2021年03月28日「父よ、私の霊を御手に委ねます」

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父よ、私の霊を御手に委ねます

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ルカによる福音書 23章44節~49節

聖句のアイコン聖書の言葉

23:44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。すると、神殿の幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ。わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った。
23:49 しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れた所に立ち、これらのことを見ていた。
    (新改訳聖書 2017年度版)
ルカによる福音書 23章44節~49節

原稿のアイコンメッセージ

 今年は、今日の日曜日から神の御子イエス・キリストの十字架の苦しみと死を覚える受難週に入ります。聖書には、イエスが十字架で発せられた言葉が7つ伝えられていますが、今日は最後の言葉、ルカ福音書23:46の「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」に注目致します。

 死の直前に、人はどういう言葉を発するでしょうか。ホスピスでは「人は裸の自分にされる」と、よく言われます。死を前にした時、人はもう演技など出来ず、そのままの人間性が出ます。私の病院勤務の経験から言いますと、横暴な生き方をしてきた人は、死の直前でも家族に対して横暴であり、いつも人を気遣って生きてきた人は、死を前にしても「ご免ね。ありがとう」と優しい言葉が出ていました。ホスピスで受洗されたある男性は、体調の悪かった私に、亡くなる2日前でも「先生、お体大切にして下さい」とおっしゃり、私は驚きました。ユングが言うように、人は生きてきたように死ぬことを改めて思いました。

 クリスチャン作家の三浦綾子さんと歩んでこられたご主人の三浦光世さんは『死ぬという大切な仕事』という本を書かれました。その通り、どう生きるかと共に、私たちにはどのように死ぬかという人生最後のとても大切な仕事があることを忘れたくないと思います。

 では、罪もないのにむごい十字架にかけられたイエスは、どのように死なれ、最期の言葉は何だったでしょうか。「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」でした。これは詩編31:5「私の霊をあなたの御手に委ねます。真の神、主よ」と殆ど同じで、最後が「父よ」に変っています。

 詩編31は、敵対者たちに苦しめられ、大変辛い状態にあった旧約時代のある信仰者の歌ったものです。しかし、読んでいくと分りますが、神への信頼の言葉に段々変り、最後は神への感謝と確信に満ちた力強い言葉で終ります。そういう詩編と殆ど同じ祈りの言葉であるルカ23:46「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」は、結局、父なる神へのイエスの信頼に満ちた言葉なのです。ある聖書学者は「美しい信頼の言葉」言います。そうだと思います。

 これに関係しますが、もう一つ心に留めたいことがあります。昔のユダヤでは、「私の霊をあなたの御手に委ねます。主よ」という祈りは、夜、眠りに就こうとする幼い子供に、母親が最初に教えた祈りだそうです。眠りは私たちの意識がなくなることです。特に暗い夜、一人で眠るのは幼い子供には大きな不安ですから、母親は子供が眠るまで、そばにいてやることが多いですね。

 しかし、ユダヤではそれだけでなく、親は詩編31:5の祈りを子供に教え、神を信頼し、自分を神の手に、すなわち、そのご支配に委ね、神に明け渡すことを教えました。主イエスも幼い頃、マリア、あるいはヨセフにこの祈りを教えられ、ご自分も祈り、夜、安らかな眠りに就かれたかも知れません。ですから、神の御子イエスはこの祈りをご存じだったでしょう。十字架上で、イエスは最後に、他でもないそういう祈りを天の父に献げ、父の御手に信頼してご自分の霊を委ね、息を引き取られたのでした。

 十字架のイエスについて、四つの福音書は夫々特徴のある伝え方をしています。ルカはどちらかと言うと、平安なイエスを伝えているように思えます。23:34では「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分っていないのです」と、ご自分に敵対する者たちのために祈られた愛に満ちたイエスを伝えます。43節では、イエスと一緒に十字架につけられ、しかし、ついに回心し、イエスを信じた犯罪人の一人に「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」と約束されたイエスを伝えます。今日の46節では、「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」と叫ばれ、厳しい中にも平安なイエスのお姿が分ります。

 恐らく、この祈りの前に口にされた言葉は、ヨハネ19:30が伝える「完了した」でしょう。全人類の罪のために十字架で神の怒りを全て受け、最後まで天の父の御心に従順で、ご自分の使命を果たされたその深い満足の言葉が「完了した」です。この満足に基づき、イエスはまるで幼子が夜、親に教えられた通りに祈って眠りに入るように、「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」と祈られ、父なる神に全く信頼してご自分の霊を委ね、息を引き取られました。何と安らかな最期でしょうか。

