2023年12月17日「エリサベツへの神の愛」

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エリサベツへの神の愛

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章5節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1: 5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
1: 6 二人とも神の前に正しい人で主の全ての命令と掟を落度なく行っていた。
1: 7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年を取っていた。
1: 8 さてザカリヤは、。自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
1: 9 祭司職の慣習に従ってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
1:10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
1:11 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
1:13 御使いは彼に言った。「恐れることはありません。ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
1:14 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15 その子は、主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎内にいるときから聖霊に満たされ、
1:16 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」
1:18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によってしることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年を取っています。」
1:19 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
1:20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私の言葉を、あなたが信じなかったからです。」
1:21 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
1:22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分った。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。
1:23 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。
1:24、25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。ルカによる福音書 1章5節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 アドベント中の今朝は、クリスマス関連の聖書箇所の中から、特にエリサベツへの神の愛という点を見たいと思います。

 神の御子(みこ)イエスが誕生される1年以上前のことです。5節は言います。「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」祭司ザカリヤは「アビヤの組」の者とあります。Ⅰ歴代24章によりますと、アビヤは大祭司アロンの家系に属し、ザカリヤはその子孫でした。またエリサベツもアロン家の子孫であり、夫婦共にユダヤでは名門の出でした。6節「二人とも神の前に正しい人で、主の全ての命令と掟を落度なく行っていた」とあります。夫婦揃って信仰深く、民衆の間でもそれはよく知られていたでしょう。

 ただ、7節が言いますように、彼らには子供がなく、既に歳を取っていました。普通には子供はもう無理という歳でした。

 エリサベツは不妊だったとあります。2千年以上昔のことですから、現代医学で言うとどうなのかは分りませんが、何であれ、彼女には大変辛かったと思います。ですから、この後、御使い(みつかい)がザカリヤに言った通り彼女が妊娠し、5か月が経った時、25節「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いて下さいました」と彼女が言ったのも無理はありません。「恥」と訳されているギリシア語は、むしろ「不名誉」という意味です。個人的な恥という以上に、名門の祭司の家系という責任感から、彼女は長く辛い思いをしてきたのだと思われます。

 今朝は、こういうエリサベツへの神の愛という点を学びます。では、どんな点にそれが見られるでしょうか。一つは、彼女がついに男の子を授かり、しかもその子が将来、全世界の救い主・神の御子イエス・キリストを信じることができるように、人々の心を整えさせる重要な人物になることです。

 御使いはザカリヤに言いました。14~17節「その子はあなたにとって、溢れるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。その子は主の御前(みまえ)に大いなる者となるからです。彼は葡萄酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいる時から聖霊に満たされ、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子供たちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために整えられた民を用意します。」

 話せないまま神殿から出てきた夫から、彼女は何度もこのことを教えられたでしょう。この子がやがて洗礼者ヨハネとなり、人々に悔い改めを迫り、救い主イエスを受け入れるように、皆の心を備えさせる尊い働きをします。それを想像して、エリサベツはどんなに嬉しく、胸が高鳴り、神に感謝したことでしょう。

 ここに神の愛があります!つまり、神は彼女を愛し、そこで彼女を選び、神と人のために尊い働きをする特別な子供を授け、その子を育てるという光栄ある役割を彼女に賜ったのです。神と人に対する尊い役割を与えられていることは、神がその人を、愛をもって選ばれたからに他なりません。後にイエスはご自分の愛する弟子たちに言われました。ヨハネ15:16「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選び、あなた方を任命し」たと。

 このことは私たちにも無関係ではありません。エリサベツの場合とは違いますが、私たちも皆、夫々異なる賜物を神から頂き、神の御心に従ってそれを人のために用い、献げ、また教会を通して人の救いのために誠に光栄ある役割を頂いているからです。

 私たちは皆欠けの多い者です。けれども、隣人の体と心と魂のために、言い換えますと、隣人の真(まこと)の幸せのために、必ず何か役割を頂いています。そういう神の愛と導き、光栄を改めて覚え、エリサベツのように是非、神に私たち自身をよく用いて頂きたいと思います。

 彼女への神の愛の二つ目は、信仰者としての彼女の人柄、人間性に関することです。彼女は謙虚で、神の御業(みわざ)を素直に心から喜ぶ愛すべき女性でした。それは、神が彼女を愛しておられ、その結果、彼女もまた神の愛や真実をよく認識し、感謝して生きて来た結果に他なりません。

