2025年01月16日「イエスの祈りとそのお姿 ⑶」

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イエスの祈りとそのお姿 ⑶

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章31節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:31 「シモン、シモン、見なさい。サタンがあなた方を麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
22:32 しかし、私はあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
22:34 しかし、イエスは言われた。3「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言います。」ルカによる福音書 22章31節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 「イエスの祈りとそのお姿」について、今日もお話致します。三回目となります。

 イエス・キリストのご本質について、ウェストミンスター小教理問答の問21は「かれは、永遠の神の御子でありながら人となられました。それで、二つの全く異なった本性である、神と人でありつつ、一位格であられ、そして永遠にそうあり続けられます」とまとめています。従来の表現ですと、イエス・キリストのいわゆる<二性一人格の教理>です。またそういうお方として、イエスは常に私たちに対し、同じくウェストミンスター小教理問答の問23が言いますように、<預言者、祭司、王>としての職務を遂行して下さいます。

 そこで、今日心に留めたいことは、祭司、もしくは大祭司であり、特に仲保者として、主イエスが絶えず私たちを天の父なる神に<執り成して下さっている>ことです。私たちが自分の罪深さ、弱さ、愚かさを考えるならば、主イエスが憐み深い大祭司として、私たちのためにどんな時にも執り成しの祈りと願いを父なる神に捧げて下さっていることは、何という慰めでしょうか!

 先程お読みしましたルカ22:31以降をご覧下さい。ここは22:14以降が伝えますように、十字架に架かられる前夜、イエスが弟子たちと最後の食事をされたその直後のことを伝えています。イエスはペテロに言われました。31、32節「シモン、シモン、見なさい。サタンがあなた方を麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、私はあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 しかし、自分の弱さがまだ分っていなかったペテロは、頑張ってイエスにこう言います。33節「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」これに対してイエスは言われました。34節「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言います。」

 この後、イエスはユダヤ人たちに捕えられ、ペテロは勇気を奮って後をつけて行きます。しかし、大祭司の家の庭で怪しまれて怖くなり、三度、イエスを否定しました。すると鶏が鳴き、ペテロはイエスの言葉を思い出し、62節「外に出て行って、激しく泣」きました。

 ペテロは、主イエスに対して豪語した自分の、弱いくせに傲慢で罪深く愚かなことを赦せず、情けなくて、どんなに泣いたことでしょう。この時のことを彼は生涯忘れることができなかったでしょう。けれども、やがて彼は立ち直ります。罪を犯し、大きな失敗をしましたが、彼はそのまま信仰を失うのではなく、立ち直り、主イエスの復活後、初代教会を担うとても大事な指導者となりました。

 しかし更に後のことですが、ガラテヤ2:11以降が伝えますように、異邦人との食事のことでペテロは13節「本心を偽った行動」をし、しかも他の人やバルナバまでをもこれに引き込んでしまいます。そして後輩弟子のパウロに14節「皆の面前で」非難されました。この時、彼はどんな気持ちだったでしょうか。顔も上げられない位恥ずかしく、とことん自分を情けなく思ったのではないでしょうか。

 こういうペテロでしたが、それでも彼は愛する主イエス・キリストから、生涯、決して離れることなく、最後はローマで、それも逆さ磔で殉教したと伝えられています。一体、彼は何故そのような生涯を送ることができたのでしょうか。

 それは、ひとえに天の父なる神への主イエスの執り成しの祈りの故でした。主は先程の警告の後、ペテロにこう言われました。ルカ22:32「しかし、私はあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」イエスはその前にも21:18「あなた方の髪の毛一本も失われることはありません」と約束しておられました。

 ペテロと同じように、いいえ、もっと不信仰で罪深く、傲慢でもあり、時には余りに情けない自分に絶望的になることもある私たちです。ところが何とイエスは私たちに絶望されず、見捨てることも見限ることもされず、昼も夜も執り成し続けて下さっているのです!ですから、私たちは今まで背教しないでいることができている!これが答だったのです。

 この仲保者、祭司であられる主イエスの執り成しの祈りを、私たちも決して忘れず、一日を終るたびに、主イエスの執り成しを、是非思い出し、何度でも感謝したいと思います。

 またイエスは先程の言葉に続けて、32節「ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とペテロに言われました。そのためにも主はお祈り下さったのでした。それなら、私たちも決して高ぶることなく、愛する主イエスに倣い、時に情けないほど弱いと思える兄弟姉妹たちをも切り捨てることも見限ることもなく、自分自身が今も教会から離れずにおられるのが、ただただ主イエスの執り成しのお蔭であることを覚えて、忍耐強く執り成し、力付けてあげることに、是非、皆で努めたいと思います。

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