復活の信仰
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- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 20章1節~18節
20:1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20:4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20:5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20:6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20:9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
20:10それから、この弟子たちは家に帰って行った。
20:11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 20章1節~18節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
イエス様の復活をお祝いするイースターの朝を迎えることができました。死者の中から蘇り、死の権勢に打ち勝たれたイエス・キリストにあって、永遠の命が与えられている皆さまに神様の豊かな恵みと平安がありますようにお祈りいたします。本日の箇所は、マグダラのマリアがイエス様の復活の第一の証人とされたという記事です。当時ユダヤの社会では女性の証言というものは、全く相手にされないものでしたが、イエス様はご自分の復活の第一証人としてあえて、女性をお立てになられました。マリアの証言を聞いて、それぞれの弟子たちにおいてそれぞれの反応ありましたが、復活から40日後の昇天までの期間を通して、そして復活から50日後の聖霊降臨の事件を通して、弟子たちの信仰が根本的に変えられました。恐れが取り除かれ、キリストの復活を大胆に証しする生きた信仰へ、熱い信仰へと替えられていきました。今朝は、私たちの人生を支配し、私たちの人生を生き生きとさせる「復活の信仰」について共にお分かちさせていただければと思っています。
【1】. 空の墓
マグダラのマリアと女たちは、週の初めの朝、まだ暗いうちに、イエス様の墓へ向かいました。1~2節をご覧ください。
“週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」”
2節で弟子たちに対する報告を見ると、「わたしたちには分かりません」と複数形で書かれていますね。ここから、どうやら朝早くに墓に向かったのは、マグダラのマリアだけではなく、何人かの女たちが一緒に行ったのだということが分かるのです。他の福音書を見ると、この時、マグダラのマリアと、ヤコブとヨセフの母(マリア)と、ゼベダイの子らの母(サロメ)が一緒だったようです。しかし、著者であるヨハネは、マグダラのマリアを代表と見做しているようです。マグダラのマリアと言えば、イエス様によって7つの悪霊を追い出してもらった女性でありました。彼女はかつて、悪霊に支配され、もう自分では、どうすることもできないような苦しみの中に置かれていましたが、イエス様によって、解放されて、健やかにされたのです。それ以来、イエス様に深い敬愛をもってお仕えするようになりました。彼女にとって、イエス様は、まさに自分の生きがいであったことでしょう。マグダラのマリヤは、イエス様が十字架に架けられた時にもゴルゴタのその場所にいましたし、イエス様のご遺体が葬られる際も、遠くからそれを見届けていました。週の初めの朝、彼女が墓に急いで向かったのは、イエス様のご遺体に対して、まだやり残していることがあったからだと思われます。それは、ご遺体に香油を塗って丁重に葬ろうとしたということです。ユダヤ人にとって、遺体を傷つけたり、遺体を蹂躙するような行為は、大変な侮辱であり、また、衝撃的なことでありました。遺体に対し相応しい敬意が払われないことは、ひどく嫌悪されていました。ですから、マリヤたちが墓に到着し、墓の入り口の大きな石が、取り除けられているのを見た時に、どれほどの衝撃を受けたことでしょうか。もしかしたら、イエス様のご遺体が盗まれて、良くないことが起こったのではと思い、不吉な予感を抱きながら、戻って弟子たちに報告しました。報告を受けたペトロともう一人の弟子(つまりこの福音書の著者であるヨハネのことですが)、急いで現場に向かいました。そして覗いて見ると、果たして女たちが言うようにイエス様のご遺体はなく、墓は空となっていたのです。20:4~8節をご覧ください。
“二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。”