 先程は読みませんでしたが、1:39以降をご覧下さい。ここは、その前の箇所、つまり、まだ結婚していなかったマリアに御使いガブリエルが現れ、彼女のお腹に聖霊により救い主なる神の御子イエスが宿られることを告げ、それを彼女が1:38「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉通り、この身になりますように」と受け入れたことを伝える箇所に続く所です。

 エリサベツに起ったことを知っていたマリアは、39~41節が伝えるように、「立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツに挨拶し」ました。そして「エリサベツがマリアの挨拶を聞いた時、子が胎内で躍」りました。

 興味深いのは、それに続くエリサベツのマリアへの言葉です。「エリサベツは聖霊に満たされた」と41節は伝えます。先々週の説教でも言いましたが、通常、聖霊は信仰者の信仰や人格を無視して機械のようにして語らせられるのではありません。むしろ、その人の知識や経験、性格などを総動員して語らせられます。従って、42節以降のエリサベツの言葉は、信仰に基づく彼女の人柄・人間性が現れ出たものに他なりません。

 では、そこにどういう点が見られるでしょうか。

 第一は、彼女の溌剌(はつらつ)として明るい、とても前向きな人柄です。例えば、42節に「大声で叫んだ」とあります。ここは元のギリシア語では「大きな叫び声で叫んで言った」という念の入った言い方になっています。ですから、よほど大きな声で叫んだのでしょう。

 またエリサベツはマリアに、44節「あなたの挨拶の声が私の耳に入った、丁度その時、私の胎内で子供が喜んで躍りました」と言います。お腹の子が聖霊によって喜んだのだと思われますが、これはまた、彼女自身の喜びがお腹の子に伝わったとも言えます。恐らくそれ位、彼女自身がすごく喜んだのだと思います。

 彼女が何歳になっていたかは分りません。しかし、結構高齢になっても、彼女は信仰者として溌剌とした快活で明るい前向きな女性だったようです。

 もう一つの点は、神のなさることを何より喜ぶ素直で謙虚な、また真直ぐな人柄です。42節以降に伝えられています彼女の言葉には、マリアへの嫉妬心や捻じれた感情とか棘のある思いなどは、少しも見られません。何十年も、それも名門の祭司の妻として生きてきたエリサベツからすれば、10代のマリアなど、全くひよっこの未熟な女の子でしかありませんでした。ところが、そのマリアが43節「主」、すなわち、全世界の救い主・神の御子の母親となるのです。自分より遥かに重要な役割にマリアが選ばれたのです。自分よりもマリアの方が、神に素晴らしく用いられる!こういうことに、人によっては妬みをいくらか覚えても変ではないかも知れません。

 しかし、エリサベツには全くそんなものはありません。自分との比較などどうでも良く、神のなさることを何より喜ぶ、とても素直で謙虚な心と真直ぐな信仰が、ここには見られると思います。

 彼女は、マリアに与えられた素晴らしい役割を大変喜んでいます。ここに、人に寄り添い、人を真に支える上で非常に大切なローマ12:15の御言葉、「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣きなさい」という教えを思い出します。エリサベツは、喜ぶ人と共に喜ぶ、本当に謙虚で素直な温かい信仰者だったのでした。

 第一に、信仰による溌剌とした明るい前向きな人柄、第二に、何より神のなさることを喜ぶ素直で謙虚で真直ぐな信仰による人柄!これは、神が彼女を愛され、彼女もまた今までの人生で神の愛に意識的に感謝し、救いの喜びや感謝を常に人と分ち合うように努めてきたその積み重ねにより作られた人柄でなくて何でしょうか。

 イエス・キリストの尊い救いの働きのために奉仕する人になっていく男の子を、今から産んで育てるエリサベツですが、私たちはここに、美しく歳を重ねていく一人の信仰者である婦人の姿を見るように思います。そして、独り子(ひとりご)イエス・キリストを賜ったほどに私たちを愛しておられる神は、クリスマスに関係する御言葉から、神に愛され、それ故、神の愛に応えて生きる私たち信仰者の年齢の重ね方についても、教えておられるように思います。

 主イエス・キリストが、どうか、私たち一人一人の心を照らし、温かい豊かな神の愛の下、私たちをも育てて下さいますようにと願います。アーメン

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