2019年09月22日「神の箱の帰還 하나님의 궤의 귀환」

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神の箱の帰還 하나님의 궤의 귀환

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 6章1節~7章1節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1主の箱は、七か月の間ペリシテの地にあった。
2ペリシテ人は、祭司たちと占い師たちを呼んで尋ねた。「主の箱をどうしたものでしょう。どのようにしてあれを元の所に送り返したらよいのか、教えてください。」
3彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すにあたっては、何も添えずに送ってはならない。必ず賠償の献げ物と共に返さなければならない。そうすれば、あなたたちはいやされ、神の手があなたたちを離れなかった理由も理解できよう。」
4ペリシテ人は言った。「それでは、返すにあたって、賠償の献げ物は何がよいのでしょうか。」彼らは答えた。「同一の災厄があなたたち全員とあなたたちの領主にくだったのだから、ペリシテの領主の数に合わせて、五つの金のはれ物と五つの金のねずみにしなさい。
5はれ物の模型と大地を荒らすねずみの模型を造って、イスラエルの神に栄光を帰すならば、恐らくイスラエルの神は、あなたたち、あなたたちの神々、そしてあなたたちの土地の上にのしかかっているその手を軽くされるだろう。
6なぜ、あなたたちは、エジプト人とファラオがその心を固くしたように、心を固くするのか。神が彼らを悩ませたので、彼らはイスラエル人を行かせざるをえなくなり、イスラエル人は去って行ったではないか。
7今、新しい車一両と、まだ軛をつけたことのない、乳を飲ませている雌牛二頭を用意しなさい。雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して小屋に戻しなさい。
8主の箱を車に載せ、賠償の献げ物として主に返す金の品物を箱に入れ、傍らに置きなさい。それを送り出し、行くがままにしなさい。
9そして見ていて、それが自分の国に向かう道を、ベト・シェメシュへ上って行くならば、我々に対してこの大きな災難を起こしたのは彼らの神だ。もし、その方向に上って行かなければ、彼らの神の手が我々を打ったのではなく、偶然の災難だったのだということが分かる。」
10人々はそのとおりに行った。乳を飲ませている二頭の雌牛を連れて来て車につなぎ、子牛を小屋に閉じ込めた。
11主の箱を車に載せ、金で造ったねずみとはれ物の模型を入れた箱も載せた。
12雌牛は、ベト・シェメシュに通じる一筋の広い道をまっすぐに進んで行った。歩きながら鳴いたが、右にも左にもそれなかった。ペリシテの領主たちは、ベト・シェメシュの国境まで後をつけて行った。
13ベト・シェメシュの人々は谷あいの平野で小麦を刈り入れていたが、目を上げると主の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。
14車はベト・シェメシュの人ヨシュアの畑に着くと、そこに止まった。そこには大きな石があったので、人々は車に使われた木材を割り、雌牛を焼き尽くす献げ物として主にささげた。
15レビ人たちは主の箱と、その脇に置いてあった金の品物の入った箱とを下ろし、大きな石の上に置いた。その日ベト・シェメシュの人々は、焼き尽くす献げ物や、他のいけにえを主にささげた。
16ペリシテの五人の領主はこれを見届けると、その日のうちにエクロンへ戻った。
17ペリシテ人が、主に賠償の献げ物として送った金のはれ物は、アシュドドのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガトのために一つ、エクロンのために一つである。
18金のねずみの数は、ペリシテの砦の町から田舎の村まで、五人の領主に属するペリシテ人のすべての町の数に合っていた。主の箱が置かれた大きな石は、今日でも、ベト・シェメシュの人ヨシュアの畑にある。
19主はベト・シェメシュの人々を打たれた。主の箱の中をのぞいたからである。主は五万のうち七十人の民を打たれた。主が民に大きな打撃を与えられたので、民は喪に服した。
20ベト・シェメシュの人々は言った。「この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか。我々のもとから誰のもとへ行っていただこうか。」
21彼らはキルヤト・エアリムの住民に使者を送って言った。「ペリシテ人が主の箱を返してきました。下って来て、主の箱をあなたがたのもとに担ぎ上ってください。」
1キルヤト・エアリムの人々はやって来て、主の箱を担ぎ上り、丘の上のアビナダブの家に運び入れた。そして、アビナダブの息子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 6章1節~7章1節

