2022年03月17日「必要なことは一つだけ」
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必要なことは一つだけ
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 10章38節~42節
聖書の言葉
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主の言葉に聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ、私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃって下さい。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたは色々なことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」ルカによる福音書 10章38節~42節
メッセージ
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ここは、昔からマルタとマリアの話として有名な所です。
イエスの一行がある村に入りました。他の聖書を見ますと、ここがベタニアであったことが分ります。そして、この村のマルタという女性が、イエスを自分の家に迎え入れ、料理などを中心に色々もてなそうとしました。
ところが、彼女の姉妹マリアは、イエスの足許に座ってイエスの話にずっと聞き入っています。初めはマルタも彼女をチラッと見ては、そのうち手伝ってくれるだろうと思っていたでしょう。しかし、マリアは一向に腰を上げません。マルタは段々苛々が募ってきて、ついに我慢できなくなり、イエスの御許(みもと)に来て言いました。40節「主よ、私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするようにおっしゃって下さい。」
ここには、自分はこんなに忙しくしているのに、マリアは何もしてくれないという不満や憤りと共に、そういうマリアを許しているイエスに対する不満さえ見られます。最初は、イエスへのもてなしという純粋な動機で始めたのですが、やがて自分が忙しい上に、マリアが手伝ってくれないため、彼女には苛立ちと不満が募り、自分を失います。私たちにも似たようなことがあると思います。
これに対して主イエスはどうだったでしょうか。41節「マルタ、マルタ」とお呼びになりました。ユダヤでは、名前を2度呼ぶことは大変親しみを込めたことだそうです。イエスに対しても少々不満なマルタでしたが、イエスは優しく呼ばれました。主はマルタが御自分をもてなそうとして忙しくしていることをよくご存じであり、感謝しておられました。ですから優しくお答えになりました。こんな所にも、私たちは神の御子、主イエスがどんなに愛に満ちた柔和なお方かを教えられます。ヤコブ1:19は「人は誰でも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい」と教えますが、まさにイエスは怒るのに遅い方でした。
しかし、続いてイエスはこう言われます。41、42節「あなたは色々なことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」ここの最後の言葉は、殆どの日本語聖書が訳していますように「彼女から取り上げられてはならない」という意味です。
ここにとても大切なことが教えられています。誇張されていますが、「必要なことは一つだけ」という点です。すなわち、主イエスの、そして天地を造られた真(まこと)の神の御言葉に、私たちが静まって深く聞き入ること、そういう時間を確保することの大切さです。
私たちはややもしますと、自分の考えや自分の計画、自分の熱心だけで進み、段々それが全てを支配する原理や判断基準になりかねません。するといつの間にか自分を失い、自分で作った自分の基準に自分が振り回され、またその基準に合わない他の人を裁き、不満や怒りを貯め込み、ついに爆発します。
マルタは、自分の考えと熱心で始めたのですから、自分で最後までやって当然でした。しかし、いつしかそこにマリアとイエスをも巻き込んで行きます。私たちにも似た所があると思います。下手をすると、一生そんな調子で、その結果、人にも神にも不満を抱き、満たされない気持でいることが多くなりかねません。不幸なことです。
無論、聖書に伝えられているマルタは、そういうことだけの女性ではありません。しかし、彼女の内に見られたこういう一面が私たちの内で強くなりますと、こうなりかねません。
時々冗談で言わることもありますが、マルタタイプは良くなく、マリアタイプが良い、などということではありません。イエスは、一生懸命なマルタを愛し、心から彼女に感謝しておられます。
大切なことは、体を動かすなど神と人に仕え働く時は働き、けれども、私たちを愛し、私たちの罪を負って十字架で命を献げて下さったイエスの教え、つまり、御言葉に聴くべき時は、きっぱり手を休め、静まってよく聞く!他のことをしたり他のことを考えながら、片手間に御言葉を聞くなどいうことをしない。こういう区別、ケジメをキチンとつけることが大切です。
いよいよ忙しさの増している今の時代です。だからこそ、私たちは敢えて神の前に時間を取り分け聖別し、頭(こうべ)を垂れて静まり、他人の声でも自分の声でもなく、神の御声に、つまり、真(しん)に私たちを愛し、私たちをただイエス・キリストへの信仰により永遠にお救い下さる神の御言葉に耳を傾ける時を持ちたいと思います。
活動的なマルタのように忙しくする時は忙しくし、しかし、マリアのように静まる時は静まり、神の御声に深く耳を傾け、そうして信仰を励まし合って、歩みたいと思います。