「命を活かす和解(三輪 誠 神学生による)」

命を活かす和解(三輪 誠 神学生による)

日付
説教
三輪 誠 神学生
5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
5:26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」マタイによる福音書 5章21~26節

 
Ⅰ.  導入
 今日お読みしました御言葉は、主イエスが山上の説教の中で語られたものです。主イエスが弟子たちに、弟子としての生き方を教えられた言葉です。その中の重要なテーマの一つが律法です。今日の箇所の直前の17節から20節におきまして、主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の律法理解を批判しまして、私は律法を完成するために来た、ということを宣言いたします。律法の完成者であられる主イエスが、具体的にいくつかの律法を取り上げて教えられたのが、21節以降48節まで続く御言葉です。主イエスの教える言葉は特徴的です。「あなたがたも聞いているとおり」という言葉と共に、当時の社会の一般的な律法理解を取り上げます。そのうえで、「しかし、わたしは言っておく」という言葉と共に、律法の完成者である主イエス御自身の権威によって、その律法の正しい理解へと主イエスの弟子たちを導かれるのです。

II. 本論1:怒ることに対する警告
 本日取り上げます21節から26節において、主イエスはまず「殺してはならない。殺すものは裁きを免れない」という律法を引き合いに出されます。これは十戒の第六戒の戒めです。みなさまよくご存じでありましょう。そして、人を殺した者は裁きを免れません。この裁きとは、事実を争う裁判ではありません。断罪のための裁判であり、刑罰を伴う裁判です。律法学者やファリサイ派の人々は第六戒の戒めを文字通り受け取りまして、人を殺していないから、自分はこの律法を守っているのだと自負していたのです。そして、おそらくそう考えていたのは彼らだけではなかったでありましょう。これが当時の「殺してはならない」という第六戒の一般的な理解でありました。

 法律でも約束でもそうですが、「これこれをしてはいけない」というルールが与えられたときに私たちが考えることは、「どこまで許されるか」ということではないでしょうか。律法学者やファリサイ派の人々も、まさにこの考え方に基づいています。彼らは決して私たちと何の関係もない人々ではありません。ある意味で彼らはわたしたちの姿です。わたしたちも彼らと同じように、この「殺してはならない」という戒めに自らが違反していると考えて生活してはいないのだと思うのです。十戒の中でも、特に守りやすいと考えがちな戒めではないかと思うのです。

 この考えに対して主イエスは、「しかし、わたしは言っておく」という言葉と共に異を唱えるのです。あなたがたはこの戒めに安心をしているが、それは正しいことか、神の御心に叶うことか、と。律法の完成者であられる主イエスが、神の御心に即してこの戒めを教えられるとき、22節の戒めの言葉となるのです。兄弟に腹を立てる者も、人を殺した者と同じように裁きを受けるのです。兄弟に「ばか」と言う者は最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は地獄の火の中に投げ込まれるのです。これらの言葉は、「どこまで許されるか」ということを考えていた当時の人々にとって驚くべき言葉だったでありましょう。そしてそれは、わたしたちにとっても同じです。主イエスは「どこまで許されるか」ではなく、この戒めを与えられた神の御心は何かということに目を向けさせるのです。律法は、この視点で理解され、行われるべきなのです。

 主イエスはここで、兄弟に対する三つの罪と、それに対応する三つの刑罰を挙げています。これは三段階の、重さが異なる罪があると言おうとしているのではありません。「ばか」も「愚か者」も、当時日常的に使われていたありがちな侮辱の言葉です。どちらが酷(ひど)い、酷くないという区別はありません。また腹を立てるということは、それがいちいち取り上げられて罰せられるということは日常生活においてはないのです。しかし、いずれも神の御心にはかなわず、神に対しては非常に大きな責任を負うことになるのです。ここで主イエスは一切の例外を設けられません。どちらに原因があるとか、どちらの言い分が正しいという条件には一切触れないのです。誰がこの戒めを守ることができるでしょうか。誰もできないのです。人を殺していないことを根拠にわたしたちが持っている、この戒めに対する安心感を主イエスははっきりと否定されるのです。

 主イエスは、命をただ意識があるとか心臓が動いているといった生物学的な事柄として理解してはいません。神や隣人との愛の関係として命を捉えています。腹を立てるということは、相手との愛の関係を切ることです。それによって、愛の関係の中に生きる命を殺すのです。神にとってそれは殺人なのです。「ばか」「愚か者」という言葉も同様です。もし誰かがそのように言ったことで、周りの人々が、あいつはばかだ、愚か者だと思ってしまったらどうでしょう。その人と愛の関係を築くことは難しくなるでしょう。また、誰かから「ばか」「愚か者」と言われて、自分は本当にそのような人間だと思ってしまったらどうでしょうか。若者のいじめによる自殺の一部は、こうして起こっているのではないでしょうか。「人を殺してはならない」。この戒めは、決して私たちと無関係ではありません。私たちは人と人との関係を切ることによって、日々誰かを殺しているのです。この殺人の罪のゆえにわたしたちが壊してしまった人と人の関係、そして神と人との関係を修復し、再び愛の関係を取り戻すために、律法の完成者である主イエスは来られたのです。

