2020年04月26日「悩みの日に神を呼ぼう」

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悩みの日に神を呼ぼう

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
エレミヤ書 29章11節~14節

音声ファイル

聖書の言葉

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたがたがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。

日本聖書協会『新共同訳聖書』エレミヤ書 29章11節~14節

メッセージ

1 エレミヤの手紙=説教

 第2次世界大戦の前のことでした。あの恐ろしい悲惨な戦争の時代に突入し、不安が社会に満ちつつありました。その時、ドイツのカールバルトという神学者はこんなことばを繰り返し語ったと伝えられています。「あたかも何事もなかったように」。彼の信仰者としての根本的なあり方を示すことばです。「あなたかも何事もなかったように、なすべきことをなそう」と言葉を付け加えることもできましょう。このように語りました神学者が、この時に、ひたすら集中したのは、神学することです。イエス・キリストの福音のことです。「あたかも何事もなかったように」とははこの世で起こっていることを見て見ぬふりをして、何も関心を持たないように隠遁生活を送る事ではありません。しかしまた同時に、浮き足立って、心を騒がせて生きることでもありません。事実、この神学者はこのように生きた。そのことによってその時代の多くの人びとを慰め、励ましました。ナチス、ヒトラーに抵抗し、多くの人たちに慰め、悪しき力に抵抗し闘う力をも与えることになりました。「あたかも何事もなかったように」今このことばを繰り返し、思い出しています。

 この日曜日の礼拝は、しばらくの間、インターネット、そして配達される説教原稿を通して行われます。このような事態が収束されて、共に顔と顔を合わせて喜びつつ礼拝できる日が来ることを祈り願いながら。

 この間は、マタイ福音書の講解を離れて、聖書のいくつかの箇所から御言葉に聞いていきます。今、この時に、手帳に書き写して持ち運ぶことができるようなみ言葉、わたしたちが心に刻むことのできるみ言葉に聞いていきたいと願っています。

 今日、お読みしましたのは旧約聖書のエレミヤ書の御言葉です。このエレミヤ書の29章は、エレミヤの手紙と呼ばれる箇所です。イスラエルは、バビロニアに戦争で破れ、破壊し尽くされ、主だった人たちは皆、バビロンに捕らえられていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。その最中に預言者エレミヤが、バビロンに捕らえ移された人々に書き記した手紙、それがエレミヤの手紙です。エレミヤは、エルサレムに残されていました。彼は、そこから捕らえられてバビロンに連行された人たちに言葉を書き送りました。いや手紙という形で、文字を通して説教しました。ですから、「主は、こう言われる」とエレミヤは繰り返し、語っています。これは明かに預言者の説教の言葉使いであります。

 わたしたちは感染症のために、互いに会うことが自由になりません。近づくことも触れることもできません。共に礼拝堂に集まって礼拝することもできません。経験したことのない試練です。教会の歴史の中でも特異な事態に直面しています。けれども、教会の歴史の中で全くなかったかというとそうではありません。バビロン捕囚の出来事は、よく似ています。戦争に敗れ、バビロンに捕らえ移された人たちは、鎖につながれて牢獄に入れられていたわけではありません。ある程度の自由は与えられていました。家を建てて住むことも、畑を耕すこともできた。では全く自由であったのかというとそうではありません。町を出ることはできませんでした。エルサレムに帰ることはできません。様々な行動の制限は課せられていた。また何よりも彼らにとって辛いことは神殿で神を礼拝できないことでした。深い失意と落胆、不安があったでしょう。このような苦境の中にあった民にエレミヤは語りかけます。会うことはできません。けれども、まるで目の前にいるかのようにして、ことばを、神の言葉を、語りかけます。

2、神からの呼びかけ

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。

 神ご自身が心に留めておられる計画について語られます。全く意外な、不意打ちを食らわされるような言葉です。この時、捕囚の民は、自分たちは今、災いの中にある、神の審きにあっている、そう思っていたでしょう。しかし、そこで「平和の計画」ということが語られます。しかも、この平和の計画は、「将来と希望を与えるものである」とも言われます。