原稿のアイコン日本語メッセージ

契約の箱は、ペリシテ人の町の行く所々において大きな災いをもたらしました。このことから「たとえイスラエルの民が敗北しても、神の栄光は決して敗北することはない」、「神ご自身が神であられることを中断されることはなく、万物を統治しておられる神さまは永遠に変わらないお方である」ということを、前回学びました。本日の箇所は、契約の箱の帰還について書かれています。概略を説明しますと、ペリシテ人は、契約の箱の前に完全に降伏し、自分たちの祭司たち、占い師たちを呼び集め、どのようにして箱を元の場所にお返しできるのか、協議し始めました。その結果、イスラエルに対し、ただ箱だけ送り返すのではなく、「賠償の献げ物」を共にして送り返そうということになりました。賠償の献げ物として、ペリシテの領主の数に合わせて、五つの金のはれ物と五つの金のねずみを贈ることにしました。さらに、それの実行の際には、聖なる神にふさわしく、彼らの考える得る最善の仕方によって遂行され、ベト・シェメシュに箱を送り届けることに成功しました。一方、ベト・シェメシュの人々は、契約の箱が帰って来たと喜びましたが、次の瞬間、ベト・シェメシュの住民の内、70人が打たれるという悲劇が起こります。民は喪に服し、契約の箱をキルヤト・エアリムに運んで行ってもらうことにしたというのが大まかな内容です。1節を見ますと、「7ヵ月の間ペリシテの地にあった。」とあります。ペリシテ人の五大都市ではなく、7ヵ月の間「地に」、ヘブライ語で「サデ」となっていて、「野原とか畑」に、そのまま放置されていたわけです。サデという単語は、14節の「ヨシュアの畑」にも使われています。従いまして箱の帰還とは、「ペリシテ人の畑」から、14節のベト・シェメシュにある「ヨシュアの畑」に到着することによって完了したということでしょう。しかし、契約の箱の帰還はイスラエルの民にとって単純におめでたいことではなく、さらなる問題を引き起こしました。それは、20節にあるベト・シェメシュの人々の叫びであり、本日の主題でもあります。

“この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか。我々のもとから誰のもとへ行っていただこうか。”

このベト・シェメシュの叫びと似たような叫びが以前にもありました。それはペリシテの陣営の中から叫ばれた声です。5:8を御覧ください。

“彼らは人をやってペリシテの領主を全員集め、「イスラエルの神の箱をどうしたものか」と尋ねた。彼らは答えた。「イスラエルの神の箱をガトへ移そう。」イスラエルの神の箱はそこに移された。”

続いて6:2を御覧ください。

“ペリシテ人は、祭司たちと占い師たちを呼んで尋ねた。「主の箱をどうしたものでしょう。どのようにしてあれを元の所に送り返したらよいのか、教えてください。」”

つまり、ペリシテの陣営で叫ばれた声が、契約の箱が帰還した後に、全く同じようにイスラエルの陣営からも叫ばれたということです。この箇所を通して神さまは私たちに何を教えようとされているのかを考えてまいります。最初に、ペリシテ人の態度に注目しましょう。5~6節にある彼らの祭司たちと占い師たちの言葉を御覧ください。

“はれ物の模型と大地を荒らすねずみの模型を造って、イスラエルの神に栄光を帰すならば、恐らくイスラエルの神は、あなたたち、あなたたちの神々、そしてあなたたちの土地の上にのしかかっているその手を軽くされるだろう。なぜ、あなたたちは、エジプト人とファラオがその心を固くしたように、心を固くするのか。神が彼らを悩ませたので、彼らはイスラエル人を行かせざるをえなくなり、イスラエル人は去って行ったではないか。”

ペリシテ人はエジプトの教訓から、イスラエルの神を畏れ、イスラエルの神に栄光を帰すことに細心の注意を払っています。神が自分たちに怒りを表わされ、神の御手が重くのしかかっておられるために、災いが起こっていることを正確に悟っていました。彼らが準備した「賠償の献げ物」は、律法に規定されているものとは異なります。レビ記5章によれば、「賠償の献げ物」は、本来、償いの額に相当する無傷の雄羊を献げるとありますが、御言葉を知らないペリシテ人にとって、神の怒りをなだめるために、そして神の手を軽くしてくれるようにと願いながら、彼らなりに、精一杯のことをしているのです。昔エジプトのファラオは、心を固くしたために、神の手が重くのしかかりました。結果として、十の災いをエジプトに招いてしまいました。ペリシテ人はファラオと同じ間違いをしないように、神に降伏し、神の怒りがなだめられ、災いが去るようにと願っています。これは賢明で、適切な態度だと言えるでしょう。自分自身を何か一角の者として、何かV.I.Pかのように重要人物として考えてはなりません。エジプトのファラオはどうしてもヤハウェなる神の前にへりくだることができず、最後まで自分をV.I.Pと考えて素直に降伏することができなかったからです。ペリシテ人は、実際に献げ物を送り届ける際においても、新しい車を使用したり、まだ軛をかけて労働させたことのない牛を選びました。つまり、神にふさわしく一度も使用されていない車と二頭の雌牛を準備し、そして、人間が御するのではなく、雌牛に引かせることによって、神の御心を伺っています。7~12を御覧ください。

