恐れるな
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 2章8節~14節
2: 8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
2: 9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを
告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしで
す。
2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和が、みこころにかなう人々にあるように。」ルカによる福音書 2章8節~14節
本日、皆で共にクリスマス礼拝の祝福に与ることが出来、感謝でございます。
この1年を振り返りますと、新型コロナウィルス、ロシア・ウクライナ戦争、夏の異常な暑さ、そして他にも色々な問題のあった年でした。それでも私たちは、私たちをご計画に従って造り、生かして下さっている天の父なる神と御子イエス・キリストの恵みの下、今日を迎えることが出来ました。また神の愛の下で、私たちは皆、多くの人に助けられて来ました。本当に感謝なことです。
ただ、世界には今も大きな苦しみ、痛みの中にある方々が沢山おられます。彼らのために祈り、何らかの形で支援することを忘れないでいたいと思います。
さて、今朝は「恐れるな」ということを聖書から学びます。先程お読みした聖書箇所は、約二千年前、全世界の救い主、神の御子イエスがユダヤのベツレヘムで誕生された時のことを伝えています。郊外で羊飼いたちが夜、野宿していますと、9節「主の使いが彼らの所に来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」しかし、天使は彼らに言いました。10、11節「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生れになりました。この方こそ主キリストです。」
天使はこう言って、飼葉桶に寝ている赤ちゃんの救い主イエスを伝えました。そして13節、天の軍勢が現れ、14節「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が御心に適う人々にあるように」と賛美しました。
繰り広げられたこの光景は圧巻ですね。けれども今朝は、天使が言いました「恐れるな」という言葉に注目したいと思います。
実は聖書には神からのこの言葉、このメッセージが沢山見られます。例えば、旧約聖書のヨシュア記1:9にはこうあります。「私はあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。」イザヤ41:10には「恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。私があなたの神だから。私はあなたを強くし、あなたを助け、私の右の手で、あなたを守る」とあります。
新約聖書の使徒18:9には「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。私があなたと共にいる」というパウロへの言葉があります。この言葉は、今ここにいる私たちにも向けられています。
では、どういう意味で恐れる必要がないのでしょうか。
その前に、私たちは、真に恐れるべきものは恐れなくてはならないことを心に刻みたいと思うのです。では、それは何でしょうか。天と地と私たち一人一人を愛をもって造られた、真(まこと)の神です。
残念ですが、人の思いも言葉も行いも全部ご存じの真の神を、一瞬、心に留めながらも、どんなに多くの人が、神を無視し、忘れ、自己本位な生き方をしているでしょうか。神の前に真実で謙虚、また愛をもって隣人に仕えるよりも、極力自分が損をせず、自分に負担がかからない楽な生き方を選んでいないでしょうか。そこには、多くのごまかしやずるさもあります。聖書の言う罪は、単に法律を破ることではありません。人間の如何(いかん)ともしがたい自己中心性を指します。
しかしこれは、私たちの人格、人間性を低め、何より、互いを謙虚に認め合い、愛し助け合うように人を造られた神が、悲しみ、嫌われることです。その最後は神との永遠の隔絶、滅びです。何と不幸で悲惨なことでしょう。
私たちを造られた神は、常に私たちを見ておられます。その意味で、神を恐れることはとても大切です。そして神を正しく恐れる所から、人間の本当の幸せ、喜びは始まります。私たちの救いのために御子イエスをプレゼントして下さった神の愛がジワーっと分ってくるからです。
以上、神を恐れることがとても大切であることを確認しました。
さて、天使が言いました「恐れるな」ですが、何を私たちは恐れる必要がないのでしょうか。
第一に、私たちの全ての不信仰と罪をご存じの真(まこと)の神を卑屈に恐れる必要がありません。
ヘブル4:12が「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、曝け出されています」と言う通り、私たちの隠れた行いも神は皆ご存じです。死後、私たちはその全てがあらわにされ、裁きを受けます。ごまかしは効きません。誰が大丈夫でしょうか。
