聖書の言葉 23:34 その時、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」ルカによる福音書 23章34節 メッセージ 試練について学んでいます。今日の11回目は、試練と赦しについて学びたいと思います。 一口に試練と言っても色々あり、人や社会から不条理で理不尽な苦しみを受けることもあります。何も悪いことをしていないのに、信じられないようなひどいことや惨いことをされ、苦しめられ、場合によっては命を奪われる。こういうことが、この罪の世では起り得ます。 そして何とかそれをやり過ごし、耐えたものの、心に深い傷となって残り、自分を苦しめた人たちのことを思い出すと、怒りと悔しさで爆発しそうになるという苦しい試練もあります。 この試練は、直接自分が受けた苦しみによることもあれば、肉親や親しい人が受けた場合もあります。いずれにせよ、こういう試練を神の御心に沿って克服できるとすれば、何によってでしょうか。聖書によれば、その一つは、イエスが十字架上で祈られたように、赦しでしょう。 イエスはご自分を十字架に付けた者たちのために、十字架上で祈られました。34節「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」 イエスを十字架につけた者とは、実はこの時のユダヤ人だけでなく、罪ある私たち全ての人間です。しかし主は、赦しということを通して、天の父の御心とはいえ、人間的にはあまりにも不条理な十字架の試練を、もう乗り越えておられたと言えるでしょう。 ご承知のように、アメリカのペンシルベニア州ランカスターを中心に、従順・謙虚・質素を生き方の基本とするアーミッシュと呼ばれる人たちが住んでいます。カナダにも南米・中米にも住んでいるそうです。電気、水道、電話、自動車は使わず、昔ながらの独特な生活様式を守り、信仰は礼拝時だけでなく、生活の隅々まで行きわたり、何でも皆で助け合い、徹底した平和主義に生きています。 ところが、2006年10月2日、この平和な町に恐ろしい事件が起りました。チャールズ・カール・ロバーツという男が銃を持って小学校に乱入し、大人と男子生徒を教室から追い出し、女子生徒を10人だけ残し、彼女たちに言いました。「俺は神に腹を立てている。だから、クリスチャンの女の子に罰を与え、仕返しをするんだ。」 その時、最年長で13歳のマリアンは、男が皆を殺そうとしているのを知り、「私から撃って下さい」と進み出ました。病院で意識を回復した彼女の妹からこれが分り、妹も「その次は私を」と続けたそうです。男は散弾銃を発砲。5人の女の子は即死し、残りの5人は重傷を負い、男は銃で自殺しました。 衝撃的な事件でしたが、更に衝撃的だったのは、事件後、アーミッシュの人たちが、「私たちは犯人とその家族を赦します」と言ったことです。犯人のロバーツはアーミッシュではなく、近くの町の人でした。アーミッシュの人たちは、犯人のロバーツの家族もまたこの事件の犠牲者であることを理解していました。 彼らは事件の日、即座に犯人の家族の許を訪れ、優しく慰めを与えました。犯人の妻エイミーの祖父はこう言いました。「彼らは私に何の恨みもないと言った。赦してくれると言うんだ。胸が痛み、信じられないような気持だった。…エイミーの家にアーミッシュが次々とやってきては、赦しと慰めの言葉をかけ、見舞いの品を置いて帰るんだ。」 犯人ロバーツの葬儀には、アーミッシュの人たちが数多く参列し、その光景を葬儀屋さんはこう報告しています。「殺されたアーミッシュの子の家族が墓地に来て、犯人の妻エイミー・ロバーツにお悔やみを言い、赦しを与えたところを見たんですが、あの瞬間は決して忘れられないですね。奇跡を見ているんじゃないかと思いました。」 このことは、たちまち大きな驚きとなってインターネットで広がりました。ところが、これが彼らには驚きでした。ある男性アーミッシュは言いました。「何故驚くのですか。極(ごく)普通のクリスチャンの赦しなのに。赦すことは、私たちの日常生活の一部ですから。」 少女を殺された両親は言いました。「イエス・キリストへの信仰を通してのみ赦しが可能になります。私たちアーミッシュではなく、キリストこそが称賛と栄光に値するのです。」 私たちにはよく分らない点もある彼らですが、赦すことは日常生活の一部だと言う彼らは、普通なら癒しがたい深い心の傷という試練も、赦すことを通して、主の御前に乗り越えていたのかも知れません。1981年、広島を訪れたローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が語った「赦しなさい。赦さないと、あなたはずっと相手の支配下にあります」という言葉を思い出します。 いずれにせよ、主イエスが、ご自分を殺す人たちのために、十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい」と、赦しを祈られたことの意味の、如何に深く大きいかを改めて思わされます。 関連する説教を探す 2024年の祈祷会 『ルカによる福音書』
