2026年06月28日「死んだら終わりでしょうか」
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死んだら終わりでしょうか
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- 大木 信 牧師
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ルカによる福音書 12章4節~21節
聖書の言葉
12: 4 からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。
12: 5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。
12:16 ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 彼は心の中で考えた。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。」
12:18 そして言った。「こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。『わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。』」
12:20 しかし、神は彼に言われた。「愚か者、お前のたましいは、今夜お前から取り去られる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか。」
12:21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」ルカによる福音書 12章4節~21節
メッセージ
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○序
今日はお話のタイトルを、『死んだら終わりでしょうか』といたしました。私がこれまで人生を生きてきた中で、何回かは、「死んだらそれで終わりだ。(広島弁で)死んだらそれでしまいじゃあ」という言葉を耳にしてきましたし、またそういった風潮がどこか世間には流れていると思います。『死んだら終わりだから』、この考え方が土台となって、「一生に一度きりの人生を思い切り生きなさい」とか、「やりたいことをやりなさい」という時のその根拠だったり、逆に、今が楽しければ良いや、と投げやりに生きる方、刹那的に生きる方も一定数おられるのだと思います。
また、この日本という国は、毎年約2~3万人の自殺者、自死者を出している国です。もう何年も、年間2~3万人の自死者が継続している国です。特に10代や20代の男女、学校や会社などでの何らかのトラブルが原因ということをよく耳にしますが、死んで楽になりたい、死ぬことで全てを終わりとする考え方が、その考えの根底にあるように「私は」思います。皆さんはどう思われるでしょうか。
更には、最近になって、「終活」という言葉を聞く機会が増えて来ました。自らの人生を締め括るにあたり、様々に準備し備えて行く。エンディングノートに自分の考えや、これまでの歩みその他を纏めてみたり、葬式のことやお墓のことを様々考え決めたり、或いは、家族に残す財産のこと、また自分の荷物の整理など様々に準備し備えて行く。急に死んだ時のために、またもし認知症になったら、介護で寝たきりになる前に家族に言いたいこと・伝えたいこと、財産のことなどを予め書き残しておく。家族の者たちが困らないように、また自分が後悔しないように今から備えておく。こういう活動の広がりが、もはや定着しつつあります。
そういった中で、今回は聖書から、ひとつ「死」をテーマとして、皆さんと御一緒に考えて行きたいと思いました。ここにいらっしゃる皆さんは、率直にどの様にお考えでしょうか。私たち人間は、「死んだら終わりなのでしょうか。」…。ここに居られる皆さんにとって、関心あるテーマで在ることはもちろんのこと、今日は残念ながら来られなかった方々にとっても、実は、聞いてみたかった、そんな興味あるテーマではないかと「私は」理解しております。なぜならば、人は必ず、誰も例外なく死を迎えるからです。そういう意味では、産まれる前、母の胎に在る時から、私たちは死に向かっているとも言えます。「死」は誰にも避けられない事柄であり、誰もが一度は通る出来事です。更には、死を真面目にひと時考えて行くことで、実は、「死」は死の問題だけに留まらない。死の時までに、では自分は何をするべきか。自分は何者であり、残された時間の中で自分はどう生きるべきかを考える時ともなり得る。その意味において、とても深いテーマでもあるからです。
今日は一つ「死」というものを真面目に考えて行きたいと思います。少し自己紹介しがてら私のお話をいたしますが、私は正直、10代、20代後半くらいまでは、「死について」真面目に考えていませんでした。死は遠い存在。死なんて考えも及ばない。まだまだ先の話などとどこかでたかをくくっていたのです。私はサッカー少年でした。ひと時、本気でやっていまして、どうしたらもっとうまくなれるか。そんな事ばかりを考えていました。敢えて、今日のテーマに即して話すならば、どうすれば、サッカーを通してもっと輝いて生きられるか、そんな事ばかりを考えて過ごしていたと思います。そういう意味で、どうやって生きるか、自らの存在価値を上げるか、そんな事ばかりを考えていた時代だったと思います。
