2021年12月12日「救い主を待ち望む人々 ⑵」

問い合わせ

日本キリスト改革派 岡山西教会のホームページへ戻る

救い主を待ち望む人々 ⑵

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 2章22節~38節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

2:22 そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムへ連れて行った。
2:23 それは、主の律法に「最初に母の胎を開く男子はみな、主のために聖別された者と呼ばれる」と書いてあると
   おり、幼子を主に献げるためであった、
2:24 また、主の律法に「山鳩一つがい、あるいは、家鳩のひな二羽」と言われていることに従って、いけにえを献
   げるためであった。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるの
   を待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。
2:26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。
2:27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。
2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、お言葉とおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 あなたが万民の前に備えられた救いを。、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄を。」
2:33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。
2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立
   ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
2:35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるた
   めです。」
2:36 また、アシェル族のペヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の
   時代の後、七年間夫とともに暮らしたが、
2:37 やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた。
2:38 ちょうどこのとき彼女も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人
   に、この幼子のことを語った。
ルカによる福音書 2章22節~38節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、救い主を待ち望む人々として、ルカ福音書2章の伝える2人の老人、シメオンとアンナに注目し、彼らを通して大切なことを教えられたいと思います。

 両親に抱かれてエルサレム神殿へ来られた幼子イエスに会えたこの幸いな2人は、どんな信仰者だったでしょうか。3つの点を見ます。

 第一に、彼らは真(しん)に敬虔な人たちでした。

 シメオンについて25節は言います。「正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼の上におられた。」シメオンは、神の律法を堅く守り、神を畏れ、神の民が苦難から救われるのを待ち望み、他の人から見ても聖霊が留まっておられることが分るぐらい、言葉や生活においても敬虔な人でした。

 シメオンとは、ヘブル語で「神は聞き給う」を意味します。彼は自分の名前の意味を常々心に留め、「神は聞いておられる。聞いていて下さる」という信仰で生きてきたかも知れません。 

 アンナはどうでしょうか。36、37節「アシェル族のペヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後、7年間夫と共に暮らしたが、やもめとなり、84歳になっていた。」彼女の父親の名前ペヌエルは、ヘブル語で「神の顔」を意味します。この人は割合有名な信仰者だったので、ルカは彼女をわざわざアシェル族の「ペヌエル」の娘と伝えたのかも知れません。

 もっとも、結婚後の彼女の人生はなかなか厳しいものでした。しかし84歳の今も、37節「宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えて」いました。彼女の敬虔さは際立っています!今日で言いますと、84歳の今も教会を離れず、常に祈り、夜も昼も礼拝を献げ、皆に神の御言葉・神の御心を伝え、教えているということでしょう。アンナとは、ヘブル語で「恵み」を意味します。彼女も自分の名前を心に留め、常に神の恵みを忘れずに生きていたのかも知れません。

 こういう2人の老人が、両親と共にエルサレム神殿に来られた幼子イエスにお会いできたのは、無論、偶然ではありません。神が敬虔な2人を選び、この出会いを備えて下さったのです。

 救い主イエスに会えたシメオンは、神を讃えて29、30節「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、しもべを安らかに去らせて下さいます。私の目があなたの御救いを見たからです」と言いました。もう安心して自分の命を神にお返しできるという、この世が与えることも奪うこともできない見事な平安に与っていました。

 アンナは、シメオンがイエスの両親に話している所に近寄って来て、38節、神に「感謝を献げ」ました。これは「感謝を告白した」とも訳せます。シメオン同様、感謝の思いでいっぱいでした。

 この2人から教えられることは、結局、神を畏れ、救い主を仰ぎ、待ち望む敬虔な信仰です。敬虔とは、ギリシア語で「よく恐れる」、つまり、神を真(しん)に畏れるという意味です。

 神への畏れの薄い人は、魂が震えるような神との人格的出会いをあまり体験できません。けれども、神を真に畏れる者であるなら、復活して今、天におられるイエス・キリストとの聖霊による親しい出会いと喜びを、神は私たちに、今も、また人生の終りでも体験させて下さいます!神を畏れる本当に敬虔な方が、死の数日前でもイエス・キリストとの嬉しい新たな出会いや交わりを体験されていたことを、淀川キリスト教病院のホスピスでしばしば見ることができたことを、私は思い出します。

 第二に、彼らは苦難や厳しさにも耐えてきた忍耐強い人たちでした。

 シメオンは26節「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた」とか、29節「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、しもべを安らかに去らせて下さいます」という彼の言葉から見て、結構高齢でした。

