生ける望み
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- 川栄智章 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 1章3節~12節
1:3わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、
1:4また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。
1:5あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。
1:6それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、
1:7あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
1:8あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
1:9それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
1:10この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。
1:11預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。
1:12彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ペトロの手紙一 1章3節~12節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
本日は1ペトロの手紙から希望についてお話しさせていただきます。クリスチャンの特徴とは、一言で苦難の中にあっても希望に満ちているということではないでしょうか。南フランスのセヴェンヌ山脈に、「荒れ野博物館」というのがございます。そこは、宗教改革の時に迫害を受けたフランスの宗教改革者たち、いわゆる「ユグノー」と呼ばれていた人々の殉教を記念する博物館となっています。当時、フランスではローマカトリックしか認められていなかったため、ユグノーたちは捕らえられガレー船に送り込まれました。奴隷として、長椅子に鎖で縛られて、死ぬまでオールで船を漕がされました。博物館にはガレー船のオールの模型が展示されているようですが、そのオールの模型の下に “私を縛る鎖はキリストの愛の鎖である。”というユグノーの言葉が刻まれているようです。彼らは死を目前にしながら、キリストにある確かな希望をもっていました。また、昔、タイタニックという映画がありましたけれども、ご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。その映画の中で、音楽隊は讃美歌320番の「主よ、御下に近づかん」という曲を、沈みゆく船の中で動揺せず演奏していました。世の人々とクリスチャンとの違いとはまさに、苦難の中にあっても希望に満ちているということだと思います。それでは世の人々の持っている希望と、キリスト者が持っている希望の違いとは一体何なのでしょうか。それは荒波に漂流する人生の船の錨をどこに降ろしているのか、その違いであるというふうに言われたりします。自分を信じる人は自分自身に錨を降すことでしょう。すると、一般的には「若い時には喜びとか、希望のようなものもあったけれど、いかんせん年をとるとそういったものがなくなる」という事になってしまうと思います。若いうちは、身体の利く時は、いいけれど、年を取ると「ああ、あの時はよかった」という記憶で生きるだけで、年を取った今の生活には、喜びも希望もなくなってしまうのです。ところが、キリスト者はそうではない。キリスト者はイエス・キリストに錨を降しているからです。キリスト者は年をとってもなお、希望が日々新しくされる。その理由とは、聖書を見るなら、新しく生まれ変わった時に生ける望みが与えられているから、生命を持った、生き生きとした希望が与えられているからだと書かれています。本日の御言葉の1:3~4節をご覧いただけますでしょうか。
【1】. 生ける望み
“わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。”