III. 本論2:神の和解と人の和解の関係
 それゆえに、主イエスは23節以降で仲直り、すなわち和解を求められるのです。祭壇に供え物を捧げようとしているときに、兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したら、まず行って仲直りをしなさいと主イエスは言われます。自分が腹を立てなければそれでいいというのではありません。兄弟が自分に反感を持っている場合、それが正当か不当かに関わらず、仲直りをするようにと言われています。それほどまでに主イエスは、人と人との愛の関係を重視されるのです。兄弟が自分に反感を持っているということは、その兄弟が神に対して殺人の罪を犯しているということです。この兄弟の罪をそのままにしておくならば、その兄弟を滅びの中に放置することになりかねません。それは人の命を生かそうとされる神の御心に反するのです。仲直りという言葉は、もともと交換することを意味する言葉です。その言葉が、敵意と友情を交換するという意味で用いられました。敵意を友情に変えるためには、相手か自分のどちらかが変わらなければなりません。主イエスは言われます。まずあなたが行って兄弟と仲直りしなさい。まずあなたから、仲直りのために行動を起こしなさい。あなたから、兄弟に愛を示しなさい。しかもそれを、祭壇に供え物を捧げることに先んじてなされるべきだと言われるのです。

 祭壇に供え物を捧げるのが、当時の礼拝の形式でありました。礼拝よりも、まず和解せよと主イエスは言われます。ファリサイ派の人々は、これとは逆のことを教えていました。礼拝という神への義務を果たしてから、人に対する義務を果たせ。これが彼らの教えです。しかし主イエスはこれとは真逆のことを教えられるのです。礼拝の目的は、罪の赦しです。罪赦されて神と和解することです。そして、神との和解を、共に罪赦された兄弟と一緒に喜び合うことです。それが礼拝です。ですから共に礼拝に与る兄弟姉妹が反感を持ったままでいることは、本来ありえないのです。主イエスは、礼拝を決して形だけのものとして捉えていません。時間通りに来て、形式的に礼拝を捧げればそれでいいというのではないのです。礼拝とは、兄弟姉妹と共に神の前に立つことです。そのために、私たちの側でもなすべきことがあるのです。ホセア書6章6節に、このような御言葉があります。
 「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」

 礼拝を形式的に守るのではなくて、わたしたちが愛に生きること、神を知ること。神はこのことを大切にしておられます。これらは、まず主イエスが世に来て私たちに示してくださいました。その恵みに与っている私たちだからこそ、まず行って兄弟と仲直りすることが求められるのです。なぜなら、私たちが神との和解を求める前に、まず主イエスが世に来られて、神との和解の道を開いてくださったからです。兄弟と自分のどちらに正義があるか、どちらに責任があるかは関係ありません。兄弟との和解のために、まずあなたがたたが行きなさいと主イエスは言われるのです。神との和解と兄弟との和解は、切り離せないのです。

IV. 本論3:今和解しなければならない
 続く25節~26節において、さらに切迫した事態について語られます。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合です。その場合は、途中で早く和解しなさいと主イエスは言われます。

 ここでは、借金を抱えた貧しい人が、彼を訴えている債権者と一緒に裁判所に行く場面が取り上げられています。ここでの裁判も、事実を争う裁判ではありません。裁判になれば、確実に有罪となり、牢に入れられることが分かりきっている裁判です。この状況であれば、裁判所につく前に一刻も早く和解しなければならないことは目に見えています。誰でもわかります。主イエスは弟子たちに、あなたがたは今このような状況だと言われるのです。ここでの裁判とは、私たちの罪に対する神の裁きを示しているでありましょう。私たちの歩みは、神の裁きへの歩みであります。誰もが神に対して大きな責任を負っていることは、さきほどお話しした通りです。もし和解のないままに神の裁きになってしまえば、最後の一クァドランスまでも責任を問われるのです。一クァドランスとは、当時の最も小さなお金の単位です。現在で言うなら一クァドランスは一円です。神の裁きにおいて、一円たりとも罪の責任が免除されることはないのです。それが神の義です。この裁きに耐えることができる者がいるでしょうか。誰もいません。だから、私たちは神との和解が必要です。主イエスの十字架が必要なのです。そして神との和解と兄弟との和解は切り離すことはできませんから、兄弟との和解も必要なのです。

