2025年12月21日「イエス・キリストによる平和」
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イエス・キリストによる平和
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 2章8節~14節
聖書の言葉
2: 8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
2: 9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 するそ突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和が
みこころにかなう人々にありますように。」
ルカによる福音書 2章8節~14節
メッセージ
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今年も、あと十日で終ります。この一年、神に喜ばれる歩みができたかというと、答に詰まりますが、それでも神の導きの下、ご一緒にクリスマス礼拝に出ることができ、感謝でいっぱいです。ひと時、聖書のメッセージに耳を傾けたいと思います。
今お読みしましたマタイ福音書2:8以降は、旧約聖書で預言されていた全世界の救い主、神の御子イエスがユダヤのベツレヘムで誕生された夜、野宿をして羊の群れの番をしていた羊飼いたちに起ったことを伝えています。
羊も寝静まる夜、突然、9節「主の使いが彼らの所に来て、栄光が周りを照らし」ました。羊飼いたちはびっくりし、心臓が止りそうになったでしょう。しかし、天使は10節「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます」と言い、救い主の誕生を告げました。そして13節、おびただしい数の天使たちも現れ、14節のように神を賛美しました。
その14節の賛美の中に、「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が御心にかなう人々にあるように」とあります。「いと高き所」とは天上の世界を指します。
注目したいのは、「地の上で、平和が御心にかなう人々にあるように」と歌われていることです。「御心にかなう人」とは、神が人間に求めておられることを全部完全にできる人という意味ではありません。そんな人は一人もいません。私たちは皆、神の目には欠けだらけであり、心の中も口にする言葉も外に表れる行いも、大抵、自分が第一で、自分が中心で、自分が主人公です。また、人には言えない恥ずかしくて情けない所もいっぱいある罪人です。
御心にかなう人とは、では、どういう人でしょうか。
自分を正直に見つめ、自分の情けない罪を心から悲しみ、しかし、そんな私たちの救い主として天から来られた神の御子(みこ)イエスを素直に信じ、受け入れ、依り頼み、主イエスに似て少しでも聖く、また愛のある者になりたいと願う普通の信仰者を指します。天使は、そういう人々に「平和があるように」と歌いました。
では、この平和はどういうものでしょうか。聖書の言う平和は、単に争いのない状態ではありません。誰もがその存在を大切にされ、神が誰にも与えておられる良い点を自由に伸び伸びと発揮でき、それが他の人の益となり喜びともなるような、神に喜ばれる状態を言います。もっと言うなら、神と共にある永遠の天の国における最高に平安で、皆が手を取り合って喜び、感謝し合える状態と言えるでしょう。
しかし、この世の現実は平和から程遠い状態です。国ぐるみで公然と他国を攻撃し、人が苦しみ、死ぬことを殆ど何とも思わない人たちもいます。7年前の数字ですが、核弾頭の保有数はロシアが6850、米国が6450、フランス300、中国280、英国215、インドとパキスタンが夫々140前後で、イスラエル、北朝鮮と続くそうです。一体、これらを使ってどうなると言うのでしょうか。唖然(あぜん)とします。
けれども、今だけでなく、これまでも戦争や争いのない時代など、世界中で一度もありませんでした。
人間は、どうしてこうなのでしょうか。人間が造り主なる神に背いた結果、神との関係が壊れ、自分さえ良ければという罪が蔓延(まんえん)したからです。
しかし、罪は決して人間を幸せにはしません。罪に生きた国も人間も皆滅びました。しかも人間の場合は、神の裁きを受け、恐ろしい永遠の死に至ります。ローマ人への手紙6:23は言います。「罪の報酬は死」だと。何という悲惨でしょうか。
では、私たちには絶望しかないのでしょうか。いいえ、ここに福音があります!