3節にある「生き生きとした希望」、「生ける望み」というのが一体何なのかということですが、この希望は命をもっていて、少しずつ育まれていくという事です。つまり、年を重ねるごとに、信仰と共に大きくなるような希望であります。ですから、何か宝くじのような幸運を望むことではなく、全く根拠のない、はかない望みを抱くことでもなく、イエス・キリストの復活に根拠を置いた確かな希望であるという事です。具体的には4節に書かれてありますように、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない「財産」を受け継ぐ者とされている希望であると言えるでしょう。「財産」という言葉は、他の聖書では「遺産」とか「資産」と訳されたりしています。これが天にすでに蓄えられているということです。ギリシア語(τετηρημένην)を見ると、ここは完了形になっていますから、これから蓄えられるのではなく、父なる神様は私たちのためにすでに蓄えられているということです。財産家の人であれば、おそらく自分の財産を証券という形で持ったり、土地という形で持ったりします。アメリカの場合、株で持つ人が多いようです。中国やバブル前の日本の場合ですと、株より、土地で持つ人が多いようです。特に中国は不動産投資が激しいためにゴーストタウンなどが現れてしまいます。このような現象は、株式であれ、土地であれ(中国の場合正式には土地ではなく、上物に対する権利、土地の使用権ですが)、これらが人々の考えの中で、将来下がることが稀であり、必ず値上がりしていくだろうと考えられているということです。投機先として適当であるという事です。しかし、いくら投機先として適当であり、安全だと言っても、リスクが全くないわけではありませんね。つまり朽ちず、汚れず、しぼまない財産が、すでに私たちの天に蓄えられていますが、これは、これ以上ない最も確かな場所、最も安全な場所に保管され蓄えられているという事です。ヨハネ14:2には次のような御言葉がございます。
“私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。”
因みにこの1:4の「財産」という言葉は、旧約聖書の中では「嗣業」という言葉によって出てまいります。嗣業と言えば、カナンの地を思い浮かべられると思います。イスラエルの民は荒れ野を放浪する時、乳と蜜の流れる嗣業の地が与えられるというその約束によって、荒れ野という厳しい環境を生き抜くことが出来ました。新約の聖徒たちも天の嗣業に対する確かな権利証書を所有しながら、ディアスポラとして、巡礼の旅を歩ませていただいているのです。そして、さらに言えば、その確かなところに準備された財産を必ず受け取れるように、神様は私たちを導いてくださるのです。5節をご覧ください。
“あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。”
この箇所で私たちに慰めとして迫ってくるのは、必ず準備されている救いを受けられるように、必ず天に蓄えられている財産を相続できるように、神の力によって守り導かれるという事です。ただし、一つ注意しなければならないことは、「信仰によって」という言葉が付け加えられていることでありましょう。つまり、神の救いというのは、上から強制的に、人をあたかも機械のように扱って救いに至らせるのでもなく、その人を内側から変えて、その人自身の信仰によって救いを成就させ、天の嗣業を相続させるということです。しかし、実はその信仰というのも、結局は神様の賜物であり、キリスト者の生ける望みも、新しく生まれ変わったキリスト者だけに与えられる神様の賜物なのです。私たちの功労は一切必要なく、ただ、神の力によって成し遂げられるということが言えるのです。すごいですね。ですからキリスト者は日々、生ける望みによって、喜んでいると言うのです。続いて6~8節をご覧ください。
【2】. 満ち溢れる喜び
“それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊く、イエス・キリストが現れるときに、称賛と栄光と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。”
ここでは、「あなたがたは、喜んでいる」という言葉が目に留まります。6節では「喜ぶ」という動詞が現在形になっていますので、繰り返し「心から喜び続けていますね~」という表現になっています。8節も同じように「喜ぶ」という動詞が現在形になっていて、繰り返し喜んでいると表現されていますが、さらに喜びを表す言葉が重ねられていて(rejoice with joy)、新改訳聖書では「喜びにおどっている」と訳されています。つまり、「あなたがたは、喜びに踊り続けているんですね~!」とペトロ言っているのです。この爆発的な喜びの理由として、特に7節に注目する時に、すごいことが書かれています。7節には、火によって精錬された信仰によって、何がもたらされると書いてあるでしょうか。「称賛と栄光と誉れ」がもたらされると書いてあります。普通、「称賛と栄光と誉れ」が帰されるべきお方は、何よりも第一に、神様に帰されるべきものです。ところがこのような「称賛と栄光と誉れ」が神に帰されるだけでなくて、どうやら、信仰者にも、その信仰によってもたらされると聖書は言っているようです。これは一体どういう意味でしょうか。そのようなことがどうして可能なのでしょうか。考え方の糸口として、嗣業の意味する内容として、イエス・キリストそのものが、私たちの受け継ぐ分であるという御言葉がございます。詩編16:5をご覧ください。