そんな私でしたから、次の事などには考えも及びませんでした。その次のこととは、こうです。今こうして、席を共にしている人の中には、実は、既に真剣に死と向き合っている、人生の統べ括りの時を生きている人もいるという、この事実です。残された地上での人生をいかに歩むべきか、この事を御言葉において問い、考えつつ、日曜日の礼拝に今週が最後かもしれないと思いながら出ておられる方が隣りにはいらっしゃるという、この事です。今50代となりまして、両方の世代(10代の気持ちも80代の気持ちも)が見渡せる、また、見渡せなければならない立場となり、つくづくと、この事を考えさせられています。
しかしあくまで私の場合ですが、20代後半になると、体のピークを過ぎます。衰えを感じてきたのです。反復練習しなくても今まで出来ていたことが徐々に出来なくなって来る。筋肉が固くなってきて、怪我が増えて来る。これまでのイメージ通り、動けなくなった自分を見出す時に、明らかに衰えて行く体を目の前にする時に、私の場合、死を漠然と考え始めたわけです。そしていつしか、逆算した人生歩み始めることとなります。そして聖書の学びを深める中で、いつしか人生の歩み全体を神との関係で、ちょっと難しい用語で端的に言えば「召命の問題」や「終末的問題」として考え始めます。私は幸いにしてクリスチャンホームに育ち、聖書にある神の言葉を信じて生きていましたので、別に、この事(体が衰えていくこと)で、特別、動揺することはありませんでしたが、人によっては、そういった体の変化から大いに動揺される方もおられるのではないかな、とも思いました(神に委ねられないという事は、良いことも悪いこともすべて「自己責任」だからです)。
私の話はこのくらいにいたしまして、今日はひと時、聖書から、或いはウェストミンスター信仰告白から、人は死んだら終わりなのか。結論を先に言いますと、いや、そうではない、死んでも生きる命があるという事を、皆さんとご一緒に確認し合いたいと思うのです。
○ウェストミンスター小教理問答書より
皆さんにお配りしました、「ウェストミンスター小教理問答書」を別刷りにしたものが、皆さんの手元にあると思います。これは17世紀のイングランドの教会会議で作成された信仰表明のための文書、これを「信仰告白文書」と言いますが、その文書です。簡単にひと言で言いますならば、分厚い聖書に表された信仰の体系、枠組み・形が、この小教理問答にエッセンスの様にして表されている。それも問答形式です。まるで子が親に問い、親が子に応える。そんな形式で表されている、そういうものです。
それで今日は、「死」が一つテーマですので、それに関わる問答を抜き出してみました。これをご覧になって皆さま如何でしょうか。まず、人間の死は神の御前における「罪が」、大きく関わっていることがお分かり頂けると思います。ここで言われている罪は、一般的な犯罪を指すようなものではありません。聖書が私たちに教える罪とは、問答14にあります通り、神の教え、すなわち聖書の教えに私たち「人間が少しでもかなわないこと」を指すのです。例えば、愛すべき存在、例えば一番身近ですと家族であっても、時として腹を立てたり、心の中で悪いことをつぶやいたりする。そういう、心の内側に自分の意志とは関係なく湧き上がってくるもの、そういう心根や意志も含めて神の教えにかなわないことを罪だ、と言うのです。この聖書にある神の教え、神の基準の通りに生きられないでいる私たち人間こそ罪なる存在、なのです。
そして「死」を、聖書、そしてそれを纏めたこの問答書から考える時、ひと言で纏めるならば、次の様になると思います。キリスト信者は、つまり、イエス・キリストを神の子、救い主と信じる人は、死なない命、永遠の命が与えられる。しかし、イエス・キリストを信じない者は、死だけで終わるのではなくて、その後、永遠の刑罰に置かれる、つまり、神の刑罰は永遠に続くという事です。問答19辺りがそれを示していると思いますが、神は永遠なるお方ですので、その刑罰も永遠です。ですから私たちは、決して死んだら終わりなんかじゃない。そして輪廻転生でもない。次の世もない。この父なる神を、そしてイエス・キリストを信じないまま、この肉体の死を迎えた者は、その後、永遠に神の怒りと呪いの下にあり、永遠の刑罰の対象となるという事です。その意味で死は、神の刑罰、神の審きの結果与えられたものなのです。この事を謙虚に弁え(わきまえ)、知っているならば、この日本の国でも自殺者は減ると「私は」思っています。
この信仰問答には書かれてありませんが、聖書にはこういう言葉があります。『罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠のいのちです。』こういう言葉があります通り、人間の初めの人アダム、その問答書には「始祖」、ファースト ペアレンツ、最初の両親とも言いますが、そのアダムが、神さまに対して犯した罪によって、「死が」人類すべての人に入りこんで来たということ。そのアダムが犯した出来事で、人は死ぬべき存在となった。まさにその時からの罪が、死に値するのであり、この時より人間は神に呪われる存在となった、死すべき存在となったと「聖書は」教えるのです。決して神が裏切ったのではない。アダム、つまり人間が神を裏切ったから、人は死ぬべき存在となったのです。しかし、その罪を認め、悔い改めて、救い主であるイエス・キリストを信じる者には、神の賜物、贈り物、御恵み(みめぐみ)として永遠の命が与えられるのです。
だからです。問答の85問ですが、罪、すなわち死を「免れるために神は私たちに何を求められるか」とあり、その答えとして、イエスキリストへの信仰と、悔い改めだと教えています。そして、イエス・キリストを信じ、悔い改めた者にとって、「死は」どういうものへと変化するのか。それが少し戻った問答の37、38です。キリストを信じた者にとって、死とは、もはやその意味合いが変わります。死は神の恵み(恩恵)の時であり、祝福となります。神の国への凱旋、一番安心できる場所で、「あなたに罪はない。無罪」と宣告されて、永遠に、天国で憩うことのできる者へと、「死」の意味が変わるのです。
