聖書の言葉 2:19 しかし、マリアはこれらのことを全て心に納めて、思いを巡らしていた。 (新改訳聖書2017年度版)ルカによる福音書 2章19節 メッセージ ルカ福音書2:19は、イエスの誕生時の思議な出来事を、その時は良く分らないまま、マリアが全てを心に納めていたことを伝えています。彼女のこの姿勢は、ルカ2:51でも伝えられています。その時は自分の理解を超えることであっても、彼女はそれを心に留め、忘れ難い情景、或いは風景にまで出来た女性のようです。 ルカは、福音書を書くに当り、マリアにも色々聞いたでしょう。ルカ自身にも絵心があったようですが、彼女の内面で鮮やかな風景また場景ともなって記憶されていたものを伝え聞いたため、ルカ福音書には絵画的な所がより多く見られるのかも知れません。 とにかく、マリアに見られた、つまり、父なる神また御子イエスについての様々なことを「心に納める」という点を、私たちも大切にしたいと思います。直接神に関することだけでなく、私たちの体験する色々な人との嬉しい、時には悲しいこと、また自然界のこともそうですが、心に深く感じることについて、大切にしたいと思うのです。私たちの内面が豊かにされ、神の祝福に繋がり、またきっと人にも役立つ者にされると思います。 クリスチャン作家の三浦綾子さんは1999年10月、77歳で天に召されました。そのご主人、三浦光世さんに、以前、旭川から来て頂き、淀川キリスト教病院のチャペルで「妻三浦綾子と歩んだ40年」と題する講演をして頂いたことがあります。本来は職員とボランティアの方々のためのものですが、患者さんやご家族も多数出席され、良い講演会となりました。 それはともかく、人間の罪の問題を深く掘り下げ、同時にイエス・キリストを通しての天の父なる神の溢れるばかりの愛を描き、「愛と祈りの作家」と呼ばれた三浦綾子さんについて、旭川にある三浦綾子記念文学館の館長をされた故高野斗志美さんが『評伝 三浦綾子-ある魂の軌跡』という本を書いておられます。それによりますと、綾子さんは幼い頃から、心に感じたことを深く心に納めた方であったようです。 例えば4歳の頃、姉の読み古した童話を彼女も読んだのですが、それに関して1986年に書かれた自伝小説『草のうた』の中で、次のように回想しておられます。「この本の中にあった一節を、私は今もはっきり覚えている。『テフテフサンハ、クライハヤシノナカニ、ヒラヒラト、ハイツテユキマシタ。』 この文章が私の心を不安にさせた。文字通り心が震えるようであった。私の目に暗い林が見えた。そしてその中に白い蝶がひらひらと舞って行く優美な姿が、はっきりと見えた。しかし、何故この一節が私を不安にさせたのであろう。この蝶が再び暗い林の中から出て来ることができるのかどうか、私にはそれが気掛かりでならなかったのだ。蝶が暗い林の中に入っていく姿は想像できても、その中から明るい光の下に出て来る姿は想像出できなかったのだ。この蝶への不安を、私は随分長いこと抱え込んでいたような気がする。」 意識的に記憶してこられたのではないでしょうが、これは彼女の幼い時からの不安の原型とも言えそうです。そういえば、彼女の小説には、殆どどれにも「不安」というものがいつも根底に横たわっています。 とにかく、これだけでも、彼女が内面に感じるものを心に深くしっかり納めて来た方であることが良く分ると思います。ですから、クリスチャンになってからは、神の愛と感じたものを一層自覚的に心に納めて来られたことは、容易に想像出来ます。こうして彼女は結局、人生を深く生きて来られたのだと思います。 彼女は最後まで多くの病に苦しめられました。しかし、そのような中、読者の心に深く分け入る、しかも驚く程沢山の優れた作品と人懐っこい人柄により、日本はもとより韓国においても多くの人に愛され、神の愛を親しみやすく伝え、多くの人に生きる勇気や希望を与え続けておられます。 私は、彼女にそれが出来た理由の一つは、彼女が心に感じるものを素通りせず、マリアのように深く心に納め、思い巡らして来られたことにあるように思います。 私たちも日々、色々な人や色々なことに遭遇します。それらの中で私たちの魂に深く感じるものを意識的に心に納め、思い巡らすことは何と大切でしょうか。創世記37:11は、ヤコブが息子ヨセフの見た夢の内容を聞いて彼を叱りますが、それと共に、心に深く留めたことを伝えています。ダニエル書7:28は、夢を見て大変恐れたダニエルでしたが、やはりそれを心に留めたことを伝えています。 このようにして、私たちも、与えられた人生を深く真実に生き、人として深められ、またそういう私たちを神がお用いになり、イエス・キリストを通しての神の豊かな救いの愛とご計画を更に多くの方と分ち合えるなら、どんなに幸いでしょうか。 最後にもう一度、ルカ2:19を読みます。「しかし、マリアはこれらのことを全て心に納めて、思いを巡らしていた。」 関連する説教を探す 2020年の祈祷会 『ルカによる福音書』
