取ってくださいました。このようにしてペトロに赦しと回復が与えられ、それと同時に「私の羊を牧しない」という新しい使命が与えられたのです。主を愛するペトロは、キリストの受けた受難に共に与る者としてその後の歩みが変えられて行ったのです。続いて3節をご覧ください。
【2】. 神の羊の群れ
“ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。”
聖書では、キリスト者が羊に例えられています。羊というのは、群れになって行動し、餌に対しては貪欲で、そして、もし群れからはぐれるなら、大きなストレスを受けてしまうそうです。性格は臆病で、聴力はいいのですが、視力が弱く、迷いやすく、方向感覚があまりないそうです。また、羊飼いによって定期的に羊毛を刈ってもらわないと、毛が伸び続けて動けなくなり、病気にかかってしまうそうです。ですから、羊とは必ず羊飼いによって導いてもらわないと生きていくことができない弱い動物なのです。まさに私たちキリスト者の姿を映し出しているということです。
3節で「ゆだねられている人々」という言葉がございますが、新しい聖書協会共同訳では、「割り当てられた人々」と訳されています。このギリシア語を見ますと、クレロスκλῆροςという言葉でして、「割り当てられた」とか、「くじによって振り分けられた」という意味です。ちょうど、イスラエルがカナンに入植する際、カナンの原住民を滅ぼした後に、それぞれの部族に、くじによって嗣業の地が割り当てられましたが、その時に使われている言葉です。ヨシュア記14章2~3aをご覧ください。
“すなわち主がモーセを通して命じられたように、くじで九つ半の部族に嗣業の土地を割り当てた。モーセは既に他の二つ半の部族にはヨルダン川の東側に嗣業の土地を与えていた。”
この後にそれぞれの部族に、くじによって割り当てられたということが何度も強調されています。たとえば、15章1節です。“ユダの人々の部族が氏族ごとにくじで割り当てられた領土は…”とありますね。続いて16章1節です。“ヨセフの子孫がくじで割り当てられた領土は…”とあります。続いて17章1節です。“マナセ部族もくじで領地の割り当てを受けた。”とあります。続いて18章11節です。“ベニヤミンの人々の部族が氏族ごとにくじを引いた。”とあります。この後も小見出しを見ればわかりますように、くじによって領地が割り当てられたことが強調されています。これとまったく同じように、神の所有であり、主の嗣業である神の羊が、長老たちにくじで割り当てられているとペトロは言っているのです。ペトロが牧会の働きをどれほど大切にしていたのかということが、この言葉に滲み出ているのではないでしょうか。ペトロは自分に分け与えられている羊は、決して自分の羊ではなく、主の羊であり、それをくじで割り当てられているに過ぎないと言っているのです。このことを私たちに適用するなら、私たちが教会で、牧師を招聘する時に、自分たちが牧師を選び、自分たちが教会に招聘したと考えてしまいがちですが、しかし聖書によれば、くじ引きによって、神の摂理の中で、神の教会であり神の羊が長老に割り当てられるということなのです。ですから、実際招聘された教師はたとえ小さな群れを任されたとしても、いい加減にしてはなりませんし、大きな群れを任されたとしても、自分の説教が素晴らしかったから招聘されたのだと高慢になる理由もないのです。それは、神の摂理の中で、くじ引きによって分け与えられたからであります。私が、せんげん台教会に招聘されたのは、神のご計画の中で、神の摂理の中で遣わされました。この教会に遣わされて、力が及ばないところもあるかもしれませんが、全てを注いで牧会させていただいております。同じように皆さんも、せんげん台教会に会員として登録されていますが、これは皆さんがこの教会を選んだのではなく、神のくじ引きによって、神の摂理の中で、聖霊の導きによって、せんげん台教会の会員とされているということです。皆さんがこの教会にいるのは、自分で決めたようであっても、実は自分が決めたのではない、神のご計画の中で、その摂理の中で導かれたという事ができるでしょう。それゆえに、この教会は私にとって、ベストの教会であり、幸いな教会であるのです。