“今、新しい車一両と、まだ軛をつけたことのない、乳を飲ませている雌牛二頭を用意しなさい。雌牛を車につなぎ、子牛は引き離して小屋に戻しなさい。主の箱を車に載せ、賠償の献げ物として主に返す金の品物を箱に入れ、傍らに置きなさい。それを送り出し、行くがままにしなさい。そして見ていて、それが自分の国に向かう道を、ベト・シェメシュへ上って行くならば、我々に対してこの大きな災難を起こしたのは彼らの神だ。もし、その方向に上って行かなければ、彼らの神の手が我々を打ったのではなく、偶然の災難だったのだということが分かる。」人々はそのとおりに行った。乳を飲ませている二頭の雌牛を連れて来て車につなぎ、子牛を小屋に閉じ込めた。主の箱を車に載せ、金で造ったねずみとはれ物の模型を入れた箱も載せた。雌牛は、ベト・シェメシュに通じる一筋の広い道をまっすぐに進んで行った。歩きながら鳴いたが、右にも左にもそれなかった。ペリシテの領主たちは、ベト・シェメシュの国境まで後をつけて行った。”

この二頭の雌牛には乳を与えている子牛がいましたが、子どもは引き離され小屋に戻しておいたので、親である牛は、当然、子牛の所により道をしたり、小屋の周りをうろうろしそうです。ところが雌牛は泣きながらも、ベト・シェメシュへの道を真っすぐに進んでいきました。右にも左にもそれなかったと書かれています。しかもベト・シェメシュは、標高917フィートの丘陵地帯にある町ですから、その道は平地ではなく上り坂だったのです。このことによって、ペリシテへの災いが偶然に起きたものではなく、契約の箱に臨在される神によって引き起こされたことを確認したのです。ちなみに、旧約の人々は御言葉が十分に与えられていなかったため、しるしを求めたり、ウリムとトンミムというくじなどを通して、神の神託を求めたりしました。しかし、現代の私たちは、決して同じように、くじで神の御心を求めるべきではありません。私たちには神の啓示が完成した旧新訳聖書が与えられているからです。聖書の御言葉から神の御心を求めるべきです。ベト・シェメシュという町は、ペリシテとの国境付近にあるレビ人が住む町でした。ヨシュア記21章13~16節をお読みします。そのままお聞きください。

“祭司アロンの子孫に与えられたのは、殺害者の逃れの町であるヘブロンとその放牧地のほか、リブナ、ヤティル、エシュテモア、ホロン、デビル、アシャン、ユタ、ベト・シェメシュとそれぞれの放牧地など、二部族から分けられた九つの町、”

ですから祭司たちが多く住んでいたと思われます。ちょうど小麦の刈り入れの時期でしたので、多くの人が野に出ていました。そこへ契約の箱が二頭の牛に引かれてきて、大きな石があるところで止まりました。ベト・シェメシュの人々は喜んで、車に使われた木材を割り、大きな石を即席の祭壇とし、雌牛を焼き尽くす献げ物として主に捧げました。ところがこの時、主の箱の扱いに熟知していたはずのレビ人であるベト・シェメシュの人々は、こともあろうに、民が触れることも禁じられている主の箱の中を覗いてしまいました。70人訳聖書を見ると、エコニヤの子らが主の箱を覗いて、箱の帰還を共に喜ばなかったと書かれています。このような恐ろしい罪に対し神の怒りがベト・シェメシュ人々に下されます。70人の民が打たれ、民は喪に服し、おそらく翌朝には、キルヤト・エアリムの住民に使者を送り、せっかく戻ってきた契約の箱を持って行ってもらいたいと要請しています。20節~7章1節を御覧ください。

