神の御心のために
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- 川栄智章 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 4章1節~6節
4:1キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
4:2それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
4:3かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
4:4あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
4:5彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
4:6死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 4章1節~6節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
本日は再びペトロの手紙1に戻ります。この手紙の受取人であるアナトリア半島の小アジアの人々は、皇帝ネロの迫害下にあって、言葉には言い尽くせないほどの苦しみの中に置かれていました。これまでペトロは、迫害に直面にしたとき、どのようにしたらいいのかについての「勧め」を論じてきましたが、3:17節からは一旦中断されて、ペトロの勧めを裏付ける神学的な挿入部分がありました。そして4章に入り、再び迫害に直面した時の勧めが再開します。その勧めとは何かと言えば苦しみにあえいでいる人々に対して、一言で言えば、「善を行いつつ、苦難を受けなさい」ということです。キリスト者がこれほどの惨めな状況に置かれているというのに、そのような悲惨な現状をただ、黙って肯定しているだけとでも受け取れるような言い回しです。見方によれば、指導者の言葉としては、あまりにも無責任であると、誤解を招きかねない言葉です。ペトロはこの言葉を通して一体何を教えているのでしょうか。
【1】. キリストと同じ心構えで武装せよ
1節をご覧ください。
“キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。”
ここでは「心構え」によって武装しなさいとあります。「心構え」とは、「決断する」とか、「覚悟する」という意味ですが、キリストの弟子であるなら、肉に苦しみを受けること、十字架によって死ぬことを、決断しなさい、覚悟しなさいという意味です。また、武装するというのは、軍事用語ですが、つまり、教会がこの世において霊的な戦闘中であることを思い起こさせているのです。死を覚悟して武装しなさいという事です。それほど悪魔の攻撃が激しいからです。分かりにくいのは、1節の後半部分の文章ですが、“肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。”ここは、注解書においていろいろと指摘がされています。というのは、「環境が人を作る」という言葉がありますように、もし、肉体において苦しみを受けるなら、その人は、なおひどく犯罪を行うような人格が形成されるのではないか、という意見です。ですから、ここの箇所は、悪を行って苦しみを受ける者という意味ではなく、「善を行って苦しみを受け、しかも、その善に伴う苦しみにも拘わらず、なおイエス様に従い続けた者は、罪ときっぱり手を切ってしまった人である」と、解釈してください。1節は最後にもう一度振り返ってみます。続いて2~3節です。
“それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。”
私が神学校に献身した動機とは、神の御心に従うためにはどうしたらいいだろうかということでした。神様に自分自身を捧げたいという思いはあるのですが、神の御心に従うために一体何をすればいいのか、その点がさっぱり分かりませんでした。一生懸命神学の勉強をすればいいのか、兄弟姉妹の交わりを通して仕えればいいのか、或いは、神学校はどこに進めばいいのか、或いは、牧師としては召されてはいないのではないか等々です。今でも神の御心を祈りつつ求めていますがよくわからないことがたくさんあります。4:2~3節では、残りの生涯をどのように生きるのか、問うています。あたかも、お医者さんから余命宣告されたような感じですが、もし、死を覚悟して武装するなら、人間の欲望にではなく神の御心に従って、歩んでいけるということです。これは、私たちがこの世において完全な聖化に至ることができると言っているのではありません。肉である私たちは弱さと欠けを持ち、どうしても罪を犯してしまうからです。ただ人生の矢印がどこに向いているのかという事だと思います。