 この預言者の言葉を言い換えて、「神はわたしたちに最善を与えることを望んでおられる」と、ある説教者が語っています。神は、私たちの味方です。敵ではありません。神は、万物の造り主であり、すべてのものを御手のうちに導いておられます。神はこの世界に、また私たちに対して計画を持っておられます。神は無計画な方ではありません。その計画は、良きもの、私たちに最善を与えるものです。それが福音です。そのことは、旧約聖書の時代、このエレミヤの時代よりも、新約の時代に生きる人々、今日の私たちにはよりはっきりと示されています。

 なぜなら、私たちには次のことが語られています。神はそのひとり子である主イエス・キリストをこの地上にお与えになられました。この方は、私たち罪人の身代わりに十字架に死なれ、復活されました。そして天に昇り、やがて、再びこの地上に来てくださいます。そのようにして、神さまは、私たちに平和の道を開き、またまことの平和を実現してくださいます。これが私たちへの福音です。福音とは、ここで語られている、「平和の計画」そのものです。これが、これこそが、私たちに「将来と希望」を与えます。

 私たちの周りには、私たちに、将来と希望を与えるように思えるものが数多くあります。家族、健康、仕事、趣味。これらのものは無意味ではなく、たいせつな意味を持ったものです。しかし、それは絶対的、究極的なものではありません。本当の意味であてにすることはできません。人には、究極的に将来と希望を与えるものがどうしても必要なのではないでしょうか。

 先週、ある牧師と電話でしばらくの間、語り合う時間が与えられました。悩みを語り合いました。その時、その牧師がこんな話をわたしにしてくださいました。教会に時々、来られる人がいる。その人は神を信じないと言われる人だそうです。その牧師はそのような人も、迎え入れて語りあっておられる。ある日、その人がこう言われたそうです。「キリストを信じている人がわたしは羨ましい。人は必ず死ぬ、死に対しても望みを持てる。そんなキリスト者が羨ましい」。心に残り続けています。 わたしは思います。きっとこの人は、福音を信じる人にされるのではないかと。なぜなら、この人は気づいておられるからです。聖書の語る将来(未来)、希望がどのようなものであるか。この世で成功することやうまくやっていくことではない。そういう意味で将来がある、希望があるというのではなく。死を超える将来と希望。「永遠」の次元でのことが示されていると。こんなことを見つめておられる人なら、きっと大丈夫、そう思います。

 確かにこのことはこのように永遠の次元のことです。しかし、同時にこの永遠の次元のことが、今のこの苦難の中を生きる私たちに慰めとなるのです。

事実、この時、バビロンに捕囚になっていた人々は、この御言葉によって、慰められ、励まされたのではないでしょうか。今の苦難の時を耐えることに導いたのではないでしょうか。神が災いを与えようとされているなら、そのことには耐えられません。しかし、神が私たちに平和を、将来と希望を与えようとされるなら、今の時がいかに苦しくても耐え忍ぶことができます。そして、幸いにも聖書はその全体で、「神が私たちにとって最善の計画、平和の計画を持っておられる、このことだけは間違いない、確かである」と語っています。 このことは、これまでもずっと日曜日の度に聞いてきたことです。そのことに今この時、「あたかも何事もなかったように」心を集めたい。

3、神に呼びかけることへの招き

 同時に、今日の聖書の御言葉は、私たちがすぐになすべき、なすことができることを語っています。前半の言葉は、私たちに呼びかける言葉でした。後半は、今度は、私たちに呼びかけるように招くことばが語られています。

「そのとき、あなたがたがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」。

 私たちの神は、私たちに呼びかけてくださいます。しかし、それだけではありません。呼びかけた私たちが、今度は神に向かって呼びかけれることを待っておられます。父、子、聖霊なる三つにして一つなる神は、孤独な神ではありません。相互に愛の交わりを持っておられます。そして、そのような神であるがゆえに、私たちとも一方通行であることを望まれません。