“ベト・シェメシュの人々は言った。「この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか。我々のもとから誰のもとへ行っていただこうか。」彼らはキルヤト・エアリムの住民に使者を送って言った。「ペリシテ人が主の箱を返してきました。下って来て、主の箱をあなたがたのもとに担ぎ上ってください。」キルヤト・エアリムの人々はやって来て、主の箱を担ぎ上り、丘の上のアビナダブの家に運び入れた。そして、アビナダブの息子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。”

キルヤト・エアリムは、ベト・シェメシュからやや北東に位置する町であり、ギブオンの近くの町です。地図で確認してみましょう。巻末地図5にベト・シェメシュがあり、巻末地図4にギブオンとキルヤト・エアリムが確認できます。キルヤト・エアリムに契約の箱は、置かれることになりますが、ペリシテの野に放置されている期間よりもさらに長い20年間もそこに置かれるのです。ここで、私たちは一つの疑問が起こります。「それではなぜ、契約の箱がイスラエルに戻ってきたのに、キルヤト・エアリムがシロに代わるイスラエルの中央聖所として機能しなかったのだろうか」という疑問です。それは、この場所が確かに地理的にはイスラエルの領土であるとはいえ、極めて非イスラエル的な町であったからです。第一にベト・シェメシュと同じようにペリシテとの国境線付近にありましたから、若干なりともペリシテの影響が及んでいたと思われることです。第二に、歴史的にキルヤト・エアリムという町はカナンの先住民の一つであるギブオン人が残存する、異教的な町でした。ギブオン人はなぜイスラエルのカナン入植の際に滅ぼされなかったのでしょうか。その理由がヨシュア記9:3~6節に書かれています。

“ところがギブオンの住民は、ヨシュアがエリコとアイに対してしたことを聞き、賢く立ちまわった。彼らは使者を装い、古びた袋、使い古して繕ってあるぶどう酒の革袋をろばに負わせ、継ぎの当たった古靴を履き、着古した外套をまとい、食糧として干からびたぼろぼろのパンを携えた。彼らはギルガルの陣営に来てヨシュアとイスラエル人に、「わたしたちは遠い国から参りました。どうか今、わたしたちと協定を結んでください」と言うと、”

続いて9:15~18節を御覧ください。

“ヨシュアは彼らと和を講じ、命を保障する協定を結び、共同体の指導者たちもその誓いに加わった。協定を結んでから三日後、彼らが近くの者で、自分たちのうちに住んでいることを聞くと、イスラエルの人々はそこをたって、三日目に彼らの町ギブオン、ケフィラ、ベエロト、キルヤト・エアリムに着いた。イスラエルの人々は、共同体の指導者たちがイスラエルの神、主にかけて誓いを立てていたので、彼らを攻撃はしなかったが、共同体全体は指導者たちに不平を鳴らした。

このようにして、ギブオン人は、選民イスラエルの芝刈りや水くみなどの下働きとして滅ぼされず、生き残ったのでした。また、アビナダブの家とは、士師記18章において、ミカが自分のために祭司を雇い、彫像や、エフォド、テラフィムなどを置いて、勝手に聖所のようにしていた場所が「ミカの家」と呼ばれていたように、同じように、アビナダブが自分のために聖所を作り、神に伺いを立てるレビ人を雇った場所であったと考えられます。一言でいえば、自分のために「聖なる高台」を勝手に作った、ご利益宗教の家、それがアビナダブの家であったということです。せっかく契約の箱はイスラエルに戻ってきたのに、イスラエルの手から離れ、ペリシテにもイスラエルにも完全には属さない、キルヤト・エアリムの地に収められたという奇妙な話です。ここにおいて、私たちは、もう一度ベト・シェメシュの人々の叫びである、“この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか。”という言葉の答えを深く考えなければなりません。この一連の事件が私たちに教えてくれることは、神の御前に立つことを当然のことのように考えたり、それが自分の所有している権利として考えてはならないということです。イスラエルという人種によって、その血統によって聖なる神の御前に立ち得るのではなく、神の御前に立つための資格を持つ人間は誰一人いないのです。ベト・シェメシュのレビ人のように、あたかも鍋の蓋を開けるかのように、契約の箱の、贖罪の蓋を持ち上げて中を覗くという行為は、言語道断でした。私たちはみな、全的に堕落した罪人であり、軽々しく、聖なる神を自分の仲間や相棒のように考えてはなりません。万物の創造主であられ、全知全能の神と、罪びとである人間との間には、深い断絶が存在します。私たちは決して超越しておられる神を十分に理解することはできませんし、神を見極め、私たちの知識の範疇の中に拘束することはできません。私たちはただ、御前に恐れを持って仕え、全き従順によって神に応答するのみです。そして、私たちが神の御前に立つことができるのは、さらに神を父として祈ることができるのは、ただ、神の恵みによるのであり、イエス・キリストの立てられた功を通して、許されているということを思い起こさなければなりません。権利ではなく、恵みなのです。神の絶対的な聖さと、そして人間の罪深さと、キリストの恵みについて、もう一度、頭の中に想起しながら、新しい一週間を歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 궤의 귀환

