2022年11月20日「イエスは、幸いを宣言された」

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イエスは、幸いを宣言された

日付
説教
服部宣夫神学生
聖書
ルカによる福音書 6章20節~26節

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。
  「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。
6:21 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。
   今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。
6:22 人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
6:23 その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。
6:25 今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。
   今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。
6:26 人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。ルカによる福音書 6章20節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちが心の深いところから切に求めているもの、それが「幸い」です。「幸い」何と含蓄のある言葉でしょう。それでは、「幸い」とはどういうことなのでしょう。どのような人たちが「幸い」なのでしょう。与えられた御言葉は、他でもないイエス様が、眼差しを注いでおられる「幸い」について、イエス様が眼差しを注いでくださる「幸い」な人たちについてをはっきりと告げる御言葉でした。

 この御言葉は、実は、イエス様の宣言ですから、最初に、次のことを覚えておきたいと思います。それは、イエス様の眼差しとは、他の誰でもなく神様の眼差しであることをです。さらには、イエス様の宣言とは、他の誰でもなく神様の宣言であることをです。

さて、このルカ6章20-26節は、新共同訳聖書を見ますと「幸いと不幸」という小見出しが付いており、説教としての一つのまとまりとなっていることが分かります。しかし多くの註解書は、6章最後の49節までが、より大きな説教のまとまりであると指摘します。そうして註解書は、この大きなまとまりを「平地の説教」と呼び、あのマタイ5~7章の「山上の説教」と比べています。註解書の解説を待つまでもなく、マタイの「山上の説教」とルカの「平地の説教」との違いは、マタイでは「幸い」だけが八つ、イエス様の口から宣言されるのに対して、ルカでは四つの「幸い」と四つの「不幸」「哀れ」がセットになって宣言されていることです。「不幸」の方は新共同訳の訳ですが、新改訳2017では「哀れ」となっています。翻訳としては「不幸」も「哀れ」もどちらでもよいと思われます。

 そうだとすると、この「平地の説教」を聞く私たちは、少し不安を感じるかもしれません。他でもないイエス様が、つまり神様が「幸い」を宣言されるだけでなく「幸い」の反対、「不幸」「哀れ」を宣言されるからです。果たしてイエス様の眼差しには、どのような人が「不幸」「哀れ」と映るのでしょうか。さらにイエス様はどのような「不幸」「哀れ」を宣言なさるのでしょうか。そのことが気に掛かって来ると思うからです。

 しかしイエス様が語られたとおりの順序が大切です。ですから私たちも、まず「幸い」から見ていきたいと思います。もう一度20~23節を見てみましょう。

「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。『貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。』」

 申し上げた通りイエス様は、幸いな四つの状態、四つの者たちを宣言されます。「貧しい/人たち」、「今飢えている/人たち」、「今泣いている/人たち」そうして「人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき」の「あなたたがた」です。

 まず確認しておきたいことがあります。それは、イエス様はこの宣言、説教を誰に向かってなさっているかです。20節に「目を上げて弟子たちを見つめながら」とありましたから、明らかに弟子たちです。それではこの弟子たちとは、正確には、誰を指しているのでしょうか。このことはかなり大切なことと思われるので、御言葉を遡ってみます。ルカ6章12~13節を御覧になってください。

「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。そして夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。」

 イエス様は、従っていた大勢の弟子たちから特に「使徒」と呼ぶにふさわしい者たちを選ぶために、わざわざ山に登られ、徹夜の祈りを天の父にされていました。14~16節では、使徒に選ばれた十二人の、おなじみの名前が記されています。

 続く17~18節では、この説教の聞き手が誰であったかが、はっきりと記されています。17-18節を御覧になってください。

「それからイエスは彼らと共に山を下り、平らなところにお立ちになった。大勢の弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人がそこにいた。彼らはイエスの教えを聞くため、また病気を直してもらうために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人たちも癒やしてもらっていた。」

 十二人の使徒の選び出しを終えて、イエス様と弟子たちは山を下り、平地にやって来ました。この弟子たちとは、使徒を中心とした大勢の弟子たちでした。ルカ10章1節によれば「七十二名」の数字が出てきますから、恐らくは百名前後あるいはそれ以上の弟子集団であったと思われます。そして、その弟子たちの周りには、これまた「おびただしい数の人」(原典では「人」は「民衆」)も集まってきていました。彼らは「イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々」とあるように、人々、民衆もこの説教を聞いたはずです。そのような説教を聞く者たちの大きな群れが、山の麓の平地、恐らくはガリラヤ湖畔に形作られていたのです。

 さらに注意をして確認しておきたいことがあります。それは、この「平地の説教」を聞き始めた者たち、即ちイエス様の前、最前列にいたであろう使徒たちも、その周りの大勢の弟子たちも、その彼らを取り巻いているさらに大勢の民衆も、既に、イエス様の恵み深い「教え」を聞いていたことです。もう既に、病気を「直して」いただいた者たちがおり、「汚れた霊」の「悩」みから「いやされた」者たちもいたという事実です。既に、すばらしい神様の御力を、恵みを体験していたのです。19節。