 またアンナは36、37節「非常に年をとっていた。処女の時代の後、7年間夫と共に暮らしたが、やもめとなり、84歳になって」いました。

 高齢ということは、辛いことも当然いっぱい経験してきたでしょう。アンナは結婚後、僅か7年で夫と死別し、60年ぐらい独りで生きてきました。しかも彼らの生きた時代のユダヤは、ハスモニア王朝が没落し、紀元前63年、ローマの将軍ポンペイウスに負けてローマに支配され、イドマヤ出身の外国人で、しかも残酷さで有名なヘロデが王として治めてきました。従って、アンナもシメオンも厳しい人生を生きてきたと思います。

 信仰者としてのこういう苦しみの体験は、人を表面的にではなく、深く洞察できることをも、信仰者に可能にします。ですから、両親に抱かれて神殿に来られた幼子イエスに、二人はすぐ気付きました。実はその時の幼子イエスと両親は貧しく、殆ど目立たなかったと思います。男の子を産むと、女性は律法に従って40日休んだ後、動物犠牲を献げました。普通は1歳の雄羊を献げますが、レビ記12:8は「もし彼女に羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひな」でも良いという例外を認めています。イエスの両親はルカ2:24が伝えますように「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」を献げるために来ました。貧しかったのです。

 しかし、シメオンもアンナも、そんな貧しい一家と幼子イエスにすぐ気付きます。信仰に基づく諸々の苦難とそれ故の忍耐の生涯は、人を表面的にではなく、聖霊に導かれて真に深く洞察できる人に彼らを変えていたとも言えるでしょう。

 また、だからこそ、シメオンは34、35節のように、聖霊の導きの下、幼子イエスと母マリアに厳しい将来をも語り得たと言えます。神を真に畏れる敬虔な信仰者は、普通の人以上に苦しむことが常だからです。パウロは言います。Ⅱテモテ3:12「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は皆、迫害を受けます。」また、使徒14:22で「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なくてはならない」と言い、人々に信仰に堅く留まるように勧めました。ここに私たちは忍耐を教えられます。

 忍耐しない人は、折角聖書で神が素晴らしい霊的祝福を約束しておられても、それになかなか与れません。ですから、ヘブル10:36は言います。「神の御心を行って、約束されたものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」

私たちは、この2人から、世で生きる厳しさをよく知る故に、他者への洞察の適切さと愛、また特に信仰に踏み留まる忍耐の大切さを改めて教えられます。

 第三に、彼らは強い使命感を持って生きる人たちでした。

 シメオンは、自分が救い主に会えて幸せなら、もう十分、という人ではありませんでした。31、32節で彼は「万民」、「異邦人」に言及しています。これは天地を創られた真の神も救い主も知らない世界中の人のことです。高齢でしたが、シメオンは全世界の多くの人がキリストによって救われることを願う熱い信仰を持ち、だからこそ、「私は簡単には死ねない」という使命感と気概を持って生きてきたのです。

 これは真の神と救い主イエス・キリストを信じる信仰者の基本姿勢です。創世記12:3で神は信仰の父と呼ばれるアブラハムに、「地の全ての部族はあなたによって祝福される」とおっしゃっていました。要するに、神の一方的な憐れみによる救いの祝福や幸せ、喜びは、私たちだけのものではなく、常に他のもっと多くの人たちと分ち合うためのものでもあるということです。

 この使命感にアンナも同じく生きていました。彼女は幼子イエスに会えて、38節「神に感謝を献げ」、その後、「エルサレムの贖いを待ち望んでいた全ての人に、この幼子のことを語った」のでした。「語った」は元のギリシア語では「語り続けた」という意味です。彼女は幼子イエスのことを多くの人に語り続けたのです。84歳の高齢でしたが、彼女は救いの福音とそれに伴う祝福、真の幸せを、周囲の人と分ち合わずにはおれない人でした。彼女は、信仰や救いの喜びを自分の内でとどまらせず、周囲の人に語り、是非皆にも、人間としての最高の祝福、幸いに与ってほしいという使命感に立って生きてきました。ですから、この年齢になっても変りませんでした。

 ここに私たちは、救い主を待ち望む2人の高齢者が、命の限り、一人でも多くの人と神の救いの恵みを分ち合うのだという、熱い使命感に生きた人たちであることを教えられ、私たちの魂を強く刺激されます。

 私たちは一概に年齢でどうこう言うことは、できません。健康状態や抱えている問題や他の点でも皆違っています。しかし、できれば、誠実な多くの信仰の先輩たちを導かれた聖霊なる神が、私たちを天に召されるその瞬間まで、全世界を贖ってなお余りあるイエス・キリストの絶大な救いの愛と恵みを伝え、救いの喜び、幸せ、感謝、感動を、一人でも多くの方と分ち合う者にして頂きたいと思います。その意味で、私たちは最後まで、引退クリスチャンではなく、現役のクリスチャンでいたいと思うのです。そのために、絶えず祈り、敬虔に、また忍耐強く、そして自分を用いて頂くのだという使命感をもって、ご一緒にいつも励まし合いつつ歩んで行きたいと思います。

関連する説教を探す関連する説教を探す