2019년 9월 22일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

사무엘상 6장 1~7장 1절

언약궤는 블레셋 마을의 가는 곳마다 큰 재앙을 가져왔습니다. 이를 통해 「설령 이스라엘 백성이 패배하더라도 하나님의 영광은 결코 패배하는 일이 없다」, 「하나님 자신이 하나님이 되시는 것을 중단하시지 않을 것이며, 만물을 통치하고 계시는 하나님은 영원히 변하지 않는 분이시다」라는 것을 지난번에 배웠습니다. 오늘의 부분은 언약궤의 귀환에 관해서 쓰여져 있습니다. 개략적으로 설명하자면 블레셋 사람들은 언약궤 앞에 완전히 항복하여 자신들의 제사장, 복술자들을 불러 모아 어떻게 궤를 제자리에 돌려줄 수 있는지 협의하기 시작했습니다. 그 결과 단지 거저 보내는 것이 아니라 배상 헌정물로서 「속건제」를 드려야 겠다고 결정했습니다. 속건제로서는 블레셋 방백의 수효대로 금 독종 다섯과 금 쥐 다섯 마리를 보내기로 했습니다. 또한 그것을 실행할 때에는 거룩한 신에 걸맞게 그들이 생각하는 최선의 방법으로 수행되어 벧세메스로 궤를 보내는 데 성공했습니다. 한편 벧세메스 사람들은 언약궤가 돌아왔다며 기뻐했지만 다음 순간 벧세메스 주민 중 70명이 하나님의 치심으로 죽음을 맞이하는 비극이 일어납니다. 백성들은 상을 당해 언약궤를 기럇여아람으로 옮겨 가기로 했다는 것이 대략적인 내용입니다. 1절을 보면 「여호와의 궤가 블레셋 사람들의 지방에 있은 지 일곱 달이라」라고 쓰여져 있습니다. 블레셋의 5대 도시가 아니라 7개월 동안 「지방에」, 히브리어로 「사데」로 되어 있고 「들판이나 밭」에 그대로 방치되어 있었던 것입니다. 사데라는 단어는 14절 「여호수아의 밭」에도 쓰이고 있습니다. 따라서 궤의 귀환이란 「블레셋인의 밭」에서 14절 벧세메스에 있는 「여호수아의 밭」에 도착함으로써 완료 되었다는 것이겠지요. 그러나 언약궤의 귀환은 이스라엘 백성들에게 단순히 경사스러운 일이 아니라 또 다른 문제를 일으켰습니다. 그것은 20절에 있는 벧세메스의 사람들의 부르짖음이자 오늘의 주제이기도 합니다.

이 거룩하신 하나님 여호와 앞에 누가 능히 서리요 그를 우리에게서 누구에게로 올라가시게 할까 하고

이 벧세메스의 부르짖음과 비슷한 부르짖음이 이전에도 있었습니다. 그것은 블레셋 진영 안에서 부르짖은 목소리입니다. 5장8절을 보시기 바랍니다.

이에 사람들을 보내어 블레셋 사람들의 모든 방백을 모으고 이르되 우리가 이스라엘 신의 궤를 어찌하랴 하니 그들이 대답하되 이스라엘 신의 궤를 가드로 옮겨 가라 하므로 이스라엘 신의 궤를 옮겨 갔더니

이어서 6장 2절을 봐 주시기 바랍니다.

블레셋 사람들이 제사장들과 복술자들을 불러서 이르되 우리가 여호와의 궤를 어떻게 할까 그것을 어떻게 그 있던 곳으로 보낼 것인지 우리에게 가르치라

즉, 블레셋 진영에서 부르짖었던 목소리가 언약궤가 귀환한 후에 똑같이 이스라엘 진영에서도 외쳤다는 것입니다. 이 부분을 통해 하나님은 우리에게 무엇을 가르치시려고 하시는지 생각해 나갑시다. 먼저 블레셋 사람들의 태도에 주목해 봅시다. 5,6절에 있는 그들의 제사장들과 복술자들의 말을 보세요.

