2024年12月01日「飼葉桶の中の救い主」

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飼葉桶の中の救い主

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 2章8節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

2: 8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
2: 9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを
   告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしで
   す。
2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。
    地の上で、平和が、みこころにかなう人々にあるように。」ルカによる福音書 2章8節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 キリスト教会の暦では、今年は、今日からアドベント・待降節と呼ばれる時が始まります。これは、全世界の救い主・神の独り子(ひとりご)イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスを待ち望む期間です。そこで今朝は、クリスマスに関連する聖書の御言葉を見たいと思います。

 ルカ福音書2:8~14は、イエスがマリアから誕生された時のことを伝えています。今朝、注目したいのは、12節でも16節でも言われていますが、生れたばかりの幼子イエスが、何と飼葉桶の中に寝かされたことです。これは普通ではありません。とはいえ、これも神のご計画の中で起ったことです。そうだとすると、これにどんな意味があるのでしょうか。

 一つのことは、神の御子(みこ)イエスは、貧しく低い状態にある人の傷ついた心をもお分り下さり、深く顧みて下さる救い主だということです。

 今朝の聖書箇所の直前の1~7節が伝えていますように、マリアとヨセフは住民登録のために、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムに来ていました。二人ともダビデの家系に属していたからです。ところが、ベツレヘムには各地から大勢人が来ていて、宿屋は満杯でした。しかもマリアは出産直前でした。

 そこで、あわてて家畜小屋を借り、イエスはそこで誕生されたのでした。慌ただしい状況で仕方がなかったと思いますが、それにしても、天と地を造られ、歴史を支配される栄光に満ちた天の父なる神の独り子が、全世界の救い主としてお生れになり、最初に寝かされた場所が飼葉桶とは、何ということでしょう。

 飼葉桶とは、牛や馬などの家畜の食べ物を入れるために、木で作られた入れ物です。当然、動物の食べ滓やよだれがこびり付いています。排泄物も近くにあったかも知れません。いくら昔でも、生れたばかりの赤ちゃんは、極力、柔らかくてきれいな布でくるまれ、清潔で安全な所に寝かされたことでしょう。少々貧乏であっても、不潔な飼葉桶に、生れたばかりの大切な赤ちゃんを寝かせる親が、どこにいるでしょうか。すぐそばには家畜がいてガサガサ動き、声を出して鳴いていたでしょうし、獣臭(けものしゅう)と排泄物の臭いが漂う暗い家畜小屋!汚くて、その上、ゴツゴツして固くて冷たい飼葉桶。

 しかし、神の御子イエスは、何とそういう所で誕生され、そういう飼葉桶にまず寝かされたのでした。

 これは何を意味するのでしょうか。イエスは、生れた時から比較的恵まれた環境で育つことの出来た人の救い主であるだけでなく、貧しく、低く、恵まれない厳しい環境で生れ育つほかなく、そのために心が傷ついている人の救い主でもあるということです。

 福音書は、ヨセフのことをイエスの少年時代に少し伝えていますが、その後(あと)はありません。割合、早くに亡くなったのでしょう。ということは、イエスは、人となられた神の御子であられるのに、母親や弟・妹たちを養うために、ヨセフの跡を継いで大工としてどんなに一生懸命働かれたことでしょうか。

 今は、格差や貧困や差別の問題がしばしば取り上げられ、その解消への努力も大分なされています。けれども、幼い頃、貧困を初め、辛い環境で生きざるを得なかった人には、トラウマとかPTSDなどと呼ばれる心の深い傷のある場合も少なくありません。これは恵まれて育った人には中々分らないと思います。

 そのことを思いますと、本来は栄光に包まれた神の独り子・主イエスが、生れて初めて寝かされた所が固くて冷たくて汚い飼葉桶で、少年期、青年期には家族のために一生懸命働かざるを得ないことを体験されたことは、やはり意義深いと思います。イエスは、自分ではどうにもすることのできなかった心の傷に苦しむ人をもよく分り、救うことの出来る救い主でもあるのです。