 この御言葉についてエミール・ブルンナーと言う人が興味深いことを語っています。ブルンナーさんは神学者でしたが、日本への特別な思いを持っておられ、数年の間、日本に滞在されて国際キリスト教大学で伝道の働きをされました。この人がこんな内容のことを言っています。

 ここでは『心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会う』と言われている。しかし、これは普通に「神を求める」と言われているのと違う。つまり、普通に神を求める人というのは、一生の間、様々な宗教や哲学を探し回り、一度たりとも確信を得ることができない人のことを意味することがある。しかし、ここで語られているのはどうもそういうことではない。エレミヤは、ご自身を明かに示された神、その名を示された神、その神を求めることを語っている。

 主イエスを通して、神は私たちにご自身を示されました。主イエスは「わたしは彼らに御名を知らせました」と祈られています。私たちはこの方を通して神を知ることに導かれました。その神を求める。その神の名を呼ぶことをどんな状況の中でも止めません。ブルンナーは、「神に近づくこと、神とますます親密になることが、祈りの意味だ」と言います。信じるということも、神に応えて祈ることだとまで言います。その意味で私たちは一生、神を求める者です。私たちが生きるためには、このことがどうしても必要です。神を求め、神に願い、神と出会っていく。事実、そのようにして私たちは今日までそのようにしてきたのです。 先日、礼拝をこのような仕方に切り替えることをお話しした際に、言われました。「礼拝に来たい。ここで生きてきた、支えられてきた」。 その通りです。わたしも同じ思いです。

 ここでたいせつなことは「心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会う」、このみ言葉が一体どういう状況に向かって語られたかということです。この言葉は、エルサレム、神殿のある場所に生きる人たちに向かって語られたのではありません。バビロン、異教の地、捕囚の地いる民、共に集まることもままならないような中にある人々に向かってこのように語られています。

 この御言葉から思い起こされる聖書の言葉のいくつかがあります。

 一つは、旧約聖書の詩篇50編15節です。

「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(口語訳聖書)。

 もう一つは、主イエスが弟子たちにお語りになられた御言葉です。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」(マタイ七章七節)。

今日の御言葉と合わせて、わたしたちが手帳に書き写して持ち運ぶことができたら良い言葉ではないでしょうか。

 少し神学を学びますと教わることがあります。それは私たちが今、手にしております聖書の言葉の多くは、バビロン捕囚の時代に聞き取られ、書き記されたものだということです。つまり、今日の御言葉のとおり、神は捕囚の民に語りかけられました。そして、民は神の招きに応えて、この時に神の名を呼んで祈った。神を求めた。悩みの日に神を呼んだ。そして、神はこの異教の地、苦難の只中で親しく出会ってくださったのです。「わたしを求めるなら、わたしと出会う」というこの御言葉のとおりに。そして、そこに共同体が新しい仕方で築かれていきました。そうやって旧約聖書の言葉の多くが、書き留められるようになった。

 わたしたち一人一人の信仰の歴史を振り返ってもそうでしょう。苦難は苦難で終わりません。苦難の中でこそ、神の恵みは、私たちに与えられてきました。祈りが生まれ、そこで神との新たな出会いが与えられきました。

 今のこの苦難の時も同じではないでしょうか。神の愛、キリストにおいて示された神の愛との出会いが私たちの間にも起こされるのではないでしょうか。そうであるなら、「あたかも何事もなかったように」、私たちのなすべきことに集中しましょう。聖書のことばに聞き、そして、神を呼ぶこと、祈ることに生きましょう。そうするなら、そこで神と出会える。主がそう言われるのですから、必ずその通りになります。テレビばかり見て心配し続けるわけにはゆきません。「わたしが、あなたたちのために立てた計画、それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。「死も、命も、天使も支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、わたしたちの主イエス・キリストにおいて示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章31節)。

 お祈り致します。

父なる神さま、今この時、あなたを慕い求めます。悩みの日にあなたの名を呼ます。御霊と御言葉を通して、あなたご自身と出会い、あなたとの関わりが新しくされますように。どうか、私たちのこれからの日々を守り、お支えください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン。