このことのためにあなた方は召されたのです
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- 川栄智章 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 3章8節~12節
3:8終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。
3:9悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
3:10「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、
3:11悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。
3:12主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 3章8節~12節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
ペトロはこの手紙の5章において、ローマのことをバビロンと呼んでいます。バビロンというのはこの時代には、もう既に廃墟となってしまった都市ですが、なぜバビロンという言葉を使っているのでしょうか。ヨハネの黙示録においても、やはりローマをバビロンという言葉に言い換えています。この言葉遣いは、当時のキリスト者に対する抑圧と迫害が、どれだけ厳しかったのかという事を物語っています。おそらくバビロンという言葉によって、福音に反対する悪の世界の中心的な勢力という事を言わんとしているのだと思います。従いまして、ペトロが、皇帝であろうと、総督であろうと、立てられている権威に服従しなさい、かえって祝福を祈りなさい、と言う時に、それは、ローマによる支配というものが、我々キリスト者にとって「まあ、何だ、大きく見れば、まんざら捨てたものでもない」という事ではないということです。ペトロは明らかにローマの犯している大きな罪に対し、神の厳しい裁きが下されるであろうという事を確信していました。神は生きておられ、すべて覆い隠されたものまでご覧になられ公正に裁かれるお方だからです。神が生きておられるので、神が義人の祈りと、叫びに耳を傾けて下さるので, ペトロは本日の箇所で、迫害の中に生きるキリスト者に対し、悪をもって悪に報いるのではなく、むしろ祝福しなさいと励ましているのです。
【1】. 祭司の務めとしての祝福
3:8節には、「終わりに」という言葉がございます。これは、この手紙の結論という事ではなく、2:11から、具体的に語られてきた内容のまとめということになります。これまで具体的に語ってきた内容とは、国家為政者に対して服従すること、また、僕と主人の関係について、そして信者の妻と未信者の夫の関係について語ってきました。そして最後に、どのような人々にも当てはまる一般的な原則をここにまとめているのです。3:8~9節前半をご覧ください。
“終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。”
当時ギリシア・ローマにおいて、家庭の規約やその家の家訓が教えられる時に、一つ一つの美徳を数え上げながら、道徳教育がなされていたようです。ここでは、ペトロもそれに倣って一つ一つ美徳を数え上げていると思われますが、「謙虚」という美徳はギリシア・ローマの価値観には見られない美徳でした。なぜなら、謙虚というのは、卑屈なこと、勇猛果敢ではないこととして捉えられていたからです。さらに言えば、9節の「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはならない、かえって祝福を祈りなさい」。このような美徳は、まさにイエス様とその弟子たち以外には、誰も教えなかった内容であったでしょう。マタイによる福音書10:44~45をご覧ください。
“しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。”
しかし、こういうふうに言われると、悪に対してとにかく「無抵抗であれ」とか、悪に「一緒になって加担しなさい」と言われているように錯覚するかもしれません。或いは、結局、悪い者, ずるい者だけが、得をするのではないか?と思ってしまうかもしれませんが、そういうことではありません。45節に「あなたがたの天の父の子となるためである」とありますように、私たちがキリストに似るように、御霊によって愛の実が豊かに結ばれるようにと勧めているのです。ペトロの手紙の9節に戻りまして、“悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい” とありますが、「祝福する」という動詞はギリシア語で、ユーロゲオーεὐλογέωという言葉です、「祝福」とうい名詞はユーロギアという言葉です。いずれもロゴス(言葉)と関係があります。元々は「善い言葉を語る」という意味を持っていました。