主は聖霊によりて宿り ⑵(使徒信条の学び16)
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 1章26節~38節
1:26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
1:28 御使いは入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
1:34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」
1:38 マリヤは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
ルカによる福音書 1章26節~38節
キリスト教会が長い歴史を通じて告白して来ました使徒信条により、キリスト教の基本教理を、昨年の7月17日から、飛び飛びですが続けて学んでいます。
先週の主の日の礼拝説教では、使徒信条の第二区分である神の独り子、主イエス・キリストについての記述の中の「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ」という部分を取り上げました。神の独り子、すなわち、三位一体(さんみいったい)の神の第二人格であられる子なる神が、聖霊により、処女(おとめ)マリアから人間イエスとして誕生されたという驚くべき処女降誕(しょじょこうたん)の出来事と、それが私たち罪人にとって持つ大切な意義を学びました。
ただ、先週の礼拝に出席されなかった方も多いですので、念のために先週の学びを少し振り返ります。
イエス・キリストの処女降誕に関連して学んだ第一のことは、イエスの復活についてもそうですが、キリスト教は、何らかの幻想や難しい思索、あるいは悟りやひらめきなどを土台とする宗教ではなく、何より「事実」を大切にし、「事実」に土台を置く宗教だということです。ですから、どんなに脅かされても、使徒ペテロとヨハネは、教会を迫害する紀元1世紀のユダヤ最高法院で、大勢の議員たちを前に敢然とこう言いました。「私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」(使徒4:20)そして実際、彼らはそれに命まで賭けました。これがキリスト教なのです。ですから、私たちも、聖書のメッセージ、その福音を心から信じ、喜んで従うのです。
第二に、神の御子イエス・キリストの処女降誕には、私たち罪人を、罪とその結果である永遠の悲惨から救う神の驚くべき知恵と愛、熱心と壮大な救いの計画が込められていることを改めて学びました。つまり、元々、神であられる主イエスが私たちと全く同じ人間の性質を持ち、しかも全く罪のない聖い(きよい)状態で生れられたので、私たちを罪から贖う(あがなう)ことがお出来になること。また私たち人間の弱さを全部お分かり下さり、しかも私たちの人生最後で最大の試練である死の恐怖も苦しみも、死ぬこと自体も味わわれ、それに打ち勝って復活されたこと。そして私たちが生きている時も死ぬ時も共におられ、天の父なる神の御前まで伴って下さることなどを学びました。
実際、キリストの処女降誕には、私たち罪人を、罪とその結果である永遠の悲惨から救い、完成して下さる神の驚くべき知恵と愛、熱心と壮大な救いの計画が込められています。ですから、将来のことも何もかも神に委ねて歩んで良いことを、皆で学びました。
さて、前回少し言いましたが、使徒信条の「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」という文言には、もう一つ非常に大切なことが告白されています。何でしょうか。聖霊の恵みとその御業(みわざ)、お働きについてです。キリストの処女降誕と共に、それと関連して、ここには「主は聖霊によりて宿り」とありますように、聖霊の恵みとその働きが述べられています。今朝はそれを確認したいと思います。
聖霊なる神については、使徒信条の第三部、「我は聖霊を信ず」という言葉で始まります最後の部分で、詳しく語られますが、今朝学んでいる所でも聖霊なる神に言及されていますので、聖霊の恵みを少し見ておきます。
実は、使徒信条におけます神の独り子、主イエス・キリストの処女降誕についての重点は、聖霊にあります。重点をあまりにも処女マリアに置いたために間違ったのが、ローマ・カトリック教会でした。ローマ・カトリック教会では、いつしかマリアを「神の母」とまで呼ぶようになり、マリア崇拝、すなわち、マリアを救い主ででもあるかのように崇め、偶像視するようになった面がありました。
マリアを信仰深い一人の女性として尊び、敬うことは、無論、良いことです。しかし、そのことと、マリアを崇拝し、彼女を拝み、彼女に祈ってお願いしたりすることとは全然違います。残念ですが、今日でも、マリアを敬うあまり、マリアに手を合せ、彼女を拝み、彼女に祈りを捧げて、彼女を崇拝しかねない人たちも時々見られます。