5 그러므로 너희는 너희의 독한 종기의 형상과 땅을 해롭게 하는 쥐의 형상을 만들어 이스라엘 신께 영광을 돌리라 그가 혹 그의 손을 너희와 너희의 신들과 너희 땅에서 가볍게 하실까 하노라

6 애굽인과 바로가 그들의 마음을 완악하게 한 것 같이 어찌하여 너희가 너희의 마음을 완악하게 하겠느냐 그가 그들 중에서 재앙을 내린 후에 그들이 백성을 가게 하므로 백성이 떠나지 아니하였느냐

블레셋 사람은 애굽의 교훈에서 이스라엘의 신을 경외하고 이스라엘의 신에게 영광을 돌리는 데 세심한 주의를 기울이고 있습니다. 하나님께서 자신들에게 분노를 표하시고 하나님의 손이 엄중하게 내리시기 때문에 재앙이 일어나고 있음을 정확하게 깨닫고 있었습니다. 그들이 준비한 「속건제」는 율법에 규정된 것과는 다릅니다. 레위기 5장에 따르면 「속건제」는 본래 보상의 액수에 해당하는 흠 없는 숫양을 바칠 수 있다고 되어 있는데, 말씀을 모르는 블레셋 사람들에게는 신의 분노를 달래기 위해 그리고 신의 손이 가볍게 되기를 바라며 그들 나름대로 최선을 다하고 있는 것입니다. 옛날 애굽의 바로는 마음을 강퍅하게 하였기 때문에 하나님의 손이 엄중했습니다. 결과적으로 열 가지 재앙을 애굽으로 불러들이고 말았습니다. 블레셋 사람들은 바로와 같은 실수를 하지 않기 위해 신께 항복하고 신의 분노가 달래지고 재앙이 사라지기를 바라고 있습니다. 이것은 현명하고 적절한 태도라고 할 수 있습니다. 자신을 뭔가 특별한 사람으로 뭔가 VIP처럼 중요 인물로 생각해서는 안 됩니다. 애굽의 바로는 차마 여호와이신 하나님 앞에 굴복할 수 없었고, 끝까지 자신을 VIP로 생각하여 순순히 항복할 수 없었기 때문입니다. 블레셋 사람은 실제로 헌물을 보낼 때에도 새 수레를 만들어 멍에를 메어 보지 아니한 소를 선택했습니다. 즉 신에게 걸맞는 한 번도 사용하지 않은 수레와 두 마리의 젖소를 준비하고 인간이

끄는 것이 아니라 두 마리의 소에게 끌게 함으로써 신의 마음을 구하고 있는 것입니다. 7~12절을 보시기 바랍니다.

7 그러므로 새 수레를 하나 만들고 멍에를 매어 보지 아니한 젓 나는 소 두 마리를 끌어다가 소에 수레를 메우고 그 송아지들은 떼어 집으로 돌려보내고

8 여호와의 궤를 가져다가 수레에 싣고 속건제로 드릴 금으로 만든 물건들은 상자에 담아 궤 곁에 두고 그것을 보내어 가게 하고

9 보고 있다가 만일 궤가 그 본 지역 길로 올라가서 벧세메스로 가면 이 큰 재앙은 그가 우리에게 내린 것이요 그렇지 아니하면 우리를 친 것이 그의 손이 아니요 우연히 당한 것인 줄 알리라 하니라