ところで、祝福することは、旧約において祭司長の特別な権能でありました。祝福すること、「善い言葉を語ること」に関して言えば、まさに大祭司として来られたイエス様が、みずから進んで模範を見せてくださったと言う事ができるでしょう。ロゴスであられるイエス様が、言葉を大切に使われたことは言うまでもありません。イエス様は「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅」しませんでした。十字架に架けられた時にも、どうでしょう、「畜生!」とか「なんだ、この野郎!」とは言いませんでしたね。その代わりに「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、自分を十字架に架けた人々に対して、善い言葉を語られたのです。つまり、「祝福する」、「善い言葉を語る」ということは、イエス様の模範に学ぶこと、ひいて言えば、世に「良き知らせ」である福音を宣べ伝えるという事になるのです。
【2】. このためにあなた方は召された
9節全体を直訳しますと、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱を返したりせず、逆に祝福しなさい。このためにあなた方は召されたのです、つまり祝福を受け継ぐようになるためです。」となります。ここで、「このためにあなた方は召されたのです」というフレーズが出てきますが、少し細かい議論ですが、「このために」という言葉が、前の事柄を指すのか、後ろの事柄を指すのか学者ごとに意見が分かれる所です。つまり召された理由が一体何なのか、前の部分である「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱を返したりせず、逆に祝福する」ために召されたのか、或いは後ろの部分である「祝福を受け継ぐ」ために召されたのかということです。新共同訳聖書の場合(新改訳聖書もそうですが)、「このために」という言葉が、後ろの事柄を指していると解釈して、「祝福を受け継ぐために召されたのです」と訳しています。ただ、このフレーズは同じ形によって2:21にも出てまいります。1ページ戻りまして、1ペトロの手紙2:21をご覧ください。
“あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。”
ここでは、「あなたがたが召されたのはこのためです」の「このため」というのは明らかに前の部分の「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶこと」を指しているということが分かります。ですから、これと同じように3:9も「このために」という言葉は、前の部分を指していると思われます。従って、3:9は、意訳しますと、
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱を返したりせず、逆に祝福するために、あなた方は(神の僕として)召されたのです。そのようにして(天に豊かな宝を積むことになり)、祝福を嗣業として受け継ぐことになるのです。」ということです。「なんだって、キリスト者は苦しみを受けるため、それを耐え忍ぶために召されただって?そんなことがあっていいものだろうか!」と驚かれるかもしれません。
しかし、そもそも彼らが選ばれた民として、王の系統を引く祭司として、聖なる国民として、神の子として召された理由とは、彼らが何か、知恵のある者が多かったからでもなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったからでもありません。もともと彼らは、寄留人であり、旅人であり、仮住まいの者であり、ローマが支配するこの地において苦難と抑圧を受けること以外に、それ以外に何も期待することはできませんでした。そのような状況は、召された以降においても何も変わらなかったことでしょう。それにもかかわらず召された者たちは、180度人生の方向が転換させられ、イエス様を見たことがないのに、イエス様を愛し、言葉では言い尽くせない喜びに満ち溢れ、イエス様のためなら全てのものを捨てて、従う者へと変えられていったのです。一体なぜでしょうか。イエス様はご自身の弟子たちに、イスラエルに政治的な王国が復興され、この地であなた方は栄光に満ちた未来を享受することになるとは予告されませんでした。その代わりに、主ご自身が経験された苦しみを、弟子たちも同じように経験することになるだろうと予告されたのです。マタイによる福音書10:24~25をご覧ください。
“弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。”