誘惑に引かれてこの世を愛するのか、苦しみを覚悟し、死を覚悟してでも戦おうとするのか、人生の矢印がどちらに向いているかが大切なんだと思います。また、「生涯」ということばですが、ギリシア語を見ると「時間(クロノス)」という言葉が使用されています。ギリシア語で時間を表す言葉に、「カイロス」と「クロノス」がありますが、カイロスというのは「チャンス(神の時)」とか、「定められた時」を意味します。一方、クロノスというのは、「時計の針が動くような、時間そのもの」を意味します。このクロノスという言葉が、2節と3節にも出てきまして、直訳しますと、「ふけっていた(期間)は」、「ふけっていた(時)は、もうそれで十分です」、となっています。つまり、2節には、神の御心に従うクロノスがあって、3節には、異邦人が好むような好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝に従うクロノスがあって、この二つの時(クロノス)が対比されているのです。皆さんはどちらの時を過ごしたいと思われますか?当然、神の御心に従う時を過ごしたいと思われることでしょう。私たちは余命宣告をされることによって、終わりの意識を持つ事によって、何のために時間を過ごすのか、何のために生きるのか、その過ごし方、生き方が変わってくるのです。死を覚悟することによって、残りの時間の過ごし方に影響が及ぼされるのです。そしてその時間はかけがえのない時間となることでしょう。終わりを意識した時に、死を覚悟した時に、意味のある時間が生じると言ってもいいのではないでしょうか。しかしそれでは私たちの人生があまりにもストイックというか、虚しく聞こえてこないでもありません。この世にだって美しさがある。その美しさを美しさとして楽しんでもいいのでは、と思われるかもしれません。その通りです。キリスト教は決して禁欲主義ではないからです。イエス様でだって大いに飲み、大いに食べて、ファリサイ人たちから「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。」と非難されたほどでした。それではペトロは何を言っているのでしょうか。
【2】. 信者の悔しさを晴らされるお方
続いて4~5節をご覧ください。ここは、この世がいつまでも続き、ローマ帝国の支配も安泰だろうと考えているこの世の人々に対する厳しい警告が語られています。ご覧ください。
“あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。”
ご存じのように、当時の小アジアのキリスト者は、既存秩序を破壊し、社会に混乱を引き起こす反社会的分子だというレッテルを張られていました。実際、キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むと言う聖餐式や、共同体を形成して家族のように仕え合うその姿は、はたから見ると奇妙に見えて、反社会的だと見做されたのかもしれません。ローマの当局者は、しばしばそのようなキリスト者を出頭させて、ローマ帝国の法律に忠誠を誓うのか尋問し、拷問を加え、死刑判決を下していたようです。皇帝ネロが次々とキリスト者を殺すその理由というのは、キリスト者たちが「人間性を憎悪するため」、つまり「自分たちと一緒になって乱行に加わることをせず、反社会的である」という理由のために殺したというのです。この時に殉教していった人々は、まさに死を覚悟し、善を行いつつ、苦難を受けたのです。しかし、このようにして実際に繰り広げられていたむごたらしい姿は、天においてそっくりそのまま逆転されることになると、ペトロは警告するのです。つまりキリスト者を出頭させ、尋問し、拷問を加え、死刑を執行していた者たちが、逆にこの世の生を全うした後に、天の法廷の前に出頭させられ、申し開きをしなければならなくなるのです。そして、彼らがキリスト者に対して行ったこと、悪口を言ったこと、嘲り、辱めたことなど、全て、それは信者と共におられる聖霊に対してなされた罪として見做されます。暗闇の中から、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民として、信者を驚くべき光の中へと招き入れてくださったそのお方を、そしった罪として見做されるのです。この聖霊冒涜罪に対し、彼らはことごとく申し開きをしなければなりません。続いて6節をご覧ください。
“死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。”
ここの「死んだ者」とは、この世の法廷で裁かれて処刑されたキリスト者を指しています。「人間の見方からすれば、~神との関係では~」とありますが、この箇所は人と神に対して同じ前置詞が使われていて、ギリシア語で「カタ アントロポス」、「カタ テオン」英語で言うなら、according to men 、according to Godとなっています。意訳しますと、「人間に従えば、肉において裁かれて死んだようでも、神に従えば、霊において生きるようになるためです」、という意味です。つまり、人間のジャッジによれば裁かれて有罪とされ死んだようでも、神のジャッジによれば霊において生きるようにされるということです。人間の目線と神の目線、人間のジャッジと神のジャッジが異なるということです。このようなユダヤ人の言い回しは例えば、旧約聖書の続編である知恵の書や、第二マカバイ記にも見られます。知恵の書3章1~4節をご覧ください。週報のプリントに抜粋されています。
“神に従う人の魂は神の手で守られ、/もはやいかなる責め苦も受けることはない。愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、/この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅に見えた。ところが彼らは平和のうちにいる。人間の目には懲らしめを受けたように見えても、/不滅への大いなる希望が彼らにはある。”
同じように第二マカバイ記7章13~14節です。これはセレウコス朝シリアの王、アンティオコス4世・エピファネスによって死刑判決を受けたユダヤ人が拷問で死んで行くときに語ったセリフです。
“やがて彼も息を引き取ると、彼らは四番目の者も同様に苦しめ、拷問にかけた。死ぬ間際に彼は言った。「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。」”
つまり、ペトロの「人間のジャッジによれば、神のジャッジによれば」という言い回しは、知恵の書やマカバイ記に見られる共通点をもっていて、この世の人々が見るようではなく、死を超えた永遠に目が向けられているということに気づかされるのです。この目線こそ、最初に言いました「死を覚悟して武装すること」だと思います。私たちにとって死は通過点に過ぎません。私たちの目は常に死を超えて、その先にある神と共に生きる永遠の命に向けられるべきです。また、もう一つ覚えたいこととして、この世において悪魔は常に神の民を攻撃するということです。黙12:10には、悪魔の働きで典型的なものの一つとして、神の民を昼夜問わず、告発することが挙げられています。小アジアのキリスト者は、ローマの支配の中で常に告発され、裁判に掛けられ、死んで行きました。しかし、この世の現象は、天においてそのまま反転することになるのです。復讐の神が、流された義人の血に報復をされるからです。そして彼らはキリスト者の足元に来てひれ伏すようにされるのです(黙3:9)。
【3】. 死は通過点である。
先ほど見た4:1節において、「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」とありました。この言葉は、特にキリスト者の死を通して成就する内容だと思われます。私たちキリスト者は、二度、死を体験いたします。一度目は倫理的な死であり、二度目は肉体の死です。つまり、倫理的な死とはイエス様を信じ、聖霊によって新しく生まれ変わり、永遠の命に入れられました。この時に、つまりイエス様を信じて洗礼を受けた時に、古い自分に死んで、新しい命に生まれ変わったということで一度目の死を体験したと言うことができるでしょう。旧い自分に死んで、新しく生まれ変わった時から、洗礼を受けた時から、ゆっくりではありますが聖化が始まります。キリスト者は日々自分に死ぬことの連続であり、倫理的な死は、私たちの最終的な肉体の死をもって、絶頂に至るのであります。この時、飛躍的な聖化が起こり、罪との関わりを完全に絶つことができるのです。フィリピ1:21~23をご覧ください。
“わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。”
神様が信者に対して苦難を、愛の鞭として用いるのを許されるように、信者の魂を完全に聖くして、すべての汚染からきれいにするために肉体の死を用いられるのであります。死とは人間が経験することができる最も大きな跳躍であり、そしてこの死によって信者がキリストのもとへ引き上げられるのです。このように考えるなら私たちの人生にとって、苦難も、そして死も、その先の永遠を神と共に生きるためには欠かせないものであることが分かります。神と共に生きる永遠のために、この世とは比較にならない美しい世界で神に仕えるために、この世で与えられている残されたわずかな時間を、御心に従って善を行いつつ、苦難を受けることを喜ぶことができるのです。
【結論】
私たち信者は、キリストの弟子でございます。弟子であるなら、キリストが歩まれたように善を行いつつ、苦難の道に与らせていただくべきです。そのために私たちは、死の向こう側にある永遠の世界に目を向けて武装し、この世に残されたわずかな時間を過ごす者です。この苦難の道とは、決して禁欲的な道ではなく、神様の御心に従う道であり、私たちをして天に宝を積むようにさせる道であり、神と共に生きる永遠の人生を、より豊かに生きるための訓練の道なのです。