10 그 사람들이 그같이 하여 젖 나는 소 둘을 끌어다가 수레를 메우고 송아지들은 집에 가두고

11 여호와의 궤와 및 금 쥐와 그들의 독종의 형상을 담은 상자를 수레 위에 실으니

12 암소가 벧세메스 길로 바로 행하여 대로로 가며 갈 때에 울고 좌우로 치우치지 아니하였고 블레셋 방백들은 벧세메스 경계선까지 따라 가니라

이 두 마리의 암소에게는 젖을 먹이고 있는 송아지가 있었는데 송아지는 떨어뜨려 집에 가두었기 때문에 어미 소는 당연히 송아지에게 가거나 집 주위를 서성거릴 것입니다. 그런데 젖소는 울면서도 벧세메스로 가는 길로 바로 행하여 대로로 걸어갔습니다. 좌우로 치우치지 아니하였다고 적혀 있어요. 게다가 벧세메스는 해발 917피트의 구릉지대에 있는 마을이기 때문에 그 길은 평지가 아니라 오르막길이었던 것입니다. 이로 인해 블레셋 사태에 대한 재앙이 우연히 일어난 것이 아니라 언약궤에 임하시는 하나님에 의해 야기되었음을 확인한 것입니다. 참고로 구약 사람들은 말씀이 충분히 주어지지 않았기 때문에 증표를 구하거나 우림과 둠밈이라는 제비를 통해 하나님의 신탁을 구했습니다. 그러나 오늘을 사는 우리는 결코 그와같이 제비로 하나님의 마음을 구해서는 안 됩니다. 우리에게는 하나님의 계시가 완성된 구약과 신약의 성경이 주어져 있기 때문입니다. 성경 말씀에서 하나님의 마음을 구해야 합니다. 벧세메스라는 마을은 블레셋과의 국경 부근에 있는 레위인이 사는 마을이었습니다. 여호수아서 21장 13~16절을 읽어드리겠습니다. 그대로 들어 보시죠.

13 제사장 아론의 자손에게 준 것은 살인자의 도피성 헤브론과 그 목초지이요 또 립나와 그 목초지와

14 얏딜과 그 목초지와 에스드모아와 그 목초지와

15 홀론과 그 목초지와 드빌과 그 목초지와

16 아인과 그 목초지와 윳다와 그 목초지와 벧 세메스와 그 목초지이니 이 두 지파에서 아홉 성읍을 냈고

그래서 제사장들이 많이 살았던 것 같아요. 마침 밀 수확시기였기 때문에 많은 사람들이 들에 나와 있었습니다. 거기에 언약궤가 두 마리의 소에 이끌려 왔고 수레가 벧세메스 사람 여호수아의 밭 큰 돌 있는 곳에 이르러 서자 무리가 수레의 나무를 패고 그 암소들을 번제물로 여호와께 드렸습니다. 그런데 이때 하나님의 궤를 다루는데 익숙했을 레위인인 벧세메스 사람들은 하필이면 백성들이 만질 수도 없는 하나님의 궤의 안을 들여다보고 말았습니다. 70인역 성경을 보면 여고냐의 아들들 이 하나님의 궤를 들여다보고 궤의 귀환을 함께 기뻐하지 않았다고 적혀 있습니다. 이러한 무서운 죄에 대해 하나님의 분노가 벧세메스 사람들에게 내려집니다. 70명의 백성들이 치심을 당해 죽었고 아마도 다음날 아침에는 기럇여아림 주민들에게 사자를 보내 모처럼 돌아온 언약궤를 가져가 달라고 요청하고 있습니다. 20~7장 1절을 보시기 바랍니다.

20 벧세메스 사람들이 이르되 이 거룩하신 하나님 여호와 앞에 누가 능히 서리요 그를 우리에게서 누구에게로 올라가시게 할까 하고

21 전령들을 기럇여아림 주민에게 보내어 이르되 블레셋 사람들이 여호와의 궤를 도로 가져왔으니 너희는 내려와서 그것을 너희에게로 옮겨 가라

7장

1 기럇여아림 사람들이 와서 여호와의 게를 옮겨 산에 사는 아비나답의 집에 들여놓고 그의 아들 엘리아살을 거룩하게 구별하여 여호와의 궤를 지키게 하였더니

기럇여아림은 벧세메스에서 약간 북동쪽에 위치한 마을로 기브온 근처 마을입니다. 지도에서 확인해보시겠습니다. 권말지도 4에 기브온과 기럇여아림을 확인할 수 있습니다. 기럇여아림에 언약궤는 놓이게 되는데 블레셋 들판에 방치되어 있는 기간보다 더 긴 20년 동안이나 거기에 놓이게 되는 것입니다. 여기서 우리는 하나의 의문이 생깁니다. “그렇다면 왜 언약궤가 이스라엘로 돌아왔는데 기럇여아림이 실로를 대체하는 이스라엘의 중앙성소 역할을 하지 않았을까”하는 의문입니다. 그것은 이 장소가 확실히 지리적으로는 이스라엘의 영토라고는 하지만 지극히 비이스라엘적인 마을이었기 때문입니다. 첫째, 벧세메스와 마찬가지로 블레셋의 영향이 미치고 있었다고 생각되는 것입니다. 둘째, 역사적으로 기럇여아림이라는 마을은 가나안의 원주민 중 하나인 기브온 주민들이 잔존하는 이교적인 마을이었습니다. 기브온 주민들은 왜 이스라엘이 가나안에 정착했을 때 멸절 당하지 않았을까요? 그 이유가 여호수아서 9장 3~6절에 적혀 있습니다.