弟子は師に優るものではなく、僕は主人に優るものではない、弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分だと言われましたが、まさに、この点においてこそ、弟子たちが、やがての日に受けることになる称賛と光栄と誉れの希望の根拠があるのです。イエス・キリストが低くされた後に、高く挙げられたように、弟子たちも同じ道を通ることになります。召された者たちの市民権は天にあって、彼らはもはや、見えるものに目を留めることをせず、上にあるものを思い、この地で永遠の都を持とうとするのではなく、将来、来るであろう天のエルサレムを追求するようになります。召された者たちは、信仰によって、この地にあって虚無に服している被造物全体と共に呻き、共に産みの苦しみを味わいながら、キリストの再臨と神の子供たちの栄光の現れを待ちこがれ、現在の苦難は、将来与えられる栄光とまったく比較することができないだろうという約束を信じ、耐え忍ぶように変えられるのです。マタイ福音書5:11-12をご覧ください。
“わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。”
預言者たちは皆迫害されました。キリストの故に迫害されるものは、天において大きな報いが約束されているが故に、迫害された時、喜び踊るのであります。
【3】. 善良な生き方の不思議さ
3:10~12節は、カッコで括られていて、詩のようになっています。これは詩編34編からの引用ですが、ペトロはこれまで自分が論じてきたことの証拠聖句として詩編34編を引いています。3:10~12をご覧ください。
“「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」”
旧約聖書の中で、たとえ当時、自分たちの置かれている状況が厳しい中にあったとしても、それでも神様の支配と統治を信じました。彼らは、命にあふれた幸いの日々を信仰の目で眺め、舌を制して、悪を言わず、平和を願って追い求めたと証ししています。神様はこのように信仰によって生きる義人の叫びと祈りに耳を傾けてくださり、顧みてくださるのです。彼らがこのように、命にあふれた幸いの日々を、信仰の目で眺めつつ歩んだのなら、新約に生きる私たちはなおさら、それを眺めて歩んで行きましょうと言っているのです。このような歩みは、おそらく神様を信じない人が見る時、奇妙なものとして目に移ることでしょう。しかし、聖徒たちのその奇妙な歩み、不思議な歩みこそ、主を証しすることであり、福音を宣べ伝えることなのです。例えば、ダビデの生涯を振り返ってみてください。彼はサウル王に執拗に追い回され、最終的には敵国であるペリシテに亡命するほどにまで、追いつめられました。その間に二回も、サウルをその手で仕留めることができる絶好のチャンスに遭遇いたしましたが、みすみすそれらを逃してしまいました。一度目は、エンゲディの荒れ野にある洞窟の中で、サウルがちょうど大便をしようと洞窟に入って来た時です。その時、部下たちは喜びに満ちた声で言いました。「主があなたに、『私はあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは思いのままにするがよい』と言われたのは、この時のことではありませんか」。ひそひそ話で言いました。ところが、ダビデは部下たちの声を制し、サウルに手を掛けることをせず、サウルの上着の端だけを切り取って行きました。二度目のチャンスは、ジフの荒れ野においてです。神様がちょうどサウルの陣営に深い眠りを送られて、その機会が訪れました。その時、アビシャイはダビデに「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます」と言いましたが、ダビデはこの言葉を制し、サウルに手を掛けることをせず、ただ、サウルの槍と水差しだけを取って行きました。ダビデは最後の最後まで、悪に悪をもって報いることをせず、サウル王に対し忠誠を尽くし、サウル王を祝福したのです。なぜなら、主がそれほど遠からずサウルを打たれること、つまり時が来て死ぬか、戦に出て殺されるであろうことを確信していたからです。復讐を主の手にお委ねしたのです。神様だけが善なるお方であり、復讐は神様がなさいます。ダビデは、決して悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いなかったのです。キリスト者のこの奇妙な生き方を通して、不思議な生き方を通して、世に福音が宣べ伝えられ、また、同時に、不信者の頭の上に燃える炭火を積むことになるということがここに暗示されているのです。
【結論】
私たちが神様に召された目的、それは、祭司の務めを果たすことであります。悪に対し善をもって報いること、侮辱に対し祝福によって報いること、敵を愛し、平和を願い、舌を制して、とりなす事、このようなキリスト者の善良な生き方は、世の人々から見ると大変奇妙であり、大変不思議であり、理解に苦しむのです。しかし、まさにこの不思議さこそが、私たちを召してくださった神の力ある御業を証しすることであり、即ち福音を宣べ伝えることになるのです。私たちはこの務めのために忍耐しながら、御言葉によって養われ、成長するようにと勧められています。そうすることによって天に豊かな宝を積むことになり、祝福を嗣業として受け継ぐことになるからです。