2021年02月04日「祈りについて (3)」
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祈りについて (3)
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- 田村英典 牧師
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ルカによる福音書 18章1節~8節
聖書の言葉
18:1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、私は疲れ果ててしまう。』」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。
18:8 あなたがたに言いますが、神は彼らのために、速やかにさばきを行なってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
ルカによる福音書 18章1節~8節
メッセージ
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ウェストミンスター小教理問答の問88が言いますように、御言葉及び聖礼典と共に大切な恵みの外的手段の一つである祈りについて、この所、具体的な点でお話しています。今日も聖書と私たちの体験からお話致します。
これまで、公同の祈りと祈祷会のような場での祈りについて触れ、前回は個人的祈りについて四つお話しました。今日はその続きです。
五番目はしぶとく祈ることです。私たちは一生懸命祈りますが、それが中々聞かれませんと、「やはり駄目なんだ」と失望し、祈るのを諦めることはないでしょうか。が、まさにそれをサタンは狙っています。私たちが失望し、祈ることに意義を見出せないようになれば、それこそサタンの勝ちです。祈りは既に霊の戦いなのです。これをよく覚えておきたいと思います。
大切なことは、しぶとく祈ることです。ルカ18:1は「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちに譬を話された」と言い、続けて、イエスの語られたしつこいやもめの譬を伝えます。
確かにイエスはマタイ6:7で「祈る時は、異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返してはいけません」と言われます。しかし、それは「彼らは、言葉数が多いことで聞かれると思っている」と続けて言われますように、言葉が多い祈りなら聞かれるという打算的なものだからです。今私たちが学ぼうとしているのは、イエスの譬のやもめのように全身全霊を傾ける真剣さ故のしぶとい祈りのことです。自分の全存在を傾ける位の真剣な祈りなら、どうしてすぐあっさり諦めることなどできるでしょう。アウグスティヌスの母モニカは、彼の救いのためにどれだけ祈り続けたでしょうか。ミラノの司教アンブロシウスの「大丈夫です。このような涙の子が滅びるはずはありません」という言葉に励まされ、諦めずに祈り、387年、遂に彼は33歳で洗礼を受け、彼女は間もなく天に召されました。
サムエルの母ハンナは、Ⅰサムエル記1章が伝えますように、シロにあった主の家で、子供が与えられることを毎年毎年どんなに祈ったでしょう。諦めずにしぶとく祈りたいと思います。
六番目は、誰かのことや何かのことを継続的に覚えて祈ることです。すると、それらの人やそれらのことが絶えず自分の心の中にあり続けて、一層関心が増し、それらの人やことに更に親しみを覚え、それどころか愛するようになり、ますます主の守りと祝福を願わずにはおれなくなります。
私は、岡山に来てすぐの2019年春の『四国伝道』誌に自己紹介文を書き、最後に「私も四国中会の諸教会のために毎日お祈りしております」と書きました。実際、赴任する前から、私には初めて働く四国中会でしたので、毎日祈っていました。その『四国伝道』誌を読まれたのでしょう。T教会のA長老が、ある教会で沢山人が集っていた時に、皆の前で「田村先生は四国中会の全教会のために毎日お祈りしておられるのですよね」とおっしゃいました。私は驚いて、「あ、はい、そうです」と答えましたが、それ以来、ますます欠かさず毎日祈ることになりました。
そうすると、四国中会のことが段々愛おしく慕わしくなってきました。続けて祈っていると、こういう風になるのだと、私は教えられました。私たちが互いにこのようになっていけるなら、神はどんなに喜ばれるでしょうか。
七つ目は、自分が他の人に祈られていることを、しばしば思い出すことです。
私たちは本当は必ず誰かに祈られているのですが、それに気付かず、あるいはそのことを忘れますと、自分は独りぼっちだという孤独感に陥り、妙に不安になり、焦ったりします。けれども、祈られていることを思い出しますと、私たちは安心し、励まされ、気持も前向きになります。
淀川キリスト教病院で、一般病棟の時から私が関り、最後はホスピスで天に召された63歳のクリスチャンの女性がおられました。左脚の強い痛みから始まり、骨肉腫であることが分かりました。元々どちらかというと、悪い方に悪い方にと考える傾向の強かった彼女は、どんなに怖くて辛かったかと思います。しかしある時、教会からの寄せ書きを私に見せ、こう言われました。「ああ、私が祈れんでもええのや、と思うて安心しました。」特にホスピスに移られてからの彼女は、夫や娘が驚く位、明るくなられ、天に召されました。
誰かに祈られている喜び、幸せ、安心!何という恵みでしょう!特に牧師は教会員とその家族、客員、求道者のために毎日祈ります。教会員で毎日祈られていない人など、一人もいません。しかし万一、牧師が何かの事情で祈れない時とか無牧の時でも、主イエス・キリストが祈って下さっています!十字架の前夜、イエスはペテロに言われました。ルカ22:32「私はあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」復活の主は、今も同じように祈っておられます。永遠の大祭司、主イエス・キリストが私たちのための祈りを忘れるなど、あり得ません!
このことを繰り返し思い出し、感謝し、私たちも人のために、是非、祈り続けたいと思います。