聖書の言葉 6:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。6:13 そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。ルカによる福音書 6章12節~13節 メッセージ 2025年最初の祈祷会を、今朝、いつもの木曜日の祈祷会のように持つことができ、神に感謝致します。 今日はまだお正月の二日目ですので、祈祷会を持つかどうか少し考えましたが、やはり新しい年を始める時だからこそ、持つことにしました。 今朝は、祈りについて再度学びたいと思います。 祈りについて、実は何度も学んで来ました。主の祈りを、祈祷会では第四祈願まで19回に分けて学び、日曜礼拝でもマタイの福音書の連続講解説教の中で6回学びました。また、祈りの様々な面を祈祷会で27回学びました。従って、今朝確認することは、既に学んだ内容と重なる所があると思いますが、大切なことは何度学んでも良いですので、重複を恐れずにお話したいと思います。 今朝、心に留めたいことは「イエスの祈りとそのお姿」という点です。では、どんな点があるでしょうか。今朝は二つの点だけ見ることに致します。 一つは、どんなことでも祈りをもって始め、重要な事を始める前には特に必ず祈るということです。何かをする初めに、まず神の前に頭(こうべ)を垂れ、神を仰ぎ、神に祈ることは何と大切でしょうか。それどころか、不可欠とさえ言えるでしょう。 マタイの福音書4章は、イエスが救い主としての公生涯を始める前に、荒野の誘惑を受けられたことを伝えます。40日40夜、イエスは断食をされました。 では、断食の目的は何でしょうか。神の前に瞑想し、とにかく神に祈り、神と深く交わることに他なりません。神の御子ではありますが、一人の人間としての主イエスにとって、救い主としての働きを始めることは、多くの苦難、試練が待ち受け、しかも最後には十字架の死が待つという大変な働きを始めることでした。ですから、悪魔の誘惑は承知の上で、イエスはどうしても祈られたのでした。 またマルコ福音書1:35は、イエスが「朝早く、まだ暗い内に起きて寂しい所に出かけて行き、そこで祈っておられた」ことを伝えます。これは、恐らくこの朝だけのことではなかったでしょうね。というのは、主イエスにとって、朝とは、ただ単に新しい日が始まったから、何となく起きて動き出すというようなものではなかったからです。朝とは、主イエスにとって、天の父なる神の御心をしっかり行い、救いのご計画を遂行し、天の父の愛と慈しみ、御力とご栄光を世に現す、そういう大切な一日という時間を始める時でした。ですから、祈らないで始めるなど、おできにならなかったでしょう。これは今の私たちにとっても、大変大事なことだと思います。 もう一つのことは、危機的な時には夜を徹してでも祈るという真剣な姿勢です。 先程お読みしましたルカ福音書6:12は「その頃、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた」と伝えます。「その頃」とあります。前後の聖書箇所を読むと分りますが、主イエスの御業(みわざ)と御教え(みおしえ)の故に、律法学者たちやパリサイ人たちなどが公然とイエスに敵対し、怒りや憎しみを向け、緊張をはらむ状況になっていました。 そういう中、13節が伝えますように、イエスは弟子たちの中から、今後、教会の柱また土台となる12使徒を選ばれます。弟子たちもぴりぴりする周囲の空気を当然感じていたでしょう。これは大変緊張する状況での、しかも今後の教会にとって極めて重要なことでした。ですから、イエスは夜を徹して祈られ、父なる神の御心を仰ぎ、尋ね、確認されたのでした。 またこういう重要な判断を、それも緊張をはらむ危険な状況の中でしなければならない時などは、世を徹してでも神に祈らなければならないことを、イエスは弟子たちに身をもってお教えになったのではないかと思われます。 少し後の初代教会時代に、ヘロデ王、つまりヘロデ・アグリッパ一世が教会を迫害し、ヤコブを剣で殺し、ペテロをも捕え、四人一組の兵士四組に渡して牢で監視させたことがあり、これは初代教会において最大の危機の一つでした。その時、教会はどうだったでしょうか。使徒の働き12:5は伝えます。「教会は、彼のために、熱心な祈りを神に捧げていた」と。そして、ヘロデがペテロを引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは奇跡的に主の使いに助けられ、夜明け前でしょう、彼は12節「マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った。そこには多くの人々が集まって、祈って」いました。この危機的な時、教会では皆が夜を徹して真剣に祈っていたのです。まさに祈る主イエスご自身のお姿に倣ったのでした。 今朝は「祈るイエスのお姿に倣って」という点で、どんなことでも祈りをもって始め、重要なことを始める前には特に必ず祈ること、また危機的な時には夜を徹してでも真剣に祈るという二つの大切なことを再確認しました。主ご自身がこれらを少しでも私たち一人一人に実践させて下さり、そうして、是非、私たちを福音の前進にお用い下さいますように! 関連する説教を探す 2025年の祈祷会 『ルカによる福音書』
