2021年08月22日「駆け寄って下さる神様」

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駆け寄って下さる神様

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 15章11節~24節

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聖句のアイコン聖書の言葉

15:11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
15:12 弟の方が父に、『お父さん。財産のうち私が頂く分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、全てのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、何と大ぜいいることか。それなのに、私はここで、飢え死にしようとしている。
15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
ルカによる福音書 15章11節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 誰にも幼い頃の思い出がありますが、例えば、分っていて悪いことをし、親に会わせる顔がなく、惨めで泣きたいようなことはなかったでしょうか。そんな時、私たちが「ご免なさい」と言う前に、親が私たちの気持ちを分っていて、彼らの方から私たちに近づき、ギュッと抱きしめ、「もういいよ」と言ってくれるなら、どんなに嬉しいでしょう。嬉しくて、しゃくり上げながらおいおい泣く。これに近いような思い出もあると思います。

 実は、ルカ15:11以降でイエスはそういう譬え話をされ、私たち生れながらに不信仰で罪深い者への父なる神の驚くべき愛をお教え下さっています。

 神について人間は勝手に色々な考え方をします。しかし、神の御子ご自身が教えて下さっていることを、何より心に留めたいと思います。

 ここは一度読むだけで良く分りますね。いわゆる放蕩息子が私たち惨めな罪人を表し、父親の愛が天の父なる神の愛を表しています。

 まず放蕩息子ですが、彼はどんなに親不孝で罪深いでしょう。第一に、彼は12節「お父さん、財産のうち私が頂く分を下さい」と平然と言ってのけます。彼には親への感謝や子供としての思い遣りや責任感も感じられません。あるのは権利意識だけです。

 第二に、彼は誠に身勝手で自己中心です。13節「それから何日もしない内に、弟息子は、全てのものを纏めて遠い国に旅立った。」一刻も早く家を離れ、親元には何一つ残したくなく、敢えて「遠い国に旅立った」のでした。親とはもう金輪際(こんりんざい)関らず、家になど戻るものか、という強い決意が伺えます。

 あとの父親の様子からは、息子をいつも締め付け、しつこくガミガミ言う親とは到底思えません。しかし、自分が自己中心ですと、自分で勝手に親を煙たくて面倒臭いと思うのでしょう。私たちにも分りますね。

 私たちも、この世界と私たちをご計画に従って創られた真の神から善いものを沢山頂いていても、自分で勝手に神を煙たくて面倒な存在に思ってしまうところがないでしょうか。生れながらに私たちの内にある罪が、私たちの感じ方や考え方にとても大きな影響を与えることを、改めて思います。

 第三に、では、こうまでして親から離れたいと願う彼の生き方とは、どんなものだったのでしょうか。深い喜びや充足感のあるものだったでしょうか。いいえ、自分を惨めにし、滅ぼすだけの全く愚かなものでした。

 13節「そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。」先のことを何も考えない余りにも薄っぺらで刹那的生き方でした。意味のない馬鹿げたことにうつつを抜かし、親から譲り受けた大切な財産を浪費し、自己破壊型の典型でした。

 分りやすくするためにイエスはわざと極端な描き方をされますが、要は、私たちに命と諸々の善いものを与えておられる創り主なる神を無視して、ただ自分の生きたいように生きる自己中心な罪深い生き方は、結局、自分を滅ぼすものでしかないことを教えられます。

 実際、第一に彼は命の危機に直面します。悪いことには悪いことが重なり、14節「その地方全体に激しい飢饉が起り、彼は食べることにも困り始めた。」

 第二に、彼は惨めな最低の生活に身を落とします。15、16節が言いますように、当時のユダヤ人には汚れた動物である豚の世話という最低の所まで身を落とし、豚の餌さえ食べたい程でした。

 第三に、彼は誰からも見捨てられます。16節「誰も彼に与えてはくれなかった。」懐(ふところ)具合の良い時には彼の周りに群がっていた者たちも、一旦、彼が落ちぶれると見事に離れます。冷たいものです。彼はどんなに惨めで情けなかったでしょうか。これが罪の世ですね。

 しかし、感謝なことに、神の憐れみの故に、彼は17節「我に返」ることもできました。つまり、自分の愚かさ、罪深さをとことん知り、また彼自身は気付いていませんでしたが本当は彼の人間としての原点と土台を形作ってくれていた父親のことを漸く思い出したのです。

 そして17節、父親の所にいる雇人たちの恵まれた様子と、今ここで飢え死にしようとしている自分とを比較し、自分の惨めな姿と、それを招いた自分の愚かさを心底悟ります。最低の状態の時でしたが、何と感謝なことでしょう。