このように、ペトロはイエス様の羊を牧する働きを、大変重要な働きとして考えていたわけですが、この牧会の働きというのは、単に講壇に上って御言葉を宣言することだけを意味するのではありません。互いにケアされること、個人的に御言葉が実践され、御言葉が適用されることを含んでいます。つまり牧会の働きというのは、キリスト者すべてに命じられているということです。これを「相互牧会」ですとか「牧羊」と名付けさせていただきます。イエス様によって、派遣された弟子たちは、イエス様の指示に従って、あの町、この町に行って福音を宣べ伝え、教会を設立していきました。しかし、いざ教会が設立されたといっても、直ちにそれは完全なものになるのではなく、羊の群れのように弱い群れであり、持続的に養育される必要がありました。教会は内側から異端の問題があり、そして外側からは迫害にさらされながら、罪と偽りのあらゆる攻撃の危機に曝されていたのです。従って、教会とは、常に導きを受けなければならず、常に養育とケアを受けなければならない弱い羊の群れなのです。常に雑草を抜いてやらなければならない畑であり、常に剪定をしてやらなければならない木なのです。教会は、日々御言葉の糧を必要とし、群れの中で、互いに慰められ、互いに励まされ、互いに祈られ、互いに勧めを受ける必要がありました。弱いのは信徒だけではありません。教師たちもやはり羊の群れの一員でありまして、教師たちもやはり常に監督を受けなければなりません。例えば私たち改革派であれば中会による段階的会議制を通して、教師が監督されなければなりませんし、万一、中会による監督の役割がなければ、教会は直ちに牧師の好き勝手なように扱われて、牧師の道具と化してしまうことでありましょう。ですから、もし、教会が段階的会議制をもたないのなら、教会は必ず、監督制を必要とするのです。そして教師自体もケアされなければならないということです。例外ではありません。皆さんもお一人お一人も教会における兄弟姉妹の交わりを通して、神の羊を牧しなさいと、使命を与えられていますので、互いに励まし合い、互いに気を配り合い、慰め合い、祈り合っていきましょう。続いて4-5節をご覧下さい。
【3】. 大牧者イエス・キリスト
“そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。”
ペトロは、やがて再臨されるイエス様を「大牧者」として表現しています。このイエス様こそ神の羊の群れを養い、導いてくださっている真の大牧者です。私たちはそのことを改めて知らなければなりません。私たちは単にイエス様の働きに共に参与させられている協力者に過ぎないという事です。真の大牧者であるイエス様は、ご自身のすべての羊たちをその名前によって知っておられ、お一人お一人を、名前で呼んでくださり、養ってくださいます。イエス様はその群れの中で、ただ一人も失うことはありません。そして、イエス様は、ペトロに対し「私の羊を飼いなさい」とおっしゃられたように、羊である私たちに、イエス様の模範に従うように、私たちをも群れの牧者として立ててくださるのです。つまり、神の羊を食べさせ、養育することです。この働きは、イエス・キリストの王であり、預言者であり、祭司としての働きとして言い換えることもできるでしょう。旧約聖書のモーセもイスラエルの指導者として召される前に40年間、羊飼いをしていました。ダビデもサムエルから油注ぎを受ける前に、やはり羊飼いをしていました。弟子たちに命じた「私の羊を飼いなさい」というのは、イエス様の王、預言者、祭司の働きに共に参与するように招かれているということです。教会はこの世においては羊の群れのように大変弱く見えますが、それぞれが牧羊というキリストの働きに参与させていただき、忠実に仕えた者たちには、この永遠に続く賞賛と、報いをかの日に頂くのです。その日、地上のどのような苦しみも忘れ去さられ、このように地上でイエス様と共に歩ませていただいたことは何という祝福であったのかと心から主に感謝し、讃美と栄光を主に帰すことになるでしょう。
【結論】
「我々教会がいかにして神の栄光でありうるのか?」その答えは、第一に私たちが所属している教会において、今、神の羊の牧羊の使命に与らせていただいているからです。その群れは大変弱い群れであり、常にケアされる必要があり、常に祈りと、励ましと、慰めが必要であり、非常に困難の伴う働きでございます。第二に困難のただ中にある教会にとって、真の大牧者がおられるということです。教会を心にかけ、愛し、育んでくださっている大牧者がおられ、私たちはそのお方を仰ぐことができるというのは、何と大きな慰めと励ましでしょうか。この大牧者がご自身の群れを顧みてくださるために、教会は必ず試練をくぐり抜け、やがての日にしぼむことのない栄光に与ることができるのです。