「群衆はみな何とかしてイエスにさわろうとしていた。イエスから力が出て、すべての人を癒やしていたからである。」

 それでは、そのような豊かな教えとすばらしい癒しとを体験していた彼らに向かって、なぜイエス様は「貧しい」状態を「幸い」と宣言されたのでしょうか。なぜ「今飢えている」状態を、「今泣いている」状態を「幸い」と宣言されたのでしょうか。「人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき」が、なぜ「幸い」なのでしょうか。

 重要なことは、繰り返しになりますが、このイエス様の幸い宣言は、弟子たちに眼差しを向けてなされた説教であったことです。注目したいのは22節の「人の子のゆえに」です。この言葉を原典を踏まえて意訳すれば「イエス様のために」となります。「イエス様のため」にとは、まさに弟子となることであり、具体的には、イエス様の教えを聞くこと、イエス様と共に生活し奉仕すること、イエス様のためにすべてを捧げて従うことを含んでいます。

 それでは、この時、イエス様の弟子となった場合、周りの人々からは、どのように見られ、どのように思われたでしょうか。既にイエス様ご自身が、民の指導者たちである「律法学者、パリサイ派」からは「訴える口実」を見つけるために「じっと」監視されていました(6章7節)。安息日に癒やしの業をなさると「彼らは怒りに満ち、イエスをどうするか、話し合いを始め」ていました(06章11節)。この事実がすべてを物語っています。

 そのような方の弟子となるのですから、「人々」から「憎」まれることも、ユダヤ人社会から「排除(除名)」されることも、したがって「ののし」られることも、「名を悪しざまにけな」されることも起こりえるでしょう。そうしたことが起これば当然、貧しくなることも、飢えることも、泣くことさえも起こりえるでしょう。

 しかし、そのような弟子たちに向けてイエス様は、次の約束をされています。23節。

「その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いが大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。」

 「天においてあなたがたの報いは大きい」。イエス様の眼差しは「天」と「天」に用意されている「報い」に注がれています。復活されたイエス様に出会い、その神の命そのものを目撃したペテロは後に、天に用意されているこの「報い」を「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産」であると告白しました(ペテロⅠ 1章4節)。この報いがあるから、「人の子のゆえに」、「イエス様のために」人々から憎まれ、共同体から「排除」され、「ののし」られ、「名を悪しざまにけな」される、その「あなたがた」は幸いである。この報いがあるから、「人の子のゆえに」貧しくなるかもしれない、飢えるかもしれない、泣くことになるかもしれない、その「あなたがた」は幸いであると宣言されるのです。その喜びは、「躍り上がって喜びなさい」と命ぜられているほどです。

 しかしながら、私たちは、この説教の聞き手が「弟子たち」だけではなかったこともお思い出さなけなければなりません。大勢の民衆がいました。イエス様の眼差しは、まだイエス様の弟子とはなってはいない、けれども、イエス様の教えを喜んで聞き、イエス様の御力に頼って癒しを求めていた彼ら民衆にも注がれていたと思われるからです。

 なぜならこの民衆の中には、明日の生活の見通しが立たず、不安を抱えた貧しい人々がいたことは事実であるからです。例えば「長血をわずらった」女性の癒しの出来事を思い出されます。女性は、長年の病気ゆえに貧しさに陥ってしまったと思われる一人です。マルコ05章26節にはこうあります。「彼女は多くの医者からひどい目に会わされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。」このような境遇に陥ってしまった人々がいたと思われます。

また民衆は後に、イエス様の教えを受けるため、「飢え」て空腹を覚えることになりました。マルコ8章1~3節にはこうあります。「そのころ、再び大勢の群衆が集まっていた。食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。『かわいそうに、この群衆はすでに三日間もわたしともにいて、食べる物を持っていないのです。』」こう言って、七つのパンと少しばかりの魚を配って四千もの人々に食べ物を与えてくださいました。「群衆は食べて満腹した」(マルコ8章8節)と報告されています。

 さらに民衆の中には、本当に「今泣いている」人々がいたはずです。6章22節の「泣ないている」という言葉を原典で確認すると、興味深い事実が浮かびます。実は、この「泣く」という言葉は、福音書では、身近な人を亡くした場合によく使われている言葉だからです。例えばルカ7章11~12節にはこうあります。「イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた。」その後イエス様は棺に触れて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われると、彼は息を吹き返し、母親に彼を返されたと報告されています。

 このような聖書の記事からすると、イエス様の眼差しは、まだイエス様の弟子とはなっていない民衆の中の「貧しい人たち」「今飢えている人たち」「今泣いている人たち」にも向けられていたことは間違いないと言えます。そうして、おそらく、このような人々の幸いの根拠となる御言葉が、6章21の「神の国はあなたがたのものだから」であるのです。なぜなら「神の国」とは「神様の支配」を意味し、その支配はイエス様によってもたらされるからです。神様の支配が既にそこに来ていることは、長血を患った女性の癒しが、四千人の給食が、やもめの息子の甦りが証明しています。

