2021年12月02日「祈りについて (25) 祈りは戦い 2」

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祈りについて (25) 祈りは戦い 2

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 11章5節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:5 また、イエスはこう言われた。「あなた方のうちの誰かに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。「友よ、パンを三つ貸してくれないか。
11:6 友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。」
11:7 すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。「面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。」
11:8 あなた方に言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはそいないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。ルカによる福音書 11章5節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 今日も前回同様、祈りが真に神との対話、神との交わりとなるために、私たちは戦わなければならないことを覚えたいと思います。

 お読みしたルカ11:5~8は、イエスが弟子たちに祈りを教えられた1~4節に続く箇所であり、あとの9~13節でもイエスは祈りについて教えておられます。従って、5~8節も祈りについての教えであることは分ると思います。

 先週の祈祷会で学びました創世記32:22以降のヤボクの渡し場におけるヤコブの祈りの箇所で、私たちはヤコブが真(まこと)の神、主と、一晩中、まるで格闘するかのように神にしがみついて祈ったことを学びました。彼の願いは聞かれました。今日のルカ11:5~8のイエスが語られた例話でも、私たちはやはり祈りは戦いであることを教えられます。

 では、何故祈りは戦いなのでしょうか。前回、その理由として、第一に私たち罪人は根本的に怠け者だからということ、第二に同じく罪人の習性として私たちは集中力に欠けるからという点を見ました。今日は三つ目として、私たちは持続力に欠けるからという点を覚えたいと思います。

 創世記32章の伝えるヤコブは、一晩中、神に祈るためにどんなに自分自身と戦ったことでしょう。途中で祈ることに疲れ、気持が萎えそうになったとして不思議ではありません。しかし、そういう自分と戦い、彼は夜明けまで神と取っ組みました。

 ルカ11:5以降でイエスが例話で語っておられる人も、7節のように友人に断られてヘナヘナと心が折れ、諦めても変ではないと思います。しかし、8節にありますように、彼はそういう自分と戦い、友人にしつこく続けて頼みました。そして頼みごとは聞かれました。

 翻って私たちはどうでしょうか。誤解のないように言いますが、聖書は私たちに、例えば、一晩中、一睡もせず、ぶっ続けで祈らないと駄目だなどと言うのではありません。そういう持続性、継続性が不可欠だと教えるのではありません。イエス御自身も、十字架の前夜、ゲツセマネの園で確かにずっと祈られましたが、いつもそういう祈りをして過ごされたのではありませんでした。

 今言う祈りの持続性、継続性とは、毎日でも、一日置きでも、一週間毎でも構いません、とにかく誰かのため、何かのために祈らなければと、私たちが思うその大切な祈りの課題を決して忘れず、また諦めず、ずっと継続的に祈るということです。そういう持続性を意味します。

 正直な所、私たちには場当り的な祈りもあるのではないかと思います。確かに祈るべき課題を知った当座とか暫くの間は熱心に祈る。しかし、残念なことに持続しない。祈りの課題が段々頭から薄れ、忘れてしまうこともあります。

 それと、もう一つ。これは無理なのかも知れないと割合早い段階から諦める気持が心の片隅にあり、それが段々大きくなり、それに伴って祈る熱意が冷め、いつしか、たまに思い出して祈るという位になっていることもあると思います。

 どうすれば良いでしょうか。まず初めの、私たちは大事なことでもつい忘れるという点について言いますと、一つは、祈りの課題をノートや携帯電話にでも書き留め、保存しておくと良いと思います。私たちはうっかり忘れやすく、しかしそれが続くと本当に忘れてしまいます。ですから、メモをするのです。よく目に触れる所、例えば、祈りのノートにとかスマホに書いて保存する!それだけでも随分私たちを助け、祈りを持続させます。

 また一度に余り頑張らず、例えば、今日はこれ、明日はこれというように、計画的に祈るのもいいと思います。勿論、毎日祈っていいですし、祈らねばならないこともあります。しかし、体が余りにも疲れているとか、どうにも時間の取れない時もあります。そんな時に無理をしますと、お座なりの祈りに終りかねません。一時(いっとき)に無理をせず、計画的に祈りますと、忘れずに継続的に祈れます。

 もう一つの「これは無理かも知れない」という諦めのために祈る熱意が薄れ、祈りが続かない場合はどうでしょうか。これには、自分が祈るその目的の重要性をよく覚えることだと思います。族長ヤコブは自分と家族の安全のためだけでなく、創世記28:13~15にありますが(32:10以降でもヤコブは言及しています)、カナンの地を与えるという神の非常に大切な約束があったために、諦めなかったのです。ルカ11:5~8の人も、自分のためよりも、11:6にありますように旅の途中の友人のためだからこそ、夜中にも関らず、諦めずに執拗に願ったのです。そして二人とも聞かれました。

 私たちも自分の祈りの課題の重要性をよく認識すれば、祈るのを忘れるとか諦めることが、もっとなくなるのではないでしょうか。私たちの救いのために決して忘れることも諦めることもなさらなかった主イエス・キリストが、どうか、粘り強く祈れる霊を私たちに与え、そういう私たちの祈りを通して、神の栄光を現して下さいますように!

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