 実は、イエスが誕生される数百年前、イザヤ書61:1は救い主をこう預言していました。「神である主の霊が私の上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主は私に油を注ぎ、私を遣わされた」と。また、初代教会時代に書かれましたⅡコリント8:9はこう言います。「あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられました。それは、あなた方が、キリストの貧しさによって富む者となるため。」飼葉桶の中の貧しいお姿の救い主!これに大切な意味のあることを思います。

 もう一つあります。私たちが心貧しい者、すなわち、神の前に真(しん)に謙虚で、それ故、柔和であること、そしてそれが平和を作る上でとても大切であることを教えられます。

 葉桶の中で静かに眠る幼子イエスのお姿を想像したいと思います。そこには凡そ(およそ)人を威圧し、威嚇し、攻撃し、挑戦するような尖ったものはありません。自分の力や強さ、立派さを誇示し、ぐいぐい人に自己PRするようなものも全くありません。むしろ、その逆です。

 寝かされた所が、普通はあり得ないような所であっても、そんなことは関係ありません。ただ布にくるまれ、安らかにスヤスヤ眠る幼子イエスには、そぉっと覗き込む者を自ずと優しい笑顔に変え、何とも言えない穏やかさや平安で心を満たすものがあったと思います。それが飼葉桶の中に眠る幼子イエスでもあられました。

 これは何を私たちに教えているでしょうか。先程申しましたように、傲慢さや攻撃性、自己PRなどとは正反対の、心の貧しさ、すなわち、神の前での謙虚さ、それ故の柔和さであり、更にこれらこそがとても大切な平和を私たちにもたらし、私たちもまた平和を作り出す者になれるということです。

 実際、マタイ福音書の5章から7章に記録されていますように、あの有名な山上の説教の初めの「幸福の教え」と呼ばれる八つの教えの中で、イエスが語られたのがこれらのことでもありました。イエスは言われました。マタイ5:3「心の貧しい者(つまり、神の前で真にへりくだった者)は幸いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだからです。」そして5:5で「柔和」であることの大切さを続けてお教えになります。そうして、心の貧しい者、また柔和な者だけが作れる大切な平和について、イエスは9節で言われました。「平和を作る者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるからです。」これも何と大切なメッセージでしょうか。

 聖書が、飼葉桶の中に眠っておられる幼子イエスのお姿をわざわざ伝えていることは、意味のないことではありません。

 聖書の中には、色々な箇所があり、難解な所もありますが、聖書を読む時、私たちは機械的に読み進むのではなく、極力、書かれている状況や様子、例えば、空気や色合い、人々の眼差し、音や声なども想像し、思い浮かべたいと思います。そして、それが私たちに何を教えているのかをよく考えること、つまり、長いキリスト教会の歴史の中で、信仰の先輩たちが大事にしてきました「瞑想」というものを、私たちも、是非大切にしたいと思います。そこからとても大切なことを教えられるからです。

 今朝、私たちは、本来は栄光に包まれたお方、天の父なる神の独り子イエスが、私たちを罪と滅びから救うために人となって誕生された時、「飼葉桶の中に寝かされた」ということを通して二つのことを学びました。

 第一に、イエスは貧しく低い状態にある人の傷ついた心をもよくお分り下さり、深く憐れみ顧みて下さる救い主であられます。ですから、私たちも、そのような方々に、主イエスに倣って、温かく、よく寄り添う者でありたいと思います。

 第二に、飼葉桶の中に眠る凡そ攻撃的なところのない幼子イエスのお姿から、私たちも改めて謙虚で柔和なことの大切さを心に刻み、平和をこそ、家庭でも教会でも職場でも社会でも、率先して作る者にされたいと思います。これらのことを心に覚え、心を整えられて、聖い(きよい)クリスマスを、是非、ご一緒に迎えたいと思います。

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