けれども、使徒信条の本来の意図は、聖書の教え通り、聖霊にあります。御使いガブリエルは、ルカ1:35でマリアにどう述べたでしょうか。「<聖霊>があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それ故、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」これに対し、38節「ご覧下さい。どうぞ、あなたのお言葉通り、この身になりますように」と言い、へりくだって神の御心に従順に従った、そのマリアを用いられた聖霊なる神の恵みと力に注目することが、何より大切なのです。
さて、聖書の中で聖霊の最も壮大なお働きに言及される所は、どこでしょうか。改めて言うまでもなく、天地創造の時ですね。創世記1:1、2は言います。「初めに神が天と地を創造された。地は茫漠(ぼうばく)として何もなく、闇が大水の面(おもて)の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」
茫漠として何もない、つまり全くのカオス、混沌の状態にあった地球上の世界を、キチンと保ち、秩序ある状態へと形造って行く天地創造の御業に、三位一体の神の第三人格であられる聖霊が大いに関られたのでした。
そして、その聖霊なる神が、処女マリアの胎に神の独り子が宿られるという私たち罪人の救いの業の第一歩に関られたのです!この重要な事実を、古代教会の信仰の先輩たちはよく理解していました。ですから、使徒信条はこう告白します。「主は聖霊によりて処女マリアより生まれ」と。
では、このことは私たちにとってどういう意味と恵みがあるでしょうか。私たちの救いとは、全世界を贖って尚余りある完全なイエス・キリストの救いの恵みに、天地創造に関られた聖霊によって私たちが与り(あずかり)、新しく造り変えられるという、聖霊による再創造の御業だ、ということです。
繰り返します。神の御子イエスがマリアの胎に宿られるという驚くべき奇跡的出来事に聖霊が関られたということは、そこから始まる私たちの罪と滅びからの救いとその完成にも、聖霊が天地創造の時のあの力と恵みをもって関って下さるということなのです!
そして主イエスは、ご自分をマリアの胎に宿らせる奇跡をされたその聖霊・御霊なる神を、今度は私たちに遣わし、聖霊を通して私たちの救い、言い換えると、私たちの再創造を、御言葉と共に遂行されるということでもあるのです。
具体的には、ヨハネ16:7でイエスが言われますように、聖霊・御霊は「助け主」として私たち信仰者に働かれます。「助け主」と訳されているギリシア語パラクレートスは、「共に」というギリシア語と、「呼ぶ」というギリシア語から成ります。つまり、私たちのそばにいて、私たちに声をかけ、慰め、励まし、あるいは取り成し、導いて下さる方、ということです。
主イエスはまた、ヨハネ16:13で聖霊を「真理の御霊」とも呼んでおられます。つまり、聖霊は私たちの心を照らし、究極の真理であられる生ける真(まこと)の神を、また、ただ御子イエスへの信仰により私たち罪人を救うという真理、福音を悟らせ、そして私たちの信仰を育んで下さる方なのです。
先程、「執り成し」とも言いました。実際、御霊は、私たちが辛さのあまり、祈ることも出来ず、ただ呻くことしか出来ないような時でも、弱い私たちを天の父なる神に必ず取り成して下さるのです。辛い迫害や苦難にいっぱい会っていた使徒パウロは、ローマ8:26で言います。「御霊も、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分らないのですが、御霊ご自身が、言葉にならない呻きをもって、取り成して下さるのです。」
一体、何という恵み、励まし、慰めでしょうか。「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生れ」という使徒信条の言葉には、こういう聖霊の恵みが告白されているのであり、求める者に御子イエスを通して与えられる聖霊なる神への信仰と信頼とを教え、励ましているのです。
天使ガブリエルは言いました。ルカ1:37「神にとって不可能なことは何もありません。」マリアは答えました。同38節「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」
ですから、私たちが「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」と使徒信条を唱える時、神には不可能なことは一つもないという聖霊の恵みと力を、一瞬でも良いですからしっかり覚え、またマリアのように「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」、つまり、「御心のままに、あなたの僕(しもべ)であるこの私を、どうぞお用い下さい」と祈り、聖霊の力と恵みに信頼し、私たち自身を神のきよい素晴らしい御業のために、喜んで差し出したいと思います。