2023年12月03日「祭司ザカリヤへの神の愛」

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祭司ザカリヤへの神の愛

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章5節~25節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1: 5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
1: 6 二人とも神の前に正しい人で主の全ての命令と掟を落度なく行っていた。
1: 7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年を取っていた。
1: 8 さてザカリヤは、。自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
1: 9 祭司職の慣習に従ってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
1:10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
1:11 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
1:13 御使いは彼に言った。「恐れることはありません。ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
1:14 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15 その子は、主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎内にいるときから聖霊に満たされ、
1:16 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」
1:18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によってしることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年を取っています。」
1:19 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
1:20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私の言葉を、あなたが信じなかったからです。」
1:21 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
1:22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分った。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。
1:23 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。
1:24、25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。ルカによる福音書 1章5節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 アドベント(待降節)の第一主の日の今朝は、クリスマスに関係する聖書箇所から、祭司ザカリヤへの神の愛を学びます。

 神の御子イエスが誕生される1年以上前のことでした。5節は伝えます。「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤ組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」

 「アビヤ組」とあります。アビヤはⅠ歴代誌24:10によりますと、大祭司アロンの子孫であり、ザカリヤはさらにその子孫でした。要するに、この夫婦は共にユダヤでは名門の出でした。

 ルカ1:6に「二人とも神の前に正しい人で、主の全ての命令と掟を落度なく行っていた」とありますが、7節は「彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人とも既に年を取っていた」と伝えます。家系に恵まれ、二人揃って敬虔な夫婦でしたが、子供がいなかったのでした。

 その祭司ザカリヤが、9節「主の神殿に入って香を焚くこと」になりました。こんな名誉なことは滅多に起りませんが、くじが当り、嬉しいながらも、一方で緊張しつつ、彼は神殿に入ったことでしょうね。

 すると、11、12節「主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。」どんなに怖かったでしょう。しかし、御使い(みつかい)は13節以降が伝えますように、彼らにやがて男の子が生れ、将来、その子は救い主の到来に向かって人々を備えさせるという素晴らしい働きをすることを告げます。この子が後に洗礼者ヨハネとなります。

 さて、祭司ザカリヤへの神の愛を学ぶと、先程申しました。では、どんな点にそれが見られるでしょうか。

 大きな一つのことは、敬虔なこの夫婦の祈りを神が聞いておられたことです。

 御使いは言います。13節「恐れることはありません。ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。」彼は子供を授かることを心から祈り願ってきました。敬虔な夫婦ですから、単に子供がほしいというより、何より子供が神の清いご計画に用いられることをこそ願い、長い間、二人で心を合わせ、ひたすら祈ってきたと思います。こんな彼らを神は愛され、ついに祈りに応えられたのでした。

 無論、祈りは全て叶えられるのではなく、また叶えられなければ神が私たちを愛しておられないというのでもありません。神が私たちを愛しておられても、御心でなければ、実現しません。

 しかし、神は聞いておられないのではありません。私たちが神の前に深く頭を垂れ、神の言葉に服従し、神を心から信じて祈るなら、神は最終的にご自分の栄光が現れ、かつ私たちにとっても益となるように、必ず最善に導かれます!ザカリヤの祈りに神がお応えになられたことから、神のこのような大きな愛を、改めて覚えさせられます。

 大きな二つ目の点に進みます。神がザカリヤに苦しみを与えられたことも、神の愛だということです。

 面白いことに、彼は子供を願って祈りながら、いざ、神が叶えて下さるとなると、信じられませんでした。彼は言います。18節「私はそのようなことを、何によって知ることができるのでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」神に祈る信仰と、片や現実からしか物事を考えられない不信仰とが、同居しています。でも、これが弱い私たちの現実だと思いますね。

 御使いは言います。19、20節「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。見なさい。これらのことが起る日まで、あなたは口が利けなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私の言葉を、あなたは信じなかったからです。」

