御言葉によって主に養われよ
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- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 1章22節~2章2節
1:22あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
1:23あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
1:24こう言われているからです。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。
1:25しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
2:1だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
2:2生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
2:3あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章22節~2章2節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
イエス・キリストを信じ、上から新しく生まれ変わった人々は、神が良いお方であり、聖なる方であるのと同じように、自然に悪から離れ、聖さへの道を追求するようになっていきます。しかし、先週も学びましたように、聖められること、つまり聖化というものは、私たち自身がなしていく業ではなく、聖霊が私たちの信仰生活を通して、なしていく業であります。神の選びの民であるユダヤ人は、割礼を施し、神の選ばれた民というその外的な特権にも関わらず、聖められるどころか、逆に、心は頑なになり、律法に違反し、罪を犯して、全面的に腐敗して行き、そして、洗礼者ヨハネによる悔い改めの洗礼が必要とされました。つまり、律法を一生懸命に文字的に守り行うことによっては、新しく生まれ変わることはできなかったということです。新しく生まれ変わるためには、身体全体が水の中に浸されて、再び起き上がるかのように、悔い改めを通して、過去の人生と決別し、心が柔らかくされ、心の割礼を受けなければならないということです。クシュ人がその皮膚の色を変えることができないように、豹がその斑点の模様を変えることができないように、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、すべての人は、本性上不道徳なために、汚れているがために、人間の心の中から出て来るものは、専ら悪いものばかりでした。元の木が悪い木であるために、そこから結ばれる果実もやはり、悪いのであります。良い実を結ぼうとするためには、まず、良い木に結ばれる必要があり、これは神の一方的な恵みによって、上から新しく生まれ変わる、その恵みに与る以外には、道はありませんでした。
【1】. キリスト者が上から新しく生まれ変わったことは朽ちない種による。
上から新しく生まれ変わることを、ペトロは朽ちない種によって生まれると表現しています。種は小さいですが、その中には大変な生命力を秘めていますね。しかしペトロは、植物の、やがて朽ちていくような種ではなく、種は種でも、「朽ちない種によって、あなた方は新しく生まれたのですよ!」と言っています。朽ちない種と言いますから、どれだけ生命力を秘めていることでしょうか。22~23節をご覧ください。
“あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。”
それでは、この「朽ちない種」とは一体何かと言いますと、それは神の永遠に変わることのない「生きた御言葉」だということです。ペトロは以前にも1:3において、「生ける希望」という表現を使っていますが、本日のこの箇所では「生ける神の言葉」という表現を使っています。生けるというのは、生命力を持っているとか、死から蘇らせることができる、というふうに理解してください。私たちが普段放つ人の言葉でさえ、そこに不思議な力が宿っていると考えられて、日本では昔から「言霊」とか呼ばれたりしますから、いわんや人格を持っている神様の御言葉には、どれほどの超越的な力が宿っていることでしょうか。神の言葉というのは、私たちがただ、その真理の御言葉を「フムフム」と傍聴する対象のように、ただそれが、私たちの外にとどまっているだけではなく、私たちに中に植え付けられていると聖書は言います。ヘブライ書8:10(10:16)の御言葉によるなら、私たちの心の板に刻まれていると書かれています。実に、神は、この力ある超越的な御言葉によって無から有を創造され、天地万物を創造されたのです。私たちが上から新しく生まれ変わったのは、この神の朽ちない種によるものであり、つまり、昔も今も未来も永遠に変わることのない、アルファでありオメガである生ける御言葉によって新しく生まれ変えられた、再創造されたということです。1:24~25節にかけて、ペトロは、イザヤ書の御言葉を引用しながら、朽ちていく種と、朽ちることのない種を比較しています。“人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。”人間は言ってみれば、草のようであり、朽ちていく種によって一度、肉的に母の胎から生まれてまいります。人間の繁栄は草の花に過ぎません。この世において、いかに権力者が自分の勝利を勝ち誇っても、やがては花のように散って消え去り、草自体、枯れてしまうと言うのです。しかし、上から新しく生まれ変わるということは、朽ちない種によって、神の生ける御言葉によって、霊的に生まれ変わるということであり、アダムの子孫としては一度死んで、もはやアダムの子孫に属するものではなく、キリストに属する者として、生まれ変わった(再創造された)という事です。この種が朽ちない種であるが故に、信者は霊的な人として、永遠の命に生まれ変わったのであります。旧約聖書で、イスラエルの民が荒れ野において天からのマナを食べて困難を乗り越えたことができたのは、人がパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きることを教えられるためであったと、申命記には書かれています。申命記8:3をご覧ください。
“主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。”
つまり、荒れ野という厳しい環境の中で、イスラエルの民が、不思議に40年間も生きながらえることができたという奇跡的な出来事は、その奇跡を通して、人はパンだけでいきるのではなく、主の口から出る御言葉によって生きることを教えるためであったというのです。さらに、神のロゴスが人となって来られたイエス様も、同じようなことを言われました。ご自身のことを、信者を永遠に生かすことのできる、天からのパンであると言われたのです。ヨハネの福音書6:51をご覧ください。
“わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。”
荒れ野における天から降ってきたマナとは、やがて来られるイエス・キリストを予表していたという事が分かります。そして私たちが聖餐式で毎回パンを食べますね。あれは御言葉であられるイエス様を食べているのです。ですから、キリスト者がどのような困難の中にあっても、不思議に罪悪感と恐れから解放され、平安でいること、慰めと喜びで不思議に満たされているのは、朽ちない種である神の御言葉によって、新しく生まれ変わったため、そして永遠に生きる者とされたためであるということを、私たちは第一に覚えたいと思います。
【2】. キリスト者は乳飲み子のように、日々霊の乳を飲んで、救いが完成する
次に2:1~2節をご覧ください。
“だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。”
この時、ペトロは、手紙の読者たちについて、洗礼を受けたばかりの若くて、或いは、まだ未熟なクリスチャンであると想定していたということではありません。なぜなら、この手紙を受け取った人々のうちで、ある人々は30年以上のベテランのクリスチャンだったからです。ですからこの文脈における「混じりけのない霊の乳」というのは、初歩的なクリスチャンの教えを指しているのではありません。確かに、パウロの書簡では、「いつまでも乳ばかり飲んでいないで、固い食物を食べなさい」と勧めて、乳というのが、「初歩的な教え」を指していると考えられますが、この文脈において、霊の乳とは、ペトロによって語られた、福音そのもの、宣教の御言葉を指しています。キリストの御言葉です。旧約時代であれば、神の言葉と言えば、預言によって、ウリムとトンミムによって、幻や夢によって与えられるものだと考えられていたかもしれませんが、新約時代においては、神の御言葉は、使徒たちの告げ知らされた福音によって、彼らによって書き記された聖書の言葉によって、与えられるということです。この御言葉によってキリスト者は成長していくわけですが、それでは、その成長の目標は何かと言うと、2節の最後を見ますと「救い」であると書かれています。キリスト者は既に信仰によって聖なる者とされ、既に信仰によって救わたのではなかったのでしょうか?と思われる方もおられるでしょう。確かにその通りです。救いは既に始まっています。しかし、未だに「全き救い・全人的な救い」の完成には至っていないということです。心に撒かれた種が100倍60倍30倍の実を結ぶようにしなければなりません。天国に至るまで、信者は聖化されていく過程に置かれているというふうに理解してください。天国に積まれている資産を間違いなく信者に相続させるように、聖霊によって練り清められ、守り導かれるという過程です。出エジプトをした民がすぐに約束の地に入ることができたのではなく、荒れ野において信仰のトレーニングをしてから約束の地に入れられたように、キリスト者も、この地上で、旅人のように、巡礼者のように導かれる間に、少しずつ聖化されていき、少しずつイエス・キリストに似た者とされて、道徳的にも清められていき、やがて名実共に聖なる者とされるのです。1ヨハネ3:2には次のように書かれています。
“愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。”
ですから、私たちは倫理的にも聖くならなければなりません。「兄弟姉妹を清い心で深く愛し合い」、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去りなさい」と勧められています。このように勧めるのは、たとえ私たちが新しく生まれ変わり、聖なる者とされたとしても、この地上で生きる間、罪が決して信者たちから離れることがないからです。用心しなければなりません。ところで、2:1節の「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」とありますが、これらは、共同体の内に向けて、このような悪い態度が見受けられたのか、或いは共同体の外に向けて、このような悪い態度が見受けられたのか、はっきりしませんが、当時の状況を考えるなら、彼らキリスト者を迫害する共同体の「外の人々」に対して持っていた態度であっただろうと推測されます。なぜなら、共同体の外にいる人々がキリスト者に偏見を持ち、キリスト者をいじめたり、迫害していましたが、そのような者に対し、悪に対し悪をもって復讐するのではなく、悪に対し善をもって対応するように、そういったものを捨て去り、ただ乳飲み子のように御言葉の乳を慕い求めなさいと言っているように推測されるからです。想像してみていただけたらと思いますが、乳飲み子は、まだ良く目が見えない時から、母親の乳房を探し当てて、その乳をものすごい勢いで吸い出します。しかもそれを2~3時間ごとに繰り返しますから、乳を飲ませて、やっと寝付いたかなと思っても、またすぐに乳が欲しいと泣き叫びますので、母親は夜中に何度も何度も起こされてしまいます。ペトロが言わんとしているのは、御言葉が、そのように永遠に変わることのなく、生命力を持っていて、私たちを生かす、混じりけのない霊の乳であるのなら、私たちは、自分から積極的に神様の養いを求めて、熱心にそれを慕い求めなければならないということです。神様の御心を行おうとする者は、あたかも鹿が涸れた谷を彷徨い歩き、水を求めるように、神の御言葉である霊の乳を、渇きをもって、乳飲み子のように求めるべきです。御言葉は朽ちない神の種として信者の心の中で、恵みと真をもって治めるようになり、新しい生命の原理がその中に留まり、その原理は、もはや信者が罪を犯すことが出来ないように導いてくれるからです。この新しい生命は、私たちを日々新しくし、そして新しい力によって満たしてくださるのです。
【結論】
私たちは変わることも、朽ちることのない、永遠の命をもった「生ける種」によって、上から新しく生まれ変わりました。その心の撒かれた種を受け留めて、信仰によって救われましたが、なお、私たちは、全き救いの完成に到達するように、積極的に御言葉の乳を慕い求めなければならないという事です。なお、聖化の途上に置かれているということです。毎日聖書を読んで、或いは祈りを捧げて、或いはリジョイスなどの、御言葉の黙想を通して、引き続きイエス様と交わっていかなければならないという事です。私たちの心の中に撒かれたその朽ちない種は、からし種のように小さいものかもしれませんが、やがてそれが大きな木となって豊かな実を結ぶように、そして、少しずつイエス様に似る者として変えられるように、私たちは聖霊に導かれながら、この世の歩みを全うしていきましょう。