2020年12月24日「飼葉桶の中の救い主(クリスマス・イヴ礼拝)」
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飼葉桶の中の救い主(クリスマス・イヴ礼拝)
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- 田村英典 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 2章8節~12節
聖書の言葉
2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
(新改訳聖書2017年度版)
ルカによる福音書 2章8節~12節
メッセージ
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ただ今、御言葉を読みました。静かな夜、そして夜通し羊の群れの番をする羊飼いたち。そこに主の使い、天使が来て、救い主の誕生を告げ、さらに天の軍勢が現れ、高らかに神を賛美する声が響き渡る!一方では、人がシーンと寝静まるベツレヘムの家畜小屋でひっそりと神の御子が誕生され、飼葉桶に寝ておられる。世界で最初のクリスマスの夜の情景が、目に浮かぶようです。
所で、天使は12節「あなた方は、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなた方のための印です」と羊飼いたちに告げました。しかし、この「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」というのは、どういう意味で目印になり得たのでしょうか。
2:1~3が伝えますように、その頃、ベツレヘムには住民登録のために各地から大勢の人が集って混雑し、宿屋も一杯でした。子供や赤ちゃんも当然多くいたでしょう。そんな中、約束の救い主が誕生されました。しかし、一体どこの、どの赤ちゃんが救い主なのか。「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご。」これは何を意味しているのでしょうか。
実は、これは驚く程、低く貧しい様を示しているのです。余りにも低く貧しいからこそ、目印になり得たわけです。低く貧しいことこそ、神の御子イエス・キリストの誕生の最大の特徴の一つだったのです。
第一に、「みどり子」、乳飲み子であること自体、低さ、貧しさを表しています。乳飲み子には何一つ攻撃的とか威圧的な所はありません。むしろ、全く無力で無防備です。神の御子イエスは、弱さ、低さそのものであるみどりごとして、この世に、それも、ただ私たちのために来られたのでした。
第二に、生れた場所が最低の貧しさでした。昔のユダヤでは、馬や牛などの家畜は、夜はほら穴のような所で休ませました。当然、動物もすぐ側にいますし、排泄物もある不潔な場所です。一体、そんな所で生れ、また動物のよだれで汚れ、食べ滓も一杯ある汚い飼葉桶に、生れて真先に寝かされる赤ちゃんが、どこにいるでしょうか。2千年前のユダヤでもまずいなかったでしょう。
けれども、全世界の救い主であられる神の御子イエスは、まさにそのような所で生れ、その生涯を始められたのでした。ここには何一つきらびやかなものはありません。
ここに既にイエスの全生涯を暗示するものがあります。本来は栄光と賛美に包まれた神の御子ですのに、そのご生涯は初めから終りまで、低く貧しいものでした。後にイエスはご自分についてこう語っておられます。ルカ9:58「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
その通り、主は誕生の時も本当に低く貧しく、また最期の十字架の時もそうでした。ただ一つの持ち物である服まで剥ぎ取られ、無一物となり、貧しさ、低さの極みとなって、主は命を献げられました。それは只々私たち罪人を罪と永遠の滅びと悲惨から救うためでした。
第三に、救い主の誕生を真先に知らされ祝ったのが羊飼たちであったことも、イエスの低さ、貧しさを示しています。他の誰でもなく、当時のユダヤで最底辺の人と見なされていた羊飼いたちに、約束の救い主誕生のニュースが知らされ、彼らこそが真先にイエスの許に駆けつけ、誕生を祝った。ここにも私たちは、低さと貧しさの中の救い主イエスというお方を示されます。
では、このことは何を意味するのでしょうか。神の御子イエスは何故こうであられたのか。只々私たちを罪とその結果である悲惨な永遠の滅びから救い、神と共に生きる永遠の命、天からの命を与え、そうやって私たちを霊的に真に豊かにするためでした。Ⅱコリント8:9は言います。「あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられました。それは、あなた方が、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
私たちが自己中心の罪のために神の裁きを受け、悲惨な永遠の滅びに至ることがないように、神の御子は自ら進んで低さ、貧しさの極みに御自分を置かれたのでした。私たちが罪と不信仰を心から悔い改め、神の御子イエスを心から信じ、受け入れ、依り頼むことにより、あらゆる罪を赦され、神の前に義とされ、神の子とされ、永遠の命を頂き、世の終りには復活を許され、祝福と栄光、喜びと感謝に溢れる新しい永遠の御国を受け継ぐためでした。
所で、私たちのために低く貧しい様でイエスが誕生され、「飼葉桶の中の救い主」としてご自分を初めてこの世に表されたことに、私たちは何を教えられるでしょうか。
一つは、心の貧しさ、へりくだりです。のちにイエスは御自分のことをこう言われます。マルコ10:45「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのです。」
御子イエスは徹底してご自分を低くされ、私たち人間に、それも自分の髪の毛一本、白くも黒くも出来ない無力な私たち罪人に仕えて下さいました。
そうであるなら、何故私たちは人に対して傲慢でいられましょうか。どうして偉ぶった態度で、人を見下すとか人に仕えられることを、当然のようにしておれるでしょうか。
先程も申しましたが、救い主誕生の知らせが羊飼たちに真先に伝えられたことは意義深いと思います。福音の価値は、心貧しいへりくだった者にしか分らないのです。ですから、イエスは言われます。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)
驕り、高ぶり、プライドは、キリストの福音を撥ねつけます。何と不幸なことでしょう。イエス・キリストは、低さ、貧しさの中の救い主なのです。
二つ目は生活におけるそれです。何も貧乏になれ、というのではありません。大事なのは生き方です。人と分ち合うという生き方の理念です。主イエスは決して富むことを求めず、また持たないご自分を哀れに思うこともありませんでした。しかし事実、そのご生涯は常に低く貧しかった。与えられる物に感謝し、天の父なる神と私たち罪人に仕えるため、いつもご自分のものを、いいえ、ご自分そのものを献げられました。
世界には、驚く程多くの、貧しく低い状態で生きることを余儀なくされている人がいます。そして実は私たちの周りにも、多くのご病人や孤独な人など、助けが必要な方が沢山おられます。そうした方々と、私たちが少しでも神の愛とイエス・キリストによる救いとその喜び、永遠の希望や魂の平安を初めとする様々な恵みや良いものを分かち合い、共に感謝出来るなら、神はどんなに喜ばれるでしょうか。
分ち合うのは経済的、物質的なものだけではありません。体力に余裕のある人はそれを用い、知性や精神性や芸術性、あるいは人を笑顔にし、温かいユーモアで人をホッコリさせる楽しい賜物の豊かな人、また時間に余裕のある人は、それを人のために用いる。特にイエス・キリストの福音の素晴らしさを良く理解し体験している人は、それを助けと祈りが必要な方々のために用い分かち合う。そうして皆が感謝と喜びにおいて富む者となるということです。何と素晴らしいでしょうか。
もう一度、Ⅱコリント8:9を読みます。「あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられました。それは、あなた方が、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
神の御子イエスが、力に満ちた猛々(たけだけ)しい姿や派手できらびやかな姿ででもなく、「飼葉桶の中の救い主」というまことに低く貧しい様(さま)で、人が寝静まった夜、ひっそりと誕生されたことの意味は深いと思います。改めて神の深い愛にお応えし、目立たなくても地味でも構いません、神と隣人に、今までにも増してイエス・キリストの福音と愛をもって喜んで仕えることを、新しい年もご一緒に励まされたいと思います。