遺体は、普通、亜麻布という白い包帯のようなもので巻かれました。そして頭の部分だけは、亜麻布より幅の広い「覆い」によってくるむようです。ヨハネによる福音書には、ペトロとヨハネが目撃した、空になった墓の様子が詳細に記述されていますけれども、その目撃情報によると、身体の部分と頭の部分と二つに分けて「亜麻布」と「覆い」が丸めて置かれてあったということです。その様子が物語っていることは、イエス様のご遺体は遺体泥棒の仕業ではないということです。なぜなら、普通、遺体泥棒は、高価な亜麻布や没薬を盗んでいくものですが、それらは盗まれておらず、そのまま丸められた状態にあったからです。つまり、あたかもイエス様のご遺体だけがそこから煙のように消えてしまったかのように、亜麻布と覆いだけがそれぞれの場所に置かれてあったのです。ヨハネはこの様子を見て、イエス様の復活を信じたのでありました。
【2】. 天に向かった復活
二人の弟子たちが帰って行った後、マリアは一人、墓の外に立って激しく泣きじゃくっていました。このマリアの泣く姿は、あたかもこの世において人間が最終的に行きつく悲しみを象徴しているようです。人間は誰でも必ず死を迎えます。たとえ、この世で成功を収め、人々から賞賛される人生を送ったとしても、どれほど人との出会いに恵まれて、充実した日々を送ったとしても、マリアの悲しみを通して映し出されているのは、死という現実の前に屈服させられた姿でございます。この時、マリアが身をかがめて、墓の中を覗いて見ると、ご遺体の置かれてあった所に、白い衣を来た二人の天使がいることに気づかされました。天使たちは、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うので、マリアは13節で「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません。」と答えています。この13節のセリフは2節のセリフと同じですが、違う点といえば、「私たちには分かりません」が「私には分かりません」となっている点です。つまり、マリアが一人でそこに残されていたという事が分かるのです。そのような時に復活の主イエスがマリアと個人的な交わりをもってくださいました。しかし、マリアは目の前にイエス様の姿を見ても、すぐに復活されたイエス様であることを認識することができませんでした。イエス様が「マリア」と名前を呼んで下さって、初めてそこにいるお方が、イエス様であるという事に気づいたのです。このイエス様とマリアとの出会いを通して分かることは、復活のイエス様との出会いとは、イエス様の方から名指しで声をかけてくださる時に起きるということです。良き羊飼いであられるイエス様は決して、「そっちにいる君たち」とか、「あなた方~」という言葉で声を掛けられません。名前によって個人的に私たちを呼んでくださるのです。羊である私たちはその声を知っていますから、たとえお姿が見えなくとも羊飼いの声に従って、羊飼いに着いて行くことができるのです。
復活されたイエス様を認識することができなかったのは、何もマリアだけではありません。ヨハネの福音書21章においてティベリアス湖で漁をしていた弟子たちも、最初、イエス様を認識することができませんでしたし、他の福音書を見ても、例えばエマオに向かっていた弟子たちも最初、自分たちと一緒にいるお方がイエス様であることに気づきませんでした。マルコによる福音書16:12には、復活後のイエス様が「別の姿」によって現れたとはっきり書かれています。
“その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。”
従いまして、復活したイエス様のお姿とは、弟子たちの肉眼には神秘的に遮られていたと言えるでしょう。それだけではありません。復活された主イエスは確かに体を持って復活され、弟子たちと一緒に食事をされたりもなさいましたが、突然消えていなくなったり、或いは、締め切った部屋の中に突然現れたりしました。つまり以前の身体がそのまま蘇ったということではなく、もはや以前とは異なる、復活の身体を持ったイエス様のお姿を、私たちは見て取ることができるのです。マリヤは自分が知っているイエス様が目の前に戻って来てくれたため、感激のあまり、その足元にすがりついていたようですが、イエス様はマリアに対し、拒絶とも思えるような言葉を掛けられました。20:17節をご覧ください。
“イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