3 기브온 주민들이 여호수아가 여리고와 아이에 행한 일을 듣고

4 꾀를 내어 사신의 모양을 꾸미되 헤어진 전대와 해어지고 찢어져서 기운 가죽 포도주 부대를 나귀에 싣고

5 그 발에는 낡아서 기운 신을 싣고 낡은 옷을 입고 다 마르고 곰팡이가 난 떡을 준비하고

6 그들이 길갈 진영으로 가서 여호수아에게 이르러 그와 이스라엘 사람들에게 이르되 우리는 먼 나라에서 왔나이다 이제 우리와 조약을 맺읍시다 하니

이어서 9장 15~18절을 참고해 주세요.

15 여호수아가 곧 그들과 화친하여 그들을 살리리라는 조약을 맺고 회중 족장들이 그들에게 맹세하였더라

16 그들과 조약을 맺은 후 사흘이 지나서야 그들이 이웃에서 자기들 중에 거주하는 자들이라 함을 들으니라

17 이스라엘 자손이 행군하여 셋째 날에 그들의 여러 성읍들에 이르렀으니 그들의 성읍들은 기브온과 그비라와 브에롯과 기럇여아림이라

18 그러나 회중 족장들이 이스라엘의 하나님 여호와로 그들에게 맹세했기 때문에 이스라엘 자손이 그들을 치지 못한지라 그러므로 회중이 다 족장들을 원망하니

이렇게 해서 기브온 주민들은 선민 이스라엘의 나무를 패며 물을 긷는 자가 되어 멸절 당하지 않고 살아남았습니다. 또 아비나답의 집이란 사사기 18장에서 미가가 자신을 위해 제사장을 고용하고 조각상이나 에봇, 드라빔 등을 놓아 멋대로 성소처럼 꾸민 장소가 「미가의 집」이라고 불렸던 것처럼, 마찬가지로 아비나답이 자신을 위해 성소를 만들고 하나님께 여쭙는 레위인을 고용한 곳이었다고 생각됩니다. 한마디로 자신을 위해 「산당」으로 마음대로 만든 기복신앙의 집, 그것이 아비나답의 집이었다는 것입니다. 모처럼 언약궤는 이스라엘로 돌아왔다해도 이스라엘의 손을 떠나 블레셋에도 이스라엘에도 완전히 속하지 않은 기럇여아림 땅에 들어갔다는 기묘한 이야기입니다. 여기서 우리는 다시 한번 벧세메스 사람들의 부르짖음인 「이 거룩하신 하나님 여호와 앞에 누가 능히 서리요」라는 말씀을 깊이 생각해야 합니다. 이 일련의 사건들이 우리에게 알려주는 것은 하나님 앞에 서는 것을 당연한 것처럼 생각하거나 그것이 자신이 소유한 권리로 생각해서는 안 된다는 것입니다. 이스라엘이라는 인종에 의해, 그 혈통에 의해 거룩한 하나님 앞에 설 수 있는 것이 아니라 하나님 앞에 설 자격을 가진 사람은 아무도 없습니다. 벧세메스의 레위인처럼 마치 냄비 뚜껑을 여는 것처럼 언약궤의 속죄의 뚜껑을 들어 안을 들여다보는 행위는 언어도단이었습니다. 우리 모두는 전적으로 타락한 죄인이며 거룩한 하나님을 자신의 동료나 파트너처럼 생각해서는 안 됩니다. 만물의 창조주이시며 전지전능하신 하나님과 죄인인 인간 사이에는 깊은 단절이 존재합니다. 우리는 결코 초월자이신 하나님을 충분히 이해할 수 없으며 하나님을 주시하고 우리 지식의 범주 안에 구속할 수 없습니다. 우리는 오직 하나님 앞에 두려움을 가지고 섬기고 온전한 순종으로 하나님께 응답할 뿐입니다. 그리고 우리들이 하나님 앞에 설수 있는 것은 나아가 하나님을 아버지로 기도할 수 있는 것은 오직 하나님의 은혜에 의한 것이며, 예수 그리스도가 세우신 공로를 통해서 용서받고 있음을 상기해야 합니다. 권리가 아니라 은혜인 것이죠. 하나님의 절대적인 거룩함과 인간의 죄성과 그리스도의 은혜에 대해 다시 한번 머릿속에 상기하며 새로운 한 주를 시작하도록 합시다.

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