 ただ、わたしたちはいつでも兄弟と和解できるわけではありません。明日、死ぬかもしれません。明日、主イエスが再び来られるかもしれません。そうなってしまってはもう和解はかないません。だから、今、兄弟と和解するために行動を始めなければないのです。後回しにしてはならないのです。今与えられたこの時は、自分が殺人を犯していないから大丈夫と思って安心する時ではないのです。兄弟に腹を立てて、愛の関係を切る時でもないのです。今こそ、キリストの十字架の恵みにすがりつつ、愛に生き始める時なのです。和解に向けた歩みを始めるべき時なのです。

V. 結論:人の命を生かす和解
 ここまで神が私たちに求められる和解について見てまいりました。では、私たちが和解せず、兄弟に対して腹を立て続ける行動は、何を意味するのでしょうか。なぜ主イエスは例外なく、この行為を非難されるのでしょうか。しかるべき理由があれば、腹を立てるのも仕方ないように思います。世の中には、義憤という言葉があるくらいです。正義がない怒りこそが断罪されるべきではないでしょうか。実際に今日の御言葉をそのように理解し教える人々も、過去にはいたようであります。そのように教える人々の気持ちを、私たちはよく理解できるのではないでしょうか。

 しかし、考えていただきたいのです。この世の中に、果たして正義のない怒りはあるのでしょうか。正義がない怒りなんてものは、存在しないのです。どんなささいな怒りにも、小さな子供がだだをこねる場合であっても、それには自分が信じる正義があるのです。この自分の正義が貫かれないことに、わたしたちは腹を立てるのです。そして相手の不正義を非難するのです。今、かつてないほどに世の中に義憤は溢れています。多くの人が、自らの正義を主張しています。そして考えが異なる人に対して、腹を立てています。「ばか」「愚か者」という言葉と共に、相手を非難しています。このようにして私たちは、自らが神の代りに正義の裁き主になろうとするのです。それが、人を殺す人間の姿なのです。

 この正義の怒りを兄弟に向けた一つの例が、放蕩息子の兄でありましょう。彼は、放蕩の限りを尽くして親のもとに立ち返った弟を、すなわち神のもとに立ち返った兄弟を、彼の正義に従って断罪しました。ルカによる福音書15章の出来事です。ここには、兄が怒って家に入ろうとしなかったと記されています。この“怒って”という言葉が、今日の22節にあります“腹を立てる”と同じ言葉なのです。私たちが兄弟に腹を立てるということは、神に罪赦されて救いに与るべき人を、私たちが断罪するということです。これが神の御心であるはずがないのです。これこそ、神が救われた命を殺す殺人なのです。ですから、主イエスの十字架によって救われた私たちは、自らの正義を捨てざるをえないでありましょう。そして、自ら兄弟との和解へと踏み出さなくてはなりません。これは、とても辛いことです。苦しいことです。おそらくは、相手を非難してしまった方が楽なのです。相手から和解してくるのを待った方が、自らの面目を保つことができます。しかし、主イエスが教えられる道は、そうではありません。今、あなたがたがまず行って兄弟と仲直りすることです。キリスト者には、それができるのです。主の正義にお委ねして、主の裁きにお任せをして、和解に向けた小さな一歩を歩みだすことが、私たちにはできるのです。主イエスの導かれる和解は、自らの不確かな正義に従う歩みではありません。神の正義にお任せし、神の愛の御心に従うことができる歩みです。この歩みのうちに、真の平和が実現されるのです。神との和解が与えられ、人の命を生かす道が開かれるのです。今こそ、この人の命を生かす歩みを、ここに集められた兄弟姉妹と共に始めていこうではありませんか。


 お祈りいたします。

 天の父なる神様
 あなたのお名前を、心からほめたたえます。
 人の命を殺すことしかできなかった私たちが、ここに集められ、和解へと導かれ、人の命を生かす歩みをなす者へと変えられました。この驚くべき御業をほめたたえ、感謝をいたします。また、共にあなたとの和解を喜び、共に赦し合うことのできる兄弟姉妹をここに集めてくださっていることをも感謝いたします。
 どうぞ。わたしたちが互いに、あなたの御心に従いながら、主イエスの御跡に従いながら、真の命に生きる喜びの歩みをなさせてください。どうぞこの日本の地に、私たちを通して真の平和を来たらせてください。そしてあなたが愛してやまないこの世界に、あなたの御心に生きる天の御国を来たらせてください。

 この祈りと願いとを、私たちの救い主、主イエスキリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

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