 実際、男の子が生れ、63、64節が伝えますように、その子を御使いに言われた通り、ヨハネと名付ける時まで、ザカリヤは口が利けませんでした。祭司は神殿での宗教儀式に加え、人々の罪の告白や相談も聞き、霊的状態を把握し、彼らのために日々神に祈ることも重要な勤めでした。そういう彼が約10か月間も全く話せないことは、どんなに辛かったでしょう。しかし、これが大切だったのです。神が彼の不信仰を罰せられたという点はありますが、これは、それ以上に神が彼を愛しておられたからです。

 では、どういう点でそれが言えるでしょうか。

 第一に、その間、彼は自分がこうなった原因を考え、自分の不信仰を悔い改め、神の前に徹底して自分を低くしないではおられなかったはずです。この苦しい時を過すことで、彼は神と人の前で最も大切な謙虚さを改めて身に着けることが、きっと出来たと思います。そこに神の深い愛がありました。

 第二に、その間、彼は神にどんなに真剣に祈り、神を畏れる敬虔な者にされたことでしょう。

 6節が伝えますように、彼は神の命令も掟も立派に守っていました。けれども、神を真に畏れ祈って、神と深く交わる敬虔さに、完全ということはありません。元々敬虔な人でしたが、口が利けない期間、彼はさらに練り清められ、さらに敬虔な者にされたと思います。そこにも神の愛がありました。

 第三に、病気や事故で口が利けなくなった他の方々の苦しみ、悲しみをも理解できる者に、彼は成長させられたと思います。これも神の愛でした。

 第四に、自分が話せないため、自ず(おのずと)と他の人の話をよく聞くことを一層学んだと思います。自分がしゃべる前に、まず人の話をよ~く聞き、理解する!何と大切なことでしょうか。ヤコブ1:19は言います。「人は誰でも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」

 聞くという姿勢は、神との関係、すなわち、私たちの信仰にとっても大変重要です。ローマ10:17は「信仰は聞くことから」始まる、と言います。ここにも神の愛がありました。

 第五に、この辛い期間、彼は今まで以上に聖書をよく読み、物事を聖書の御言葉に基いてよく見つめ、考え、思い巡らしたでしょう。これは、今日は読みませんでしたが、1:68~79に伝えられていますザカリヤの預言に、よく現われていると思います。

 そこの67節が言いますように、彼の言葉は、聖霊に満たされて預言した特別なものであり、神が語らせて下さったものです。しかし、聖霊なる神は、人間を機械やロボットのようにして語らせられるのではありません。むしろ、その人の信仰や祈り、知識、体験などを総動員して語らせられます。従って、68節以降の言葉も、以前からのものに加え、話せなかった期間のザカリヤの聖書の深い学びや思索などで培われたものを、聖霊なる神が導き、まとめさせられたものと見るのが自然でしょう。

 68~70節では旧約聖書に預言されていた救い主のこと、71~75節では神による救いのご契約や誓い、76、77節では彼の子供の将来、つまり、洗礼者ヨハネのこと、78、79節では神の大きな憐れみを語ります。

 ここには、私たち罪ある人間への救い主イエス・キリストによる救いの福音がしっかり確認されています。10か月間、彼が全く話せなかったのは非常に辛かったと思いますが、それは単なる懲らしめや罰ではなく、無意味な時でもありませんでした。むしろ、聖書をさらによ~く読み、思索し、考えることで、信仰的、人格的に深く練られ、グンと成長させられる恵みの時だったのでした。詩篇119:71の御言葉、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたの掟を学びました」を思います。

 不信仰で弱い面があったとしても、誠実に敬虔に生きてきた祭司ザカリヤを、神が愛されないはずがありません!神のこの大きな、温かい、豊かな愛を、私たちは改めて覚えさせられます。ザカリヤに臨まれた神が、私たちの信仰をもさらに高く引き上げて下さいますように!

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