ルカ福音書2:19は、イエスの誕生時の思議な出来事を、その時は良く分らないまま、マリアが全てを心に納めていたことを伝えています。彼女のこの姿勢は、ルカ2:51でも伝えられています。その時は自分の理解を超えることであっても、彼女はそれを心に留め、忘れ難い情景、或いは風景にまで出来た女性のようです。
ルカは、福音書を書くに当り、マリアにも色々聞いたでしょう。ルカ自身にも絵心があったようですが、彼女の内面で鮮やかな風景また場景ともなって記憶されていたものを伝え聞いたため、ルカ福音書には絵画的な所がより多く見られるのかも知れません。
とにかく、マリアに見られた、つまり、父なる神また御子イエスについての様々なことを「心に納める」という点を、私たちも大切にしたいと思います。直接神に関することだけでなく、私たちの体験する色々な人との嬉しい、時には悲しいこと、また自然界のこともそうですが、心に深く感じることについて、大切にしたいと思うのです。私たちの内面が豊かにされ、神の祝福に繋がり、またきっと人にも役立つ者にされると思います。
クリスチャン作家の三浦綾子さんは1999年10月、77歳で天に召されました。そのご主人、三浦光世さんに、以前、旭川から来て頂き、淀川キリスト教病院のチャペルで「妻三浦綾子と歩んだ40年」と題する講演をして頂いたことがあります。本来は職員とボランティアの方々のためのものですが、患者さんやご家族も多数出席され、良い講演会となりました。
それはともかく、人間の罪の問題を深く掘り下げ、同時にイエス・キリストを通しての天の父なる神の溢れるばかりの愛を描き、「愛と祈りの作家」と呼ばれた三浦綾子さんについて、旭川にある三浦綾子記念文学館の館長をされた故高野斗志美さんが『評伝 三浦綾子-ある魂の軌跡』という本を書いておられます。それによりますと、綾子さんは幼い頃から、心に感じたことを深く心に納めた方であったようです。
例えば4歳の頃、姉の読み古した童話を彼女も読んだのですが、それに関して1986年に書かれた自伝小説『草のうた』の中で、次のように回想しておられます。「この本の中にあった一節を、私は今もはっきり覚えている。『テフテフサンハ、クライハヤシノナカニ、ヒラヒラト、ハイツテユキマシタ。』
この文章が私の心を不安にさせた。文字通り心が震えるようであった。私の目に暗い林が見えた。そしてその中に白い蝶がひらひらと舞って行く優美な姿が、はっきりと見えた。しかし、何故この一節が私を不安にさせたのであろう。この蝶が再び暗い林の中から出て来ることができるのかどうか、私にはそれが気掛かりでならなかったのだ。蝶が暗い林の中に入っていく姿は想像できても、その中から明るい光の下に出て来る姿は想像出できなかったのだ。この蝶への不安を、私は随分長いこと抱え込んでいたような気がする。」
意識的に記憶してこられたのではないでしょうが、これは彼女の幼い時からの不安の原型とも言えそうです。そういえば、彼女の小説には、殆どどれにも「不安」というものがいつも根底に横たわっています。
とにかく、これだけでも、彼女が内面に感じるものを心に深くしっかり納めて来た方であることが良く分ると思います。ですから、クリスチャンになってからは、神の愛と感じたものを一層自覚的に心に納めて来られたことは、容易に想像出来ます。こうして彼女は結局、人生を深く生きて来られたのだと思います。
彼女は最後まで多くの病に苦しめられました。しかし、そのような中、読者の心に深く分け入る、しかも驚く程沢山の優れた作品と人懐っこい人柄により、日本はもとより韓国においても多くの人に愛され、神の愛を親しみやすく伝え、多くの人に生きる勇気や希望を与え続けておられます。
私は、彼女にそれが出来た理由の一つは、彼女が心に感じるものを素通りせず、マリアのように深く心に納め、思い巡らして来られたことにあるように思います。
私たちも日々、色々な人や色々なことに遭遇します。それらの中で私たちの魂に深く感じるものを意識的に心に納め、思い巡らすことは何と大切でしょうか。創世記37:11は、ヤコブが息子ヨセフの見た夢の内容を聞いて彼を叱りますが、それと共に、心に深く留めたことを伝えています。ダニエル書7:28は、夢を見て大変恐れたダニエルでしたが、やはりそれを心に留めたことを伝えています。
このようにして、私たちも、与えられた人生を深く真実に生き、人として深められ、またそういう私たちを神がお用いになり、イエス・キリストを通しての神の豊かな救いの愛とご計画を更に多くの方と分ち合えるなら、どんなに幸いでしょうか。
最後にもう一度、ルカ2:19を読みます。「しかし、マリアはこれらのことを全て心に納めて、思いを巡らしていた。」