しかし、ここに福音があります!罪も汚れもない神の御子イエスが私たちに代り、神の裁きを全部十字架で受けて死なれ、旧約聖書の預言通り三日後に甦り、今、天の父なる神と共におられます!イースターはこのことを感謝する昔からの行事ですね。
ですから、イエス・キリストを自分の救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼むだけで、私たちは罪を全て赦され、神の前に全く恐れなく立つことが出来、私たちは神の子とされ、永遠の神の愛の中に受け入れられます。何と言う幸せ、喜びでしょうか。ですから、「恐れるな」なのです。これが第一点です。
第二に信仰者は、今のことに基づいて、他の点でも恐れる必要がありません。
人生で私たちは色々な恐れに直面します。大きな失敗をし、人に呆れられて見捨てられるかも知れない恐れ。大きな危険に直面する恐れ。愛する大切な人を亡くし、自分が思いがけず早く死ななければならない、或いは、何もかも行き詰り、自分は生きていけないのではないかという恐れもあります。私たちはうろたえ、自分を失い、精神を病むことさえあります。
恐れを私たちは軽く見てはならないと思います。けれども、ここに福音があります!御子イエスへの信仰を通して、全知全能の神とその神の私たちへの愛とご支配と導きを知ることから来る、平安、希望、力を頂けることです。
私たちの前に生きた無数の信仰者たちが、迫害や命の危険や様々な恐怖に直面しつつも支えられ、最後まで誠実に生き、天国まで導かれた聖書の言葉が幾つもあります。例えば、Ⅰコリント10:13は言います。「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」私たちが耐えられないような試練に、神は遭わせることはなさらない!実際、この御言葉によって見事に支えられた人が、かつて私がチャプレンとして働きました淀川キリスト教病院の患者さんの中におられたことを思い出します。
また、自分の欠けた所も原因の一つかも知れませんが、しばしば私たちは、全く予想外の大きな問題に遭遇し、巻き込まれることがあります。私たちは寝ても覚めてもそれが頭にこびり付き、先のことが分らない恐れに潰されそうになります。「あぁ、一体どうなって行くのか」と溜息ばかりが出ます。
しかし、こんな私たちにローマ8:28は言います。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」と。神存在を信じるだけではありません。御子イエスを通して表された私たちへの神の計り知れない救いの愛を思いますと、「神様、あなたは何故私のような者を愛して下さるのでしょう」と驚嘆し、感謝し、神を愛さずにはおれません。
が、そうして神を愛するなら、今は私たちにとって何が何だか分らない問題の渦中にあっても、神はご自分の知恵と力で、いつか、私たちにとって万事を益として下さいます。私自身、このことを何度か経験しました。後(あと)になってそれが分った時、どんなに神に感謝したことでしょう。多くのクリスチャンがこれを経験しています。ですから、「恐れるな」なのです。
しかし、一番の恐れは、やはり死でしょう。理屈を超えて死は怖い。死ぬ時の怖さがあり、死後についての恐れがあります。しかし、死後については、イエスの十字架と復活の恵みがハッキリありますから、信仰者は恐れる必要がありません。ヨハネ14:2、3が伝えますように、イエス・キリストが天に住いを用意して下さっているからです。
では、死ぬ時はどうでしょうか。死も神の支配下にあり、神は死の苦しみの強さも長さも信仰者のために全てコントロールしておられ、神が定めた以上に強くも長くもなりません。ですから、「恐れるな」なのです。
これらのことを全て知り、イエス・キリストといつも共に生きていたパウロは、ピリピ1:21でこう言いました。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」
死は死でも、殺される死は、どんなに怖いでしょうか。
1597年2月5日、長崎で26人のキリシタンが処刑され、その中に最年少で12歳のルドビコ茨木がいました。彼を憐れんで一人の武士が「信仰を捨てるならお前を養子にしてやる」と声をかけました。しかし、ルドビコは答えました。「キリストが下さる永遠の命を失って、この世で50年生きた所で何になりましょう。私はキリストと共に永遠の天国に行きとうございます。あなたこそ、イエス・キリストを信じて私と一緒に天に参りましょう。」単に恐れないだけでなく、彼には死を超えた喜びがあったのでした。
この世には、私たちの避けられない恐れが色々あります。しかし、私たちは、世界で最初のクリスマスの夜、天使が羊飼いたちに語った、力ある温かい言葉を、今朝改めて聞きました。「恐れることはありません。」
このクリスマスの時、改めて静かに天を仰ぎ、御子イエスにより罪の赦しと天の国をご用意下さっている父なる神のふところに私たち自身を預け、この世が与えることも奪うことも出来ない清い喜びと平安に、是非ご一緒に与らせて頂きたいと思います。