2022年04月03日「父よ、彼らをお赦し下さい。」

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父よ、彼らをお赦し下さい。

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章32節~34節

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23:32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスと共に死刑にされるために引かれて行った。
23:33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
23:34 その時、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるためにくじを引いた。ルカによる福音書 23章32節~34節

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 今朝は、神の御子イエス・キリストが十字架上で口にされた七つの言葉の一つ、ルカ23:34の祈りに注目します。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」

 この祈りから私たちはどんなことを教えられるでしょうか。

 一つは、何といっても、父なる神へのイエスの見事な信仰です。これは十字架上でイエスが一番最初に口にされた言葉です。それも他の言葉ではなく、「父よ」とイエスは呼びかけ、祈られたのでした。

 この場面を考えてみます。イエスの足元にはローマ兵が槍を構え、睨みをきかせて立ち、周囲には群衆がひしめき、イエスが死んでいく様子を固唾を飲んで見ています。イエスは、広げた両手と重ねられた両足の甲に太い鉄くぎを打ち込まれ、そこに全体重がかかるという恐ろしい苦痛の中におられました。もし、これが私たちでしたら、どんな言葉が口から出るでしょう。断末魔のような呻きと、自分をこんな目に遭わせた人たちへの恨みと呪いの言葉でしょうか。

 ところが、イエスは祈られたのでした。こんな状態でも、イエスは神に「父よ」と呼びかけ、天の父を信じ、父の御計画に従い、とことん父を信頼され、決して父なる神から離れることはありませんでした。父なる神への何と見事な御子イエスの信仰でしょうか。クリスチャンはこのイエスご自身の信仰に担われているのです。

 ここに私たちは、死の瞬間まで私たちを貫くべき真(まこと)の信仰を教えられます。ですから、ヘブル12:1、2は言います。「私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか、信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」

 私たちの信仰の創始者また完成者であって下さる主イエスが、最後の最後まで私たちを堅く支え、神への信仰、従順と信頼を貫き通させて下さるように、心から祈り求めます。

 二つ目は、イエスの計り知れない豊かな愛、特に赦しの愛です。

 父なる神への御子イエスの信仰による祈りを今見ましたが、実はそこには私たち罪人への計り知れない愛がありました。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」

 「彼ら」とは、卑劣な方法でイエスを殺そうとした当時のユダヤ教指導者たち、またイエスが死に当る罪を犯していないのを知りつつも面倒を避けてユダヤ人の言いなりになり、十字架刑を命じたローマの総督ピラトも含まれるでしょう。更に、少し前までイエスを慕っていたのに、指導者たちに扇動されると、手のひらを返したように、「十字架だ。十字架につけろ」(21節)と叫び続けた無責任な民衆も含まれるでしょう。皆、何と罪深いでしょう。ここに、私たち人間の罪がよく現れていると思います。

 では、こんなひどい仕打ちを受けた主イエスは、どうであったでしょうか。天の父への信仰をあくまで持ち続けられたことを、先程、見ましたが、それだけでなく、何と主はご自分を十字架につけた者たちのために、赦しを祈られたのでした。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」

 こういう祈りをすることがどんなに難しいかは、自分を十字架のイエスの状況に身を置いて考えるとよく分ると思います。卑劣なやり方で私たちを殺そうとし、「うまくいった!」とほくそ笑んでいる人たちのために、「父よ、彼らをお赦し下さい」と誰が祈れるでしょうか。十字架にかけられ、激痛とたまらなく苦しい死を前にして、人間は演技などできません。

 ところが、イエスは祈られたのです!「父よ、彼らをお赦し下さい。」マタイ5:44で「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とお教えになった主は、自らそうなさったのでした。

 ところで、彼らは自分のしていることが分らなかったのでしょうか。無論、分っていました。しかし、ある意味では分っていませんでした。すなわち、神が約束に従って世に遣わされたその神の御子を自分が殺そうとしているとは、知りませんでした。ここに人間の限界と悲惨さがあります。自分の不信仰や罪深い考えや言葉や行動が、全く罪のない聖い(きよい)神の独り子を十字架に追いやり、十字架につけたことは知りませんでした。

 その意味では、「父よ、彼らをお赦し下さい」の「彼ら」に、実はここにいる罪人の私たちも含まれていると言えます。事実、イエスは全人類の罪を、それも私たち自身が気付いていない私たちの罪をも全部背負って十字架につかれたのです。讃美歌21の300番の2節に「はかりも知られぬ 人の罪よ」とあります。自分でも気付かない底知れなく罪深いこんな私たちの赦しのために、何と主は十字架で真先にお祈り下さったのです。

 ですから、私たちは安心してイエスの十字架による罪の赦しを信じてかまいません。イエスは、私たちの分っている罪だけを赦して下さるのではありません。全然自覚していない、情けない、ひどい罪をも十字架で償って下さったのです。何という主の愛でしょう。

 ですから、ローマ5:6~8は言います。「実にキリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んで下さいました。正しい人のためであっても、死ぬ人は殆どいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかも知れません。しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

 このことが心底分っていましたから、使徒7:59の伝えるキリスト教会最初の殉教者ステパノも、死の直前、「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と祈り、彼を殺す人たちのために、ひざまずいて大声でこう祈ることができたのだと思います。7:60「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい。」十字架のイエスの祈りは、ステパノをここまで愛の人に変えていたのでした。

 1941年12月8日の真珠湾攻撃の空中攻撃隊の総指揮官をしていた淵田美津雄さんは、敗戦後も米国への反感と憎悪を持ち続けました。やがて日本軍捕虜が送り返され、彼は米軍による捕虜虐待を知りたくて話を聞いて回りました。しかし、意外な話を聞きます。

 あるキャンプに、いつ頃からか20歳位の米国人の娘が現れ、日本軍捕虜に色々親切にしてくれました。肉親も及ばない親切に皆心を打たれ、やがて何故そんなに親切にしてくれるのかと尋ねました。彼女は返事を渋っていましたが、やがて話し始めました。「私の両親が日本軍に殺されたからです。」

 フィリピンで宣教師をしていた彼女の両親は、日本軍が占領したため、山の中に隠れました。しかし、やがて米軍に追われて山へ逃げてきた日本軍に見つかり、スパイ容疑で殺されることになりました。しかし、その前に「私たちはスパイではない。がどうしても斬るなら仕方がない。死ぬ支度をするから30分の猶予を下さい」と言い、聖書を読み、神に祈ってから殺されました。これを知らされた彼女は、日本軍を激しく憎みました。

 しかしある時、殺される前の両親の祈りをふと思いました。「神様、今日本軍が私たちの首を斬ろうとしています。どうか、彼らを赦して下さい。彼らが悪いのではなく、地上に憎しみや争いが絶えないで戦争が起るから、こんなこともついてくるのです。」

 両親のこんな祈りが彼女には分り、彼女は変りました。淵田さんは感銘を受けました。

 その後、日本の捕虜となって虐待され、けれども後に宣教師として再来日したジェイコブ・デシェーザーさんの話も聞き、淵田さんは聖書を読み、特にルカ23:34のイエスの執り成しの祈りを知って、全てが分りました。1951年、彼は洗礼を受け、伝道者として尊い働きをされ、1976年、天に召されました。

 「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです。」

 十字架の祈りに表された私たちへの罪の赦しの計り知れない主イエスの愛、まさにエペソ3:19が言います神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」をよく覚えて、心から神に感謝したいと思います。そして私たちもこの祈りを様々な場合でも祈れる者とされ、人の救いを何より喜ばれる神の喜びが増し加わるために、喜んで生きる者へと清められたいと思います。

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