 ついに彼は父の許(もと)に帰る決意をし、しかし、自分に帰れる資格のないこともよく分っています。ですから、18、19節「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい」と、父親に言うべき言葉も準備します。こうして漸く天の神と父親と自分自身とに、本気で向き合い、雇い人であろうと何であろうと、自分は父の許で責任をもって生きる、という覚悟ができるまでに成長しました!彼をこのまま死なせず、人のあるべき生き方に立ち返らせようとされる神の忍耐と深い憐れみが背後にあることは、改めて言うまでもありません。

 そこで、この息子を受け入れる父親の姿を通してイエスが私たちに教えようとしておられる真(まこと)の神の愛を、是非、私たちも学びたいと思います。

 神は第一に、私たちが神に立ち返ることを本当に熱い思いで待っておられます。息子はまだ家から遠かったのですが、20節「父親は彼を見つけ」ました。面白いことに、人間は自分に興味や関心のあるものは、少々分りにくい所でも発見できます。身勝手な息子ですが、父親は一日も忘れたことがなく、彼の帰りを首を長くして待っていました。ですから、父親は先に息子を見つけたのでした。

 実は私たちが神に立ち返ることを、神も本当に熱い思いで待っておられるのです。神の愛がそれ程だということを、よく心に刻みたいですね。

 第二に、神は私たちがどんなに不信仰で罪深い者であっても、私たちを心底憐れんで下さるお方です。父親は息子を見つけ、20節「可哀想に思」いました。「可哀想に思う」と訳されているギリシア語は「憐れむ」であり、元は<はらわたが揺さ振られる>という意味だそうです。ですから、神は私たちの痛みをご自分の痛みであるかのように、私たちのことを思っておられる!そういえば、イザヤ63:9でも「彼ら(神の民)が苦しむ時には、いつも主も苦しみ」と言われていました。何という神の愛でしょう。

 第三に、神はご自分から私たちに駆け寄って下さる程に、私たちを愛して下さっています。父親は20節「駆け寄って」息子の「首を抱き、口づけした。」汚くて、臭くて、服もボロボロ。履物らしい履物もなく帰ってきたみすぼらしい姿の息子。私たちなら腕を組み、険しい顔で、それこそディスタンス(距離)を取って、まず息子にブツブツ小言やイヤ味を繰り出さないでしょうか。しかし、この父親は違います!息子を抱きしめ、口づけするために、何と自分から駆け寄りました。

 人間の作った宗教では、人間が自分を打ち叩き、精一杯努力し、あるレベルに達しなければ、救われないのが殆どだと思います。

 しかし、御子イエスを通してご自分を表された天の父なる神は、ただお詫びの言葉しかない私たち罪人を、何とご自分から駆け寄り、ギュッと抱きしめ、ハグし、口づけして下さる程、愛に満ちたお方なのです。自分でも自分が時々イヤになり、そのため、人を遠ざけることさえあるような情けない罪人の私たち!でも、天の父なる神は、こんな私たちであっても、ただ遠くから冷たく見つめるような方ではありません。まさに「駆け寄って下さる神様」なのです。

 第四に、神はご自分に立ち返る者をそのまま受け入れ、ハッキリご自分の子供にして下さる程、私たちを愛して下さる神なのです。

 準備してきた言葉を何とか述べた息子ですが、父親はこの子に、一番良い衣と指輪と履物を与えます(22節)。昔のオリエントでは、この三つは夫々、栄誉と権威と自由を表しました。ここでは要するに、情けない息子であっても、本当に自分の子であることの表明です。

 しかし、一体何故ここまで父親はこの子に良くしてやるのでしょうか。彼には、息子が24節「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」も同然だったからです。単に遠くに行ったのではありません。父からすれば、息子が死んでしまったのと同じ位、堪らなく辛い。悲しい。それ位、彼を心から愛していました。それだけに子供が帰って来たことは、まさに死んでいた子が生き返ったのと同じ位、嬉しくて堪らないのです。

 神と私たちも実は同じです。私たちが神に背を向け、自分の思い通りに生きていることは、神と私たちとの間に生きた関係はなく、神にとって私たちは死んだも同然です。ですから、エペソ2:1は「あなた方は自分の背きと罪の中に死んでいた者」と言います。が、そういう私たちが自分の罪を心から悔い改め、神に立ち返るなら、神には、死んだ我が子が生き返るのと同じ位、本当嬉しい!ルカ15:7で「大きな喜びが天にある」とイエスは言われますが、正に宇宙全体も神と一緒になって、私たちのいわゆる魂の救いを喜び祝ってくれるのです!何と感謝なことでしょうか。

 自分の罪を心から悔い改め神に立ち返る私たちを、神が駆け寄って抱きしめ、口づけするほどにお喜びになり、私たちをご自分の子として正式に永遠に受け入れ、愛し続けて下さる!イエス・キリストを信じて受ける洗礼は、ある意味、これを保証しているのです。

 幼子のように心を開き、神に受け入れられ、神の子供たちの中に入れられ、私たちの真の父であって下さる神と共にある人生を、イエス・キリストに導かれながら、是非、ご一緒に歩みたいと思います。

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