 このことは、イエスを心から信じ、依り頼むクリスチャンたちに大きな影響を与えずにはおれませんでした。使徒7:59、60は、キリスト教会最初の殉教者ステパノがユダヤ人に石打ちの刑で殺されたことを伝えますが、彼の最期はどうだったでしょうか。天を仰ぎながら、「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と、イエスの最期の祈りと殆ど同じ祈りを天におられる復活のイエスに献げ、しかもひざまずいて、ルカ23:34のイエスの祈りの言葉、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」を叫びました。石打ちによる過酷な死でしたが、ステパノは主イエスを信じ、仰ぎ、委ね、何と穏やかだったでしょうか。ですから、使徒7:60はステパノが「眠りについた」と伝えます。

 ピリピ4:7に「全ての理解を超えた神の平安」という言葉があります。死は人間にとって魂の最大の危機です。しかし、救い主イエスに常に繋がり、信頼し、イエスの教えに従順で、イエスを絶えず仰いで忠実に生きた者は、人知を超えた神の平安に本当に与れることを、ステパノの最期は証言しています。何と感謝なことでしょうか。

 ルカ福音書に戻ります。「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」と、眠りの前の祈りの言葉を叫んで息を引き取られたイエスの姿は、回りの人にも深い思いを与えずにはおれませんでした。

 その第一は、イエスの処刑に立ち会い、死を見届けたローマ軍の百人隊長です。47節「百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、『本当にこの方は正しい人だった』と言った。」

 彼は今まで多くの犯罪人の処刑に立ち会ってきたでしょう。しかし十字架の上のイエスの様子を見続け、特に息を引き取られる時のイエスの様子を見て、異邦人の彼も「本当にこの方は正しい人だった」とつい口に出し、神を賛美しました。それ位、イエスは真実で、その死は平安でした。後にローマ軍の兵士でクリスチャンになる者が多く現われますが、イエスの処刑に立ち会ったこの百人隊長の証言なども影響を与えたことでしょう。

 第二に、48節「この光景を身に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、悲しみの余り胸を叩きながら帰って行った」とあります。見物するために集まっていた彼らの中には、23節が伝えますように、ユダヤ人指導者たちに扇動され、「イエスを十字架につけよ」と大声で叫んだ人たちもいたかも知れません。しかし、48節「胸を叩きながら帰って行った。」これは良心の呵責や後悔の念を指します。何が彼らをそうさせたのでしょうか。十字架上のイエスの姿、言葉、それも自分たちが幼い時から親に教えられ親しんできた眠る前のお祈りの言葉を聞き、安らかな最期などを見たためです。「正しい人を殺したかも知れない」と怖れを覚えたのでした。ですから、これから約50日後のペンテコステの時やその後、彼らの中からイエスを信じる者たちが大勢現われることになるのだと思います。

 第三に、49節「イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たち」もいました。「イエスの知人たち」とは、イエスと親しく、またイエスを殆ど信じていた人たちのことでしょう。彼ら、そしてイエスの弟子である婦人たちは近くには来られませんでしたが、遠くからずっとイエスの様子を見守っていました。そして、やがてイエスが復活され、イエスのお約束通り、聖霊が臨まれた後、彼らは初代教会を形成し、人々にイエス・キリストを伝える担い手になっていくのでした。

 ローマ軍の百人隊長、見物に集っていた群衆、遠くで離れずにイエスの死を見守った人たち!

 本来、十字架の死はイエスの惨めな敗北を意味するはずですのに、実際には、これらの人たちの心に、イエスが救い主だという消し去りがたい思いを刻んだのです。特にイエスが最後に口にされた「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」という天の父なる神への見事な信頼と眠りに就くようなイエスの平安は、この時はまだよく分っていなかった彼らの心に、どんなに大きな確信と希望と喜びの土台を与えたことでしょうか。

 人の一生は、ある意味、神と人の前にどんな死に方をするかに凝縮されます。特にクリスチャンは、父なる神をたたえ、神と回りの人に感謝し、また救い主イエスを証しできるような、どんな死に方ができるでしょうか。

 感謝すべきかな!御子イエスは私たちと同じ人間として、しかも私たちの罪を全部背負い、あの十字架で最後は天の父に一切を委ね、息を引き取られました!イエス・キリストは私たちの前に、死を超えた永遠の命の世界への道を見事に開いて下さいました。

 どうか、主イエスが弱い私たちを導き、私たちも日々イエスと親しく交わり、御言葉に喜んで生きることにより、死の時、私たちが感謝と平安の内に自らの霊を神の手に委ね、そうして神の愛とイエス・キリストによる救いの幸せを、周りの方々に少しでも証しし、お役に立たせて頂けるなら、何と幸いでしょうか。

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