2022年12月08日「マリアの信仰 2」
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マリアの信仰 2
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 1章46節~52節
聖書の言葉
1:46 マリヤは言った。「私のたましいは主をあがめ、
1:47 私の霊は、私の救い主である神をたたえます。
1:48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧下さい。今から後、どの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。
1:50 主の憐れみは、代々にわたって、主を恐れる者に及びます。
1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。
ルカによる福音書 1章46節~52節
メッセージ
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今日も、マリアの賛歌から、彼女の信仰に学びます。
前回も申しましたが、マリアの賛歌は三つの部分からなります。前回は、第一部の46~49節a、特に48節から、救い主の母となる光栄に与ったマリアの謙りを学びました。今日の第二部は49節b~53節で、神の聖さ(きよさ)と憐れみを称える賛歌です。彼女は歌います。49節b、50節「その御名は聖なるもの、主の憐れみは、代々にわたって、主を恐れる者に及びます。」
神の御名は「聖なるもの」と彼女は歌います。聖書の言う「聖、聖い」は、元は、遠く離れていることを意味します。従って、この罪の世の汚れから全く隔絶した神のご性質を言います。マリアはまず天の高みにおられる神のご存在と聖さを覚え、しかしその神が地上にいる私たち人間、特に「主を恐れる者」に、ずっと注いで下さっている憐れみを覚え、神を称えます。「その御名は聖なるもの、主の憐れみは代々にわたって、主を恐れる者に及びます!」
ここでも私たちは、マリアの信仰に教えられます。謙虚でないと、人は神の憐れみにも気付かず、分りません。感じないのです。しかし、彼女は本当に謙虚でした。ですから、神の偉大さや聖さと共に、主を恐れる者への主の憐れみも、よく分ったのでした。
こういう神の聖さと憐れみを、では、マリアは特にどういう点で覚えたのでしょうか。神による救いの歴史を振り返ることによって、でした。51~53節で彼女は歌います。「主はその御腕(みうで)で力強い業(わざ)を行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く上げられました。飢えた者を良い物で満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。」
51節bに「心の思いの高ぶる者」とあります。念の入った言い方ですね。一見謙遜そうでいて、その実、傲慢な者を指すのかも知れません。とにかく神は、「心の思いの高ぶる者」、「権力のある者、富む者」を「追い散らし、引き降ろし、追い返」されますが、「主を畏れる者、低い者」、「飢えた者」に、恵みをもって臨まれるという逆転が語られます。
しかし、マリアは特に何を洞察して、こう言えたのでしょうか。過去のイスラエル・ユダ民族の歴史です。神の前に卑しいはしためでしかない自分が、本来ならあり得ない、すなわち、神の御子の母となるという想像を絶する光栄に与ったことを覚え、そこから、彼女は更に壮大なイスラエルの歴史を振り返り、そこに神による逆転劇を見、神を賛美したのでした。
考えてみれば、エジプトで奴隷にまで落ちたイスラエルを神は憐れまれ、高ぶるエジプトを打ち砕いて、救われました。貧しい羊飼いの少年でしかなかったダビデを神は選び、イスラエルの王という驚くべき栄光の座に就かせられました。偶像礼拝に走り、律法の中心である愛と憐れみを忘れ、罪と不信仰に陥ったユダの人々を神はバビロン軍の手で砕き、捕囚の憂き目に遭わせられ、けれども、悔い改めた彼らを主は憐れみ、解放して祖国への帰還を許されました。
マリアは、自分の受けた恵みを自分だけに留めず、前回見ましたようにエリサベツと分ち合いました。しかしそれだけでなく、はしために過ぎない自分の受けた驚くべき恵みを深く受け留め、思い巡らすことで、神の民の壮大な、いわゆる救済史を概観し、神の聖さと憐れみによる逆転劇を見事に洞察したのでした。
Ⅰサムエル2:1~10、つまり、子供を授かったハンナの祈りにも神による逆転が歌われていたことを、マリアも恐らく知っていたでしょう。彼女は、神から自分が頂いた個人的恵みを深く受け止め、かつ心に貯えていた聖書の御言葉により、複雑に絡み合う歴史の中に、神の摂理、特に神の聖さと憐れみによる逆転劇を見事に洞察し得たのでした。逆転とは、神の前に真に謙る信仰者がいつか必ず報われ慰められ、傲慢で不信仰な者がいつか必ず裁かれることであり、神の義と公平さが現されることです。
神によるこの逆転劇が最も鮮やかに現されるのが、実は、やがてマリアからお生れになる神の御子イエス・キリストの十字架の死と復活です。またそのイエスに固く繋がる者に、やがて必ず臨む世の終りの素晴らしい慰めの事実です。黙示録21:3、4は、長く苦しめられてきた信仰者たちに言います。「見よ、神の幕屋が人々と共にある。神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から涙を悉く拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
マリアの信仰を覚え、また神の聖さと憐れみによる逆転劇とも言える信仰者の救いの完成の時を、信仰によって仰ぎ見、天にいます主イエス・キリストに向かって、事ある毎に、心を高く上げたいと思います。