“主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。”
王であられるイエス様が地上に来られた時、どのようなお姿で来られたでしょうか。彼は富める者でありましたが、ご自分を無にされて、僕の身分となり、貧しい者として来られました。しかし、キリストが復活され、天に昇られた時はどうだったでしょうか。彼は人となられ、従順を学ばれ、十字架の死に至るまで従順されたことによって獲得したその一切の有益を持って、つまり全ての功労の宝を持って、天に昇って行かれました。一体なぜ、キリストは一度低められ、苦難を身に負われ、十字架にまで架かられ、その後に復活して高められたのでしょうか。それは全てキリストに結ばれた者たちを贖うためにそうされたということを、私たちは学んでまいりました。イエス様が獲得された諸々の有益とは、イエス様のご人格の中に含まれているのですが、私たちが嗣業に与るというのは、言い換えるならば、イエス様との交わりを通して、イエス様が獲得された全ての有益に与ることであり、イエス様が獲得されたその宝を共に所有させていただくという意味でございます。ここに、「称賛と栄光と誉れ」が、神さまに帰されるだけでなく、キリストに属する民にも、もたらされる原因があったのです。つまりイエス様が犠牲の供え物になられたために、私たちに罪の赦しが与えられ、神と和解されました。罪のないお方が血を注がれたがゆえに、私たちの魂が洗い清められました。イエス様が律法を成就されたために、私たちは義とされました。キリストの霊が与えられたことによって「アバ父よ」と祈ることができる養子とされる霊があたえられました。そしてさらに多くの聖霊の賜物が与えられました。キリストが天の御座に着座されたがゆえに、私たちも神の御座に大胆に進み出ることが許され、キリストが死に打ち勝ち、復活されたために、私たちは世に打ち勝ち、死の恐怖から解放され、終わりの日の復活と、栄光の中で永遠の命を享受する者とされたのです。従いまして「称賛と栄光と誉れ」これはディアスポラである巡礼者の最終的な終着点でありゴールであるという事です。もし、そうであるなら、この世においてしばしの間、さまざまな試練に悩まなければならないのは当然であると言えるでしょう。なぜなら、イエス様が最初に苦難を受けられ、その後に、栄光に挙げられたからです。私たちも同じように苦難を通して、私たちの信仰が精錬されるという過程を通るのです。ローマ8:17と2コリント4:17をご覧ください。
“もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。”
“わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。”
ペトロの言う爆発的な喜びとは、苦しみの後に待っている「称賛と栄光と誉れ」があるからだ、という事です。ですから、たとえ思いがけない試練や困難が訪れても、私たちがこの信仰に立っているなら、私たちは罪の赦し、神の子とされた身分、天の財産を決して疑うことなく、また、この世の人生の中で起こってくるいかなる災難をも、それは神の刑罰などではなく、父なる神様の愛の鞭、訓練として理解することができるのです。
しかし、そのように言われても、私たちは常に信仰に満たされて、歩んでいるとは限りません。もし罪を犯してしまうなら、そして、その罪をそのまま放置するなら、私たちは罪悪感に苛まれてしまうでしょう。希望どころか、悲嘆と後悔と自責の念に捕らわれ、次第に神様から遠ざかり、平安を失い、信仰の大胆さを失うこともあるかもしれません。これはもう、仕様がないことです。私たちは弱いものであり、誰でも、多かれ少なかれ信仰のアップダウンがあるからです。確かに、私たちキリスト者は自分自身の歩みを省みます時に、毎日、悔い改めの祈りと罪の告白を捧げなければならない汚れた者であることを認めますが、この時、私たちは疑いや絶望の中で祈るのではないということです。悔い改めを祈りますが、救いの確信をもって、子供のような信仰によって、天におられる私たちの父なる神に祈り、そして自分の捧げた祈りに自ら「アーメン」によって応えることが許されているのであります。それは、私たちの人生の錨が、すでにイエス・キリストに降ろされていて、固く結ばれており、これは何人も引き離すことはできないからであります。私たちの信仰と希望は復活のキリストにかかっているということです。
【結論】
私たちキリスト者は、天の嗣業に対する「生ける希望」が与えられている者であり、その確かさは生涯を通して徐々に大きくされていきます。なぜならその希望の根拠は、2千年前にキリストが復活されたことと同じくらい確かで確実に成就される事柄だからです。しかし、私たちは弱いものであり、日々罪を犯してしまい、信仰が揺らぎやすい者でありますが、苦難の中を歩む私たちの信仰の歩みを、神様が責任を持って守り導いてくださいますから、私たちは日々、悔い改めと感謝を新しくさせていただき、常に喜びをもって「称賛と栄光と誉れ」というゴールを目指して歩むことが許されているのです。