イエス様がマリアに「触ってはいけない」と言われたのは、謎のようなお言葉です。なぜなら、この日から八日後に、イエス様はトマスの前に現れて「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」とほとんど逆のことを言われるからです。この17節は、「触ってはいけない」というより、継続して「すがりついていてはならない」という意味だと思われます。それは、マリアに対して、イエス様との交わりを以前のような時間と空間の中で制限された交わりとして求めてはならない、ということを言わんとしているのでしょう。なぜなら、イエス様はこの後、父のもとに上り、そこから聖霊を送ることによって、あなた方を新しい交わりへ、新しい祝福へと招かれるから、ということです。つまり、イエス様の復活というのは、この地上の生活へ戻るための復活ではないということです。イエス様は、以前のような生活に戻って来られて、それでよしとされたのではない、天におられる父のもとへ、上っていかれるための復活だったのです。それは、イエス様を信じる私たちを同じように、天の父のみもとへ導くためでありました。イエス様が天に上ることは、私たちが天に上るための準備であったということです。イエス様との交わりは、イエス様の肉体の消滅によって弱められるのではなく、かえって強化されました。信者はもうこれ以上イエス様を触ることはできませんが、イエス様との交わりは聖霊を通して新しくなり、時間と空間によって制限されていた交わりは、霊的な永遠な交わりへと替えられたのです。従いまして17節の一見、拒絶のように見えるお言葉は、実は、私たちへの祝福の言葉として響いてくるのです。
【3】. 復活の意味
イエス様の復活とは、この地上の生活へ戻るための復活ではなく、天に向かった復活であったということがわかるなら、先ほどヨハネは確かにイエス様の復活を信じたと言いながら、9節で矛盾するようなことが書かれていることの、その意味が分かってきます。20:9節をご覧ください。
“イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。”
ヨハネはイエス様の復活を信じましたが、その復活というものが、単純に、これまでの地上での生活が戻されるような、そのような復活をイメージしたのであって、実際はその復活とは、天に向かった復活であり、それは旧約聖書に証しされている「復活」であったということを理解してはいなかったということです。これについてヒントになる記事がルカによる福音書のエマオに向かう弟子たちに復活のイエス様が顕現されたことを考えてみましょう。弟子たちは、同じ日の夕方、エマオに向かって歩いていました。その表情は暗かったと書かれています。過越し祭の時に起こった十字架の事件に、大変落ち込んでいたようです。それでは彼らは、イエス様の復活の便りをまだ聞いていなかったというのでしょうか。そうではありません。彼らは復活の便りを聞いていました。ルカによる福音書24:17~19と24:22~23をご覧ください。
ルカ24:17~19
“イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。”
ルカ24:22~23
“ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。”
つまり、エマオに向かっている二人の弟子たちは「イエスは生きておられる」という証言を確かに聞いたのですが、顔は暗かったのです。その理由は、イエス様の復活とは旧約聖書の成就であり、旧約聖書全体が、イエス・キリストがメシアであり、神の子であることを指し示しているということを理解できていなかったからです。ところがイエス様が弟子たちに、復活の意味を旧約聖書の御言葉を通して解説していきました。するとどうでしょうか、御言葉によって彼らの心に火がともされたのです。復活の奇跡を信じるということは、単に死んだ遺体がこの世に蘇ったという奇跡を信じることではありません。その奇跡とは天に向かった復活であり、その奇跡は同時に、私たちの罪が赦されたことの保証であり、私たちの救いと永遠の命と幸いで栄光の復活の担保であったということです。復活の奇跡とは、御子が死の力に勝利されたということです。ですから、私たちがやがて迎えることになる死、それは、もはや罪に対する刑罰ではなく、永遠の命の入り口となったのです。復活の奇跡、それは、イエス様が私たちの大祭司として働かれ、そして十字架上で最後に「成し遂げられた(テテレスタイ)」と言われたお言葉に対する、天の父の「アーメン」という応答であったという事です。
【結論】
イエス様の天に向かった復活を信じることは、私たちの人生に火をともし、私たちの信仰生活を生き生きとさせることでしょう。復活の信仰は、死を超えて、私たちの人生を支配し、感謝と喜びと平安で満たしてくださいます。そして私たちは、イエス様を直接見ることはできなくてとも、イエス様を愛し、聖霊によっていつでもどこでもイエス様と交わりを持つことができるのです。