2021年01月10日「聖なる民としての召し」

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聖なる民としての召し

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章13節~21節

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1:13だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
1:14無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、
1:15召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
1:16「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
1:17また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。
1:18知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、
1:19きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
1:20キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。
1:21あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章13節~21節

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【序】

今、お読みした1ペトロの手紙は、皇帝ネロによるひどい迫害がまさに始まりつつある中で、小アジアの人々に書かれた手紙です。ペトロは、彼らに今の苦難は、やがての日に受けることになる栄光の序曲であることを説明しています。そして、この素晴らしい救いに与っている者として、キリスト者はどのような応答をしていくべきかについて13~17節に説明されています。それは即ち、目を覚まして、待ち望むことであり、従順の子として、そして聖なる者として歩みなさいということです。ペトロはキリスト者が取るべき態度を、断固とした口調で勧めていますが、それには理由がありました。その理由とは18~21節に書かれていますが、一言で言えば、キリストの血によって贖われたからだと言います。キリストの血とはこの世で何よりも尊いものであります。なぜなら「血は命」と言われますように、キリストの命が代価として支払われたからです。これより尊いものはありません。あまりいい例えではないかもしれませんが、例えて言うなら、水戸黄門の印籠のようなものでございます(偶像のように考えてはなりませんが)。「静まれ、静まれ、この印籠が目に入らぬか。 ここにおわすお方をどなたと心得る」と印籠を出すことによって全てが解決されるように、キリストの血こそ、キリスト者が取るべき態度を可能にさせてくれる鍵であり、救いが完全に成就される完成図であると言っているのです。ペトロの断固とした勧めというのは、この恵みに裏打ちされているがゆえの断固さであるということです。聖霊によって、必ずそのように守り導かれるために、そうしなさいと勧めているのです。この地上において神様が責任を持って聖徒たちを天の都に従順の者、聖なる者として守り導いてくださるということです。即ち、キリスト者の持っている希望というのが、確実に起こることに対する事柄を指しているのと同じように、キリスト者の地上による歩みも、イエス・キリストが成就してくださった恵みの業によって裏打ちされていて、聖霊の捺印によって保障されているという事です。

【1】. 目を覚まして、待ち望みなさい

それではペトロの断固とした、「勧め」に目を留めていきたいと思います。13節をご覧ください。

“だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。”

心を引き締めるとは、一体どういう意味かというと、ギリシア語を見ると「心の腰の帯を締めなさい」とあります。当時の人々の衣服は、今日のように上着とズボンには分かれておらず、帯で締めるという着こなしですから、何か仕事を始める時には、しっかり帯を締める必要がありました。この言葉は、出エジプトをする際に規定された「過越し祭」の御言葉を想起させます。あの夜、イスラエルは主によって命じられたように傷のない一歳の子羊をほふり、その血を家々の柱と鴨井に塗りました。それから、ほふられた子羊を火で焼いて食べて、「過越し祭」を献げてから、エジプトを出発しました。出エジプト記12:10~11をご覧ください。

“それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。”

この時、子羊の食べ方にも言及されています。「腰帯を締めなさい」と命じています。さらに、ユダヤ人はゆっくり交わりをしながら食事を取るのが普通でしたが、この時は「急いで食べなさい」と命じています。これはつまり、約束の地カナンに入るまで、身を慎みつつ、酒に酔ったりせず、覚醒していなさい、目を覚ましていなさい、ということだと思います。「目を覚ましていなさい」という教えは、新約時代になって、イエス様もさんざん弟子たちに譬えを用いながら教えられました。イスラエルの民が、腰の帯を締め、目を覚ましながら、荒れ野をさまよい、約束の地カナンの地に入って行ったように、同じように、私たちも、この荒れ野のような地上の生活において、目を覚ましていなければならないという事です。それから「待ち望みなさい」という言葉ですが、聖書において頻繁に出て来る言葉でして、「信仰」という言葉に置き換えてもいいような重要な言葉です。それは花嫁が一年間の婚約期間を待ち望むように、ひたすら婚約者である花婿を思いつつ、貞潔を保つ状態を想像していただければと思います。いつ花婿が来てもいいように、目を覚まし、火が消えないように油を準備しながら待ち望まなければなりません。ただ花婿のことだけを考え、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして花婿のことを愛し、待ち望まなければなりません。「目覚めていること」そして「待ち望むこと」、これはキリスト者の信仰の歩みにおいて大変重要な態度であると言えるのです。

【2】. 聖なる者となれ。わたしは聖なる者だから

しかしペトロの断固とした勧めは、これだけで終わりません。さらに続きます。14~16節をご覧ください。

“無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。”

ここの解釈は少し意見が分かれますが、「あなた方は、従順の子であり、聖なる方によって聖なる民として召されているので、これからは欲望に引きずられることのないように」と言っていると思われます。次のような意味ではありません。「今は従順な子どもではないが、今後、従順な子となれるようにしっかりやりなさい」、と言うのは、14節の「従順な子」とありますが、ギリシア語では「従順な」ではなく「従順の子」として、欲にひきずられることなく…と書かれていて、その人の本質が既に従順であるということを意味しているわけです。キリスト者は新しく生まれ変わり、その本質が既に「従順の子」として生まれ変わったという事です。同じように「聖なる者となりなさい」という命令も、自分で努力して聖なる者になるということではなく、既に聖なる者として、新しく生まれ変わったので、そのように歩みなさいという意味です。この「聖なる、聖い」とは、この世から分離され、取り分けられ、そして神の所有とされたという意味ですが、神様ご自身が、わたしたちの神となるために、わたしたちを選び出して、この世から取り分けられ、ご自身の所有とされたという事です。ですから、私たちは神様によって既に神の所有とされ、聖なる民として、世から取り分けられているのです。なぜならキリストの血が代価として支払われたからです。18~19節をご覧ください。

