2022年12月01日「マリアの信仰 1」
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マリアの信仰 1
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 1章39節~49節a
聖書の言葉
1:39 それから、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。
1:44 あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じ人は、幸いです。」
1:46 マリヤは言った。「私のたましいは主をあがめ、
1:47 私の霊は、私の救い主である神をたたえます。
1:48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧下さい。今から後、どの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。
ルカによる福音書 1章39節~49節a
メッセージ
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今年も11月27日の主の日からアドベントに入りました。そこで今日は、マリアの信仰に注目したいと思います。
御使い(みつかい)ガブリエルから、いわゆる受胎告知を受けたマリアは、39節「山地にあるユダの町に」、つまり、ガリラヤのナザレからはかなり離れた「ユダの町」に急ぎました。普通なら数日かかる所を彼女は急いだのです。どうしてでしょうか。神の一方的恵みにより御子イエスを身籠った(みごもった)自分が、同じく神の恵みにより身籠ったエリサベツと、光栄と喜びと感謝を分ち合い、励まし合うために他なりませんでした。
真(まこと)のクリスチャンは、神から頂いた恵みを一人で独占することは出来ません。誰かが神の恵みを頂いたことを知って、そ知らぬ顔でいることも出来ません。ローマ12:15は言います。「喜んでいる者たちと共に喜び、泣いている者たちと共に泣きなさい。」ここに私たちは、マリアの見事な信仰を教えられます。私たちも是非こういう信仰に生きたいと願います。
さて、エリサベツと会ったマリアは喜びに溢れ、46~55節のように神を称えました。46節「私の魂は主を崇め」の「崇め」は、ラテン語で「マグニフィカート」ですので、このマリアの賛歌を、ご承知のように、教会は昔から『マグニフィカート(マニフィカート)』と呼んで歌って来ました。
マリアの賛歌は三つの部分から成ります。今日は第一部、46~49節aを見ます。
ここでマリアは、特に自分に個人的に与えられた神の恵みを覚えて、大いに主を称えています。46節「私の魂は主を崇め、私の霊は私の救い主である神を称えます。」「称えます」は「大いに喜ぶ」とも訳せます。とにかく彼女は「私、私」と言い、神が彼女を愛し憐れんで下さっていることをハッキリ覚え、それも幸せそのものを喜ぶというより、自分の救い主であられる神ご自身を大いに喜んでいます。これはとても大切なことだと思います。
この点で私たちはどうでしょうか。確かにイエス・キリストによる神の救いの恵みを広く覚え、感謝し、賛美もします。しかし、自分個人に対する神の恵みについての鮮明な自覚や認識となると、案外希薄で、個人的感謝の念も個人的神賛美も弱く、神を大いに喜ぶことも少ないということはないでしょうか。
むしろ、「イヤなことばかりで、私の人生、何だか詰らない」と不満を漏らし、愚痴ることの多いクリスチャンも少なくないように思います。何故マリアとは違うのでしょうか。
49節で歌われるように、マリアは神の御子を授かるという大きな恵みを頂いたのですから、当然なのでしょうか。しかし、これは彼女にとって実は大変な責任と苦痛の伴うことだったのです。当時、未婚の娘が身籠ることは、死刑になる危険のあることを、彼女は当然分っていました。また少し先のことではありますが、2:35で彼女はシメオンに「あなた自身の心さえも剣が刺し貫くことになります」と厳しい預言もされるようになります。
更にイエスが救い主の働きを始められてからは、彼女は母親として毎日どんなに心配だったでしょう。特に、十字架で殺される我が子を見ることは、まさに心が刺し貫かれ、胸が張り裂けるような悲しみ、痛み、絶望を覚えることだったでしょう。
では、彼女が自分に与えられている恵みをハッキリ自覚し、神を大いに喜び崇めることが出来たのは何故でしょうか。それは彼女が真に謙虚だったからです。
48節で、彼女は自分を「卑しいはしため」と言います。「卑しい」が新共同訳聖書では「身分の低い」と訳されていますが、元のギリシア語は「低い、貧しい、卑しい」という意味であり、必ずしも社会的身分についての言葉ではありません。つまり、マリアは、神の前での自分の低さを告白しているのです。ですから、自分を「はしため」、直訳しますと「彼のはしため」とも言うのです。これは天使ガブリエルから受胎告知を受けた時に彼女が述べた1:38でも言われていましたが、「主のはしため」という意味です。普段から常に謙虚で、神の前にいつも自分をそう思っていましたから、こんな時にも自ずと口をついて出てきたのでしょう。
多くの註解者も言いますように、この謙り(へりくだり)こそ、自分に与えられている神の恵みを彼女に鮮やかに気付かせ、ただ嬉しいだけではなく、何より神ご自身を大いに喜び称えるという最高の神賛美を生み出したのでした。恵みについての気付きは、謙りと比例しているのです。
私たちも、自分の感謝、賛美、喜びの内容を、改めて静かに振り返ってみたいと思います。特に主の母となるマリアの謙りに学び、マリアと共に47節「私の魂は主を崇め、私の霊は私の救い主である神を称えます」から始まる夫々のマグニフィカートを是非歌い、今年のクリスマスを迎えたいと思います。