 イエス様の宣言「神の国はあなたがたのものだ」。これを、大胆に言い換えれば、「貧しい人たちよ、今飢えている人たちよ、今泣いている人たちよ、人の子のゆえに排除され、ののしられ、名を悪しざまにけなされている人たちよ、神の国はあなたがたのものだ。わたしは、あなたがたのものだ。」

 この「神の国」の到来という福音によって、宣言の後半で語られる、あの四つの「哀れ」「不幸」の本質も明らかにされます。6章24~26節を朗読します。

「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。

今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。

今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。

人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。」

 「富んでいる」とは、財産があること。「満腹している」とは、栄養のあるおいしい物を食べたり飲んだりできていること。「今笑っている」とは、心軽やかに愉快に人生を生きていること。「人々がみな、あなたがたをほめる」とは、みんなから誉められる誇りあるわたしであること、であります。これらは、そのもの自体としては決して悪いものではありません。神様からの豊かな恵みの贈り物であります。しかしイエス様は、「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう」(ルカ18章24節)と言われましたし、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこられのものが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます」(マタイ5章31~32節)と教えて下さっていました。

 何よりも、イエス様が来られたのに、つまり今ここに「神の国」が来ているのに、イエス様に目を向けず、いずれは朽ち果て、汚れを伴い、最後には消え行く「富んでいる」こと、「満腹していること」、「笑っている」こと、「人々」に誉められること、そのようなことにのみ眼を注いでいる。そういう「あなたがた」の眼差しが、眼差しの向け方が問題であると仰っているのです。

 イエス様のこの宣言は、直接的には、まだ弟子となっていない民衆の中にいたであろうこのような人々や、律法学者、パリサイ派の指導者たちに向けられたものでしょう。しかし、同時に、今ここに集う私たち、既に信仰者とされた私たちにも向けられていると言ってよいと思います。私たちは、ここまで、イエス様の眼差しが何に、そして誰に向けられてきたかを見てまいりましたが、この御言葉に来たとき、むしろ反対に、私たち信仰者の眼差しが問われるのです。

 そうです。信仰者の眼差しがイエス様に向かず、いずれは朽ち果て、汚れを伴い、最後には消え行く地上のはかない何かに囚われているのではないか、固執しているのではないか、執着しているのではないかと。目を天に上げていないのではないか。そこに用意されている大いなる報いを見失っているのではないかと。

 しかし今日この礼拝に招かれている私たちは、決して「哀れ」「不幸」な者たちではなく、むしろ「幸い」を宣言されている者たちである、という確信を失ってはなりません。なぜなら、私たちは「イエス様のために」というこの信仰を既に与えられている者たちだからです。私たちも、イエス様の教えを聞いて従い、イエス様のために尽くし、教会のために人生を捧げている一人一人であるからです。

 喜びと感謝とを持ってイエス様の「平地の説教」、イエス様による「幸い」と「哀れ」「不幸」の宣言を聞くことが赦されています。

 同時に、今から遣われていく一週間の生活においては、イエス様が、あの民衆の中にいた貧しい人たち、飢えている人たち、泣いている人たちにも眼差しを向けられていたことを心に刻みましょう。眼を世界に向ければ、貧しい人たち、今飢えている人たち、今泣いている人たちがいることを忘れてはなりません。もしかしたら私たちの身近に、貧しい人たち、今飢えている人たち、今泣いている人たちがいるかもしれません。そのような方々のために執り成しの祈りを捧げ、必要な助けと奉仕を捧げることを忘れないようにしたいと思います。

 最後に一つだけ皆さんと共に確認したいことがあります。それはイエス様が「幸い」と「哀れ」「不幸」の宣言をされたとき、あの大勢の聞き手の中で最も貧しかった人はだれであったかということです。十二人の使徒たちの中の誰かでしょうか。弟子たちの中の誰かでしょうか。民衆の中にいたそのような人々でしょうか。

 恐らく、最も貧しかったのは、イエス様その人だったのではないか。なぜなら、聖書はこう証言してからです。

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、御自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、ご自分を低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2章6-8節)

 イエス様は、天において神の御子として御父にもとにおられた時の栄光を、その一切を捨て、地上の私たちの所に来て下さいました。ガラテヤ書は、神の御子であるにもかかわらず「律法のもとに」生まれたと告白します。ルカ福音書は、お生まれになった時、「その子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と証言します。地上にあっても本当に低くなり貧しくなってくださった。これが私たちの救い主です。

 次週から2022年の待降節、アドヴェントに入ります。御自身の栄光をかなぐり捨てて私たちのところに来てくださったイエス様の、最も貧しくなってくださった私たちの救い主の誕生を祝うクリスマスの備えが始まります。イエス様は私たちに、あなたがたは幸いな者たちであると宣言し、その眼差しを注いでくださっています。それにお応えし、私たちもこのイエス様を仰ぐ眼差し、救い主として仰ぐ眼差しを保ち続け、共々に2022年のクリスマス、そして新しい年を迎えようではありませんか。

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