2025年最初の祈祷会を、今朝、いつもの木曜日の祈祷会のように持つことができ、神に感謝致します。
今日はまだお正月の二日目ですので、祈祷会を持つかどうか少し考えましたが、やはり新しい年を始める時だからこそ、持つことにしました。
今朝は、祈りについて再度学びたいと思います。
祈りについて、実は何度も学んで来ました。主の祈りを、祈祷会では第四祈願まで19回に分けて学び、日曜礼拝でもマタイの福音書の連続講解説教の中で6回学びました。また、祈りの様々な面を祈祷会で27回学びました。従って、今朝確認することは、既に学んだ内容と重なる所があると思いますが、大切なことは何度学んでも良いですので、重複を恐れずにお話したいと思います。
今朝、心に留めたいことは「イエスの祈りとそのお姿」という点です。では、どんな点があるでしょうか。今朝は二つの点だけ見ることに致します。
一つは、どんなことでも祈りをもって始め、重要な事を始める前には特に必ず祈るということです。何かをする初めに、まず神の前に頭(こうべ)を垂れ、神を仰ぎ、神に祈ることは何と大切でしょうか。それどころか、不可欠とさえ言えるでしょう。
マタイの福音書4章は、イエスが救い主としての公生涯を始める前に、荒野の誘惑を受けられたことを伝えます。40日40夜、イエスは断食をされました。
では、断食の目的は何でしょうか。神の前に瞑想し、とにかく神に祈り、神と深く交わることに他なりません。神の御子ではありますが、一人の人間としての主イエスにとって、救い主としての働きを始めることは、多くの苦難、試練が待ち受け、しかも最後には十字架の死が待つという大変な働きを始めることでした。ですから、悪魔の誘惑は承知の上で、イエスはどうしても祈られたのでした。
またマルコ福音書1:35は、イエスが「朝早く、まだ暗い内に起きて寂しい所に出かけて行き、そこで祈っておられた」ことを伝えます。これは、恐らくこの朝だけのことではなかったでしょうね。というのは、主イエスにとって、朝とは、ただ単に新しい日が始まったから、何となく起きて動き出すというようなものではなかったからです。朝とは、主イエスにとって、天の父なる神の御心をしっかり行い、救いのご計画を遂行し、天の父の愛と慈しみ、御力とご栄光を世に現す、そういう大切な一日という時間を始める時でした。ですから、祈らないで始めるなど、おできにならなかったでしょう。これは今の私たちにとっても、大変大事なことだと思います。
もう一つのことは、危機的な時には夜を徹してでも祈るという真剣な姿勢です。
先程お読みしましたルカ福音書6:12は「その頃、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた」と伝えます。「その頃」とあります。前後の聖書箇所を読むと分りますが、主イエスの御業(みわざ)と御教え(みおしえ)の故に、律法学者たちやパリサイ人たちなどが公然とイエスに敵対し、怒りや憎しみを向け、緊張をはらむ状況になっていました。
そういう中、13節が伝えますように、イエスは弟子たちの中から、今後、教会の柱また土台となる12使徒を選ばれます。弟子たちもぴりぴりする周囲の空気を当然感じていたでしょう。これは大変緊張する状況での、しかも今後の教会にとって極めて重要なことでした。ですから、イエスは夜を徹して祈られ、父なる神の御心を仰ぎ、尋ね、確認されたのでした。
またこういう重要な判断を、それも緊張をはらむ危険な状況の中でしなければならない時などは、世を徹してでも神に祈らなければならないことを、イエスは弟子たちに身をもってお教えになったのではないかと思われます。
少し後の初代教会時代に、ヘロデ王、つまりヘロデ・アグリッパ一世が教会を迫害し、ヤコブを剣で殺し、ペテロをも捕え、四人一組の兵士四組に渡して牢で監視させたことがあり、これは初代教会において最大の危機の一つでした。その時、教会はどうだったでしょうか。使徒の働き12:5は伝えます。「教会は、彼のために、熱心な祈りを神に捧げていた」と。そして、ヘロデがペテロを引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは奇跡的に主の使いに助けられ、夜明け前でしょう、彼は12節「マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った。そこには多くの人々が集まって、祈って」いました。この危機的な時、教会では皆が夜を徹して真剣に祈っていたのです。まさに祈る主イエスご自身のお姿に倣ったのでした。
今朝は「祈るイエスのお姿に倣って」という点で、どんなことでも祈りをもって始め、重要なことを始める前には特に必ず祈ること、また危機的な時には夜を徹してでも真剣に祈るという二つの大切なことを再確認しました。主ご自身がこれらを少しでも私たち一人一人に実践させて下さり、そうして、是非、私たちを福音の前進にお用い下さいますように!