2021年04月08日「祈りについて (11)」
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祈りについて (11)
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- 田村英典 牧師
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ルカによる福音書 18章9節~14節
聖書の言葉
18:9 自分を正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
(新改訳聖書 2017年度版)ルカによる福音書 18章9節~14節
メッセージ
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先週の祈祷会は受難週祈祷会でしたので、皆で祈る前に、ルカ23:34の「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです」という十字架上のイエスの祈りに注目しました。今日は再び祈りについての学びに戻ります。11回目となります。
今日は最も基本的なことの一つを確認します。それは、神に祈る時、私たちはあくまで心から本当に遜り、悔い砕けた心であるべきであり、是非そうでありたいということです。
これは何も特別なことではなく、神に対し私たちクリスチャンが常に持っているべき根本的な姿勢に他なりません。しかし、案外私たちはその自覚のないまま、スーッと祈り始めることがあるように思います。例えば、こういう祈祷会のような場での祈りについて言いますと、順番が自分に回ってきた時、静かに皆が聞いていますので、少しは緊張します。しかしどうかすると、自分が口にする祈りの言葉を選ぶことに一生懸命であって、神の前にまず自分の不信仰や罪の故に本当は顔も上げられない自分であることを自覚することもなく、祈り始めることはないでしょうか。
本来、私たちは、イエス・キリストの十字架と執り成しがなければ、神に近づくことも祈ることも出来ない罪人なのです。そのことをまず深く自覚し、万一自分の立派さや賢さ、清さ、信仰深さへの誇りや自負心があるなら、即座に私たちは自分の中からそれらを追い出し、主の前にひれ伏し、罪の告白と赦しを求めることから始めなければなりません。
この点を、私たちはルカ福音書18:9以降にある主イエスの語られたパリサイ人と取税人の例え話から、ハッキリ教えられます。パリサイ人はどう祈ったでしょうか。18:11「神よ。私が他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ている全てのものから、十分の一を献げております。」このパリサイ人は神に「感謝します」と言っていますが、実の所、それはただ信仰的な言葉を使った自慢に他なりませんでした。
一方、取税人はどうでしょうか。13節「…遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った。『神様、罪人の私を憐れんで下さい。』」取税人は、神の前にこうべを垂れ、自分の胸を叩いて罪を悲しみ、悔い改め、罪の告白と赦しを心から求める祈りを献げています。そこでイエスは言われました。14節「あなた方に言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
注意しなければならないのは、私たち罪人は、実際、何でも自分の誇りや自慢に、それも神の前で、また神への祈りにおいてですら、しかねないことです。パリサイ人が正にそうでした。彼は、すべきでないことをしていないことを、またすべきことをしていることを、誇りました。しかし、それらのことは、本当は神の前に当然のことでしかありません。でもこの人は、それらを、しかも神への祈りの中ですら、誇り、自慢しました。これが罪であり不信仰というものの姿なのです。
しかし、気を付けないと、私たちも次のような気持ちで、神に祈り、神に語りかける可能性があります。「神様、私がこのパリサイ人のようなひどい罪人でないことに感謝致します」と。
実際、私たちはどんなことでも自分を誇る材料にし、そういう自分のまま、神の御前に出て、祈ることすら、しかねません。ですから、私たちはあくまで心から本当に遜り、自分の罪を悲しみ、悔い砕けた心であるべきであり、是非そうでありたいと、最初に言ったのです。
宗教改革者カルヴァンは『キリスト教綱要』3篇20章8節でこう語ります。「祈るために神の前に立つ者は誰でも、遜って神に栄光を完全に帰し、自らの栄光を求める心を全て捨て去り、自分の価値を誇る気持ちを全て拭い去り、要するに、自らを頼みとする思いを捨てなければならない…。」
カルヴァンの指摘は、言い換えますと、私たちの献げる全ての祈りには、罪の告白と赦しを求める祈りとが、それが長いか短いかはともかく、伴わなければならない、ということです。
実際に罪の告白と赦しを求める祈りの言葉を全部口に出して祈るか、あるいは、祈りの前か祈りの最初に心の中で良く思い巡らし確認してから祈るかは、時と場合によります。しかし、この遜った姿勢を是非、心に留めたいと思います。その時、天の父、御子イエス・キリスト、そして聖霊なる神は、こういう私たちの祈りや願いを、どんなに喜ばれることでしょうか。そして必ず私たちを祝福して下さるでしょう。