試練について学んでいます。今日の11回目は、試練と赦しについて学びたいと思います。
一口に試練と言っても色々あり、人や社会から不条理で理不尽な苦しみを受けることもあります。何も悪いことをしていないのに、信じられないようなひどいことや惨いことをされ、苦しめられ、場合によっては命を奪われる。こういうことが、この罪の世では起り得ます。
そして何とかそれをやり過ごし、耐えたものの、心に深い傷となって残り、自分を苦しめた人たちのことを思い出すと、怒りと悔しさで爆発しそうになるという苦しい試練もあります。
この試練は、直接自分が受けた苦しみによることもあれば、肉親や親しい人が受けた場合もあります。いずれにせよ、こういう試練を神の御心に沿って克服できるとすれば、何によってでしょうか。聖書によれば、その一つは、イエスが十字架上で祈られたように、赦しでしょう。
イエスはご自分を十字架に付けた者たちのために、十字架上で祈られました。34節「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」
イエスを十字架につけた者とは、実はこの時のユダヤ人だけでなく、罪ある私たち全ての人間です。しかし主は、赦しということを通して、天の父の御心とはいえ、人間的にはあまりにも不条理な十字架の試練を、もう乗り越えておられたと言えるでしょう。
ご承知のように、アメリカのペンシルベニア州ランカスターを中心に、従順・謙虚・質素を生き方の基本とするアーミッシュと呼ばれる人たちが住んでいます。カナダにも南米・中米にも住んでいるそうです。電気、水道、電話、自動車は使わず、昔ながらの独特な生活様式を守り、信仰は礼拝時だけでなく、生活の隅々まで行きわたり、何でも皆で助け合い、徹底した平和主義に生きています。
ところが、2006年10月2日、この平和な町に恐ろしい事件が起りました。チャールズ・カール・ロバーツという男が銃を持って小学校に乱入し、大人と男子生徒を教室から追い出し、女子生徒を10人だけ残し、彼女たちに言いました。「俺は神に腹を立てている。だから、クリスチャンの女の子に罰を与え、仕返しをするんだ。」
その時、最年長で13歳のマリアンは、男が皆を殺そうとしているのを知り、「私から撃って下さい」と進み出ました。病院で意識を回復した彼女の妹からこれが分り、妹も「その次は私を」と続けたそうです。男は散弾銃を発砲。5人の女の子は即死し、残りの5人は重傷を負い、男は銃で自殺しました。
衝撃的な事件でしたが、更に衝撃的だったのは、事件後、アーミッシュの人たちが、「私たちは犯人とその家族を赦します」と言ったことです。犯人のロバーツはアーミッシュではなく、近くの町の人でした。アーミッシュの人たちは、犯人のロバーツの家族もまたこの事件の犠牲者であることを理解していました。
彼らは事件の日、即座に犯人の家族の許を訪れ、優しく慰めを与えました。犯人の妻エイミーの祖父はこう言いました。「彼らは私に何の恨みもないと言った。赦してくれると言うんだ。胸が痛み、信じられないような気持だった。…エイミーの家にアーミッシュが次々とやってきては、赦しと慰めの言葉をかけ、見舞いの品を置いて帰るんだ。」
犯人ロバーツの葬儀には、アーミッシュの人たちが数多く参列し、その光景を葬儀屋さんはこう報告しています。「殺されたアーミッシュの子の家族が墓地に来て、犯人の妻エイミー・ロバーツにお悔やみを言い、赦しを与えたところを見たんですが、あの瞬間は決して忘れられないですね。奇跡を見ているんじゃないかと思いました。」
このことは、たちまち大きな驚きとなってインターネットで広がりました。ところが、これが彼らには驚きでした。ある男性アーミッシュは言いました。「何故驚くのですか。極(ごく)普通のクリスチャンの赦しなのに。赦すことは、私たちの日常生活の一部ですから。」
少女を殺された両親は言いました。「イエス・キリストへの信仰を通してのみ赦しが可能になります。私たちアーミッシュではなく、キリストこそが称賛と栄光に値するのです。」
私たちにはよく分らない点もある彼らですが、赦すことは日常生活の一部だと言う彼らは、普通なら癒しがたい深い心の傷という試練も、赦すことを通して、主の御前に乗り越えていたのかも知れません。1981年、広島を訪れたローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が語った「赦しなさい。赦さないと、あなたはずっと相手の支配下にあります」という言葉を思い出します。
いずれにせよ、主イエスが、ご自分を殺す人たちのために、十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい」と、赦しを祈られたことの意味の、如何に深く大きいかを改めて思わされます。