○本論
それでは次に、先ほどお読みしたルカの福音書のお話から、「死」をテーマに、ひと時考えて行きたいと思います。そこには何が書かれてあったでしょうか。今日は、イエスさまの譬え話の方からまず見て行きたいと思いますが、16~21節「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱいの物がためられた。さあ休め、食べて、飲んで、楽しめ」』。しかし神は、彼に言われた。『愚か者、お前のたましいは、今夜あまえから取り去られる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』。自分のためにたくわえても、神に対して富まない者はこのとおりです。」如何でしょうか。たとえ話それ自体は分かり易いですね。
問題は、この話を通して、私たちがここから「何を聞くか」です。これは聖書の話ですので、私たちが聞くべき事柄、そしてその通りに生きる事柄が書いてあるのですね。今日は「死」がテーマですので、「生き死に」に関してのみ話していきますが、この金持ちの生き方には、肝心要(かんじんかなめ)な事柄が一つ抜け落ちていました。それは皆さん、何だと思われますか。この人は何故、「愚かな者だ」と言われるのでしょうか。
それはです。「神と共に歩んでいない生き方」だからです。この金持ちの視野には神さまが入っていない。完全に抜け落ちているのです。それを証拠に、彼の言葉の中に何回、「私」が出て来たでしょうか。17節「私の作物をしまっておく場所がない。」18節「私の倉…私の穀物」、19節「自分のたましいにこう言おう。『わがたましいよ、…。』」。もうずっと、これ、自問自答ですね。豊作を彼に与えたお方、神への感謝など全く見られませんね。その事を指して『愚かだ』というのです。如何ですか。分かり易い所で言えば、たくさんの食べ物、穀物、財産も皆すべて自分の手柄みたいに話していますね。
しかし、本当に自分の手柄なんでしょうか。この人が努力したから得たものですか。…たしかにそういう面もあります。彼も努力したことでしょう。しかし神が、この人に食べ物も穀物も、家も倉もそして財産も与えなければ、この人はそれらを手には出来ないのです。神が、それらを良しとされた、それらを許可・お許しになったので、この金持ちは、今、たくさん蓄えることが出来たのです。しかしこの金持ちは、その蓄えを神に感謝することはなく、少し難しい言葉で言えば、神に栄光を帰すことなくですね、自分の栄光、自分のことばかりを考えて、言わば驕り高ぶっているのです。だからです。神がおっしゃるのです。『愚か者』と。
命を私たちに与えて下さっているのは誰ですか。そして、命を守り、導いておられる方は誰ですか。食べ物を与え、穀物を与え、財産も、家も、倉も、着る物も、家族も、友達も、誰が与えて下さったのですか。これらみな天の父なる神です。そして、この命を与えるお方はです、当然のことですが、その命を奪う事もお出来になります。ですから見て下さい。20節「しかし、神は彼に言われた。『愚か者、お前のたましいは、今夜、お前から取り去られる。』」
私たちは「神によって」この世に生を受け、命を与えられ、そしてこの神のご決断により、神が一番良いと思われる時に死に至るのです。私たちの命は、私たちでどうにもすることができない。また、神に造られた者が自分でどうにかしてはならない。私たちは徹頭徹尾、神に造られたものです。
そして神は、世の初めから、アダムを造られた当初から、ずっと、人間を愛し続けておられるお方です。それは罪を犯した後もです。だから命を与えて、生活に困らないように、全てのものを整えて、お恵み下さるのです。私たちは罪がありますから、その事をなかなか感謝し覚えることが出来ないのですけれども、皆さんのこれまでの人生を、そしてこれからも彩られるのは間違いなくこの神です。あなたは決して一人なんかではない。神はいつもあなたと共におられます。その神が、恵み豊かにしてあなたの人生を彩って下さっていたのです。しかし神は、正しいお方でもありますので、罪のことは「無し」という訳にはされません。罪を曖昧なものにはされません。自らにある罪を認め、そしてその罪を自らも憎み悲しむ者、つまり悔い改めて神に立ち帰る者に「だけ」、永遠の命が用意されているのです。
○結論
纏めます。今日の箇所の愚かな金持ちの譬えは、実は、その前の4節から続いているテーマです。12:4、5「からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナ(これは端的に言えば地獄です)に投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」つまり、命を与えることも、奪う事もお出来になる方こそ畏れ敬って過ごすように、というこの教えから続いている先ほどの金持ちの譬え話なのです。
聖書の他の箇所では、神と人との関係を、「陶芸家と陶器の関係」で譬えている箇所もありますけれども、私たちはあくまでも神に造られた存在、その意味で神の作品です。その作品に意志を与え、愛し・愛される関係を創造されたのは神です。
私たちは死んだら終わりではない。死んだ後は天の国、神がご支配なさる御国へと導かれ、そこで、永遠に生かして下さるのです。死んだ後、地獄に投げ込む権威を持っておられるお方こそ、この地上にある時から畏れつつ、今のこの地上で生きて歩む時を感謝して過ごしたいと思います。私たちの命を「永遠に」導き続ける、この力あるお方に信頼して、この方から、日々受ける、恵み豊かなものに感謝と喜びを覚えつつ生活を進めてまいりたい。その様に願います。