何とこんな私たちを神は憐れまれ、ご自分の愛しい(いとしい)独り子(ひとりご)を救い主イエスとして世に遣わされたのです。そのイエスは、罪により失われた神との本来の関係に人間を回復するために、ご自分の命を十字架で献げ、私たちの罪を全て償って下さいました。クリスマスとは、馬小屋でお生れになり、寝かされた最初の場所が飼葉桶という、とことん私たちのためにご自分を低くなさり、自らを献げて下さったそういう主イエス覚え、神の計り知れない愛を深く深く思う時と言えます。
それでは、イエス・キリストによる平和とは、どんなものでしょうか。聖書は私たちに常に三つの関係を教えます。対神的、対人的、対自的関係です。簡単にでも見ておきます。
第一に、イエスは私たちに一番大切で根本的な神との平和を下さいます。
神は、人間が互いに愛し合い、仕え合うように造られました。それだけに、自己中心な私たちの罪を嫌われ、ローマ人への手紙1:18に「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬遠と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている」とある通り、神は怒っておられます。
ところが、何と神はこんな私たちを憐れまれ、御子イエスを世に遣わし、十字架につけ、私たちの罪を全てイエスの命により償い、私たちの罪を帳消しにする道を開いて下さいました。ですから、イエスを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、寄り頼むなら、どんな人でも造り主なる真(まこと)の神との平和を与えられます。
ということは、イエスを信じる者に、神は今や怒りと裁きの神ではなく、永遠の父でいて下さいます。
無論、イエス・キリストを信じても、私たちは自分の内になお残る腐敗した罪の性質のために罪を犯します。けれども、神の前に平伏し、心から赦しを請うなら、いつでも天の神に親しく「父なる神様」と呼びかけることを許され、神との間に、この世が与えることもこの世が奪うこともできない確かな平和を与えられます。何という幸いでしょうか。
二つ目に進みます。それは人との平和です。
神との平和がありませんと、人間はどうしても魂の奥に平安がなく、それが色々な形で心を乱し、対人関係にも現れます。また私たちが自分の尺度だけで人を見る限り、人への不満が生じ、穏やかでいることができなくなります。
しかし、その人をも神が愛し、救いを望んでおられることを考えますと、違って来ます。テモテへの手紙 第一 2:4は言います。「神は、全ての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」
このように、神の愛がどんな人にも及んでいることを思う時、私たちは人を違う視点から見ることもできるようになり、その人の良さも認めることが多少ともできるようになります。
それに、そもそも罪深い自分に対し、神が平和の神として大きな大きな忍耐と寛容の中に生かして下さっていることを思いますと、私たちも少しずつ寛容と忍耐をもって人を見つめ、平和を願う者となります。すると、神はこんな私たちと一層共にいて下さいます。コリント人への手紙 第二 13:11は言います。「…兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなた方と共にいて下さいます。」
最後、三つ目は自分との平和です。
私たちの大きな問題の一つは、自分ともうまく行かないことです。私たちは時々、自分の欠点やふがいなさ、また弱さや罪深さを知って、自分自身に腹を立て、自己嫌悪に陥ります。このことを既に旧約聖書のエゼキエル書20:43は、「あなた方は…、自分の身を汚した自分たちの生き方と、全ての行いを思い起し、自分たちの行なった全ての悪の故に、自分自身を嫌うようになる」と言っていました。
そういう時、私たちの心は荒れます。また自暴自棄になりやすいですね。自分を受け入れられないからです。そんな時の私たちは、何と惨めでしょうか。自分との間に平和がないわけです。
しかし、ここでよく考えたいと思います。神は御子イエス・キリストを賜ったほどに、こんな私たちをも心に留め、イエスへの信仰だけで、私たちを罪も弱さもあるがまま本当に受け入れて下さるのです。何という神の愛でしょうか。
ですから、自分の中に嫌いな所があったとしても、神が私たちを愛して下さっているのですから、私たちも安心して自分を受け入れてかまいません。神はイザヤ書43:4で信仰者に対し、「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と言われました。この言葉は、今も私たちに向けられています。何と感謝なことでしょうか。
自分との平和というこの嬉しい恵みも、イエス・キリストは与えて下さる救い主なのです。
このクリスマスの時、私たちはまず、飼葉桶の中に眠る幼子の姿の平和の君、柔和な主イエス・キリストを思い、次にこのイエスによる神との平和、人との平和、自分との平和という掛けがえのない恵みを深く心に留めたいと思います。
そして、イエス・キリストはマタイ福音書5:9で「平和を造る者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるからです」と言われました。ですから、私たちも何より心から平和のために、まず日々祈る者となり、また身近な所で少しでも平和を造る者とされ、そうして神の子供と呼ばれる幸いに、ますますご一緒に与りたいと思います。