“知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。”

「贖う」という漢字には、貝辺がついていますね。つまり「贖う」という言葉は、お金と関係があるという事ですが、買い戻すという意味です。当時、イスラエルにおいてある人が大きな借金をしてしまい、それを返済することができなかった場合、奴隷になってしまうことがありましたが、奴隷は金や銀によって買い戻されました。しかも奴隷の買戻しが出来る人というのは、なるべく血統的にその奴隷に近い親族によって買い戻されるべきだという考えがありました。ペトロはこのような背景から語っています。「あなた方は、以前は罪の奴隷でしたよ。」しかし、「あなた方に大変近い、お身内の方が、あなた方を買い戻してくださり、自由にしてくださいました。」「そして、その贖いの代価とは、金や銀のような朽ち果てるものではなく、傷や汚れのないキリストの血、つまり、この世で何よりも尊いキリストの命である」と言っているのです。罪のない方の命、神の子の命が支払われて、私たちが買い戻されたということです。どれだけ、大きすぎるほどの代価が支払われたということでしょうか。このようにして、莫大な代価が支払われましたから、その血の力は、単にキリスト者を外的に奴隷状態から解放したということではありません。信じる者は、キリストの尊い血によって、罪の支配からも完全に贖い出され、自由とされて、そして神の所有とされ、聖なる者とされ、従順の子とされたのです。イエス様は十字架上で「成し遂げられた」と言われました。十字架上で完全に成就されたからこそ、私たちは、従順の子として新しく生まれ変わり、聖なる民として新しく生まれ変わったのです。もはや、私たちの身分はイエス様の所有として生まれ変わったのですから、イエスさまを愛し、イエス様を模範としながら、新しく生まれ変わった身分に相応しい歩みをしなさいということです。続いて1:17節をご覧ください。

【3】. 畏れをもって

“また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。”

イエス様の血によって聖別された私たちは、神の所有とされ、そして、神の御座に進み出て「父」と呼びかけることのできる特権をいただきました。しかし実際には、私たちの内に依然として罪は存在します。私たちがいただいた恵みは、罪深い私たちには全く相応しくないものでありました。その相応しくない恵みの故に、感謝と共に畏れなければなりません。ところで、ペトロは神の栄光と聖さをまざまざと体験した人物でした。彼は、ガリラヤ湖においてイエス様が船の上から説教できるように船を出しましたが、御言葉を語り終えられてから、イエス様はペトロに深みに出て網を投げなさいと言われました。まさか太陽が完全に昇ってしまったこのお昼時の時間に、魚が捕れるわけがないでしょうと思いましたが、ペトロはお言葉通りに深みに出て網を投げてみました。すると、大量の魚が網に引っかかり網が破れそうになったのです。この奇跡を通して、ペトロは主イエスの聖さと自分自身の罪をはっきりと見せつけられました。この時、ペトロは何と言っているでしょうか。ルカ5:8をご覧ください。

“これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。”

ペトロは主イエスの栄光と聖さの前に畏れています。また、ある時は、イエス様が、ペトロとヤコブとヨハネの三人を連れて、変貌山に昇られました。するとそこで神の栄光が臨み、イエス様とモーセとエリヤがキリストの十字架の贖いについて話し合っているお姿を目撃してしまいました。この時、ペトロは何と言っているでしょうか。マタイ17:6をご覧ください。

“弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。”

やはり、ここでも非常に恐れたと書かれています。聖なる神様の超越的な臨在がある時、人間は恐れるしかありません。神の圧倒的な栄光と聖さの前に、とても立ち尽くすことができず、自分の汚れや罪の故に恐れるしかないのです。神の所有とされ、また、神の御座に進み出て「父」と呼びかけることのできる特権は、身に余るほどの恵みであり、そのことに感謝と共に畏れるべきであるということです。私たちは、救いが完全に完成するまでは、この世で旅人として安らぐこともできず、仮住まいをしているかのようでありますが、既にキリストの血によって贖われ、従順の子とされ、聖なる民とされている、さらに、その新しい身分に向かって聖霊によって守り導かれていることに感謝と畏れを持つべきであります。

【結論】

ペトロの断固とした勧め、それは十字架においてすべて成就された恵みに裏打ちされた断固さであるということを学んできました。イエス・キリストが成就してくださった恵みの業の他には、何も付け加える必要はないということです。イエス様が、私たちお一人お一人の完成図をご覧になられ「成し遂げられた」とおっしゃってくださったからです。キリストの血によって成就され、聖霊の捺印によって保障され、必ず新しく生まれ変わったその身分へと守り導かれるが故に、ペトロは断固として勧めているのです。私たちのこの地上の歩みを神様が責任を持って、天の都へと守り導いてくださるのです。ですから私たちはキリストの花嫁としてふさわしく、目を覚まし、畏れをもって、欲望に引きずられることなく、花婿の来臨を待ち望む者とさせていただきましょう。

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