神の羊の群れを牧しなさい 2020年2月16日(日曜 朝の礼拝)
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神の羊の群れを牧しなさい
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- 村田寿和 牧師
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ペトロの手紙一 5章1節~7節
聖書の言葉
5:1 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
5:2 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。
5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
5:5 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。
5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。ペトロの手紙一 5章1節~7節
メッセージ
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序
先程は、O長老候補者の長老任職・就職式を執り行うことができました。私たちの教会に新しい長老が立てられたことを、主に感謝いたします。それで今朝は、『ペトロの手紙一』の第5章1節から7節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 神の羊の群れを牧しなさい
1節から4節までをお読みします。
さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
この手紙は、イエス・キリストの使徒ペトロから、小アジアにある諸教会に宛てて記された手紙であります(1:1参照)。ペトロと言えば、12使徒の筆頭であり、エルサレム教会の柱と目されていた人物であります。そのペトロが、ここでは長老の一人として、小アジアにある諸教会の長老たちに勧めの言葉を記しているのです。また、ペトロは「キリストの受難の証人、やがてあらわれる栄光にあずかる者」として、小アジアにある教会の長老たちに勧めの言葉を記すのです。「キリストの受難の証人」とは、長老の一人として、キリストの苦しみにあずかる者ということです。キリストのために苦しみを受ける者は、やがて現れる栄光にも、キリストと共にあずかることができるのです。そして、同じことが、小アジアにある諸教会の長老たちにも言えるのです。また、私たち羽生栄光教会の長老たちも同じことが言えるのであります。私たち日本キリスト改革派教会において、長老は御言葉を宣べ伝える宣教長老(教師)と群れを治める治会長老の二つがあります。ペトロの手紙一が記された頃には、そのような区別はなかったようです。ですから、ここでの「長老たち」には、私たちの教会で言えば、宣教長老と治会長老が含まれているのです。宣教長老である教師を含む長老たちに、ペトロは、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」と勧めるのです。ここでの「神の羊の群れ」とは、神さまが御子の血によって御自分のものとしてくださった教会のことであります。また、「牧する」とは「世話をする」こと、教会を治め、守り、養うことです。「神の羊の群れを牧しなさい」。この言葉は、ペトロが復活されたイエスさまから言われた言葉でもあります。『ヨハネによる福音書』の第21章15節から17節までをお読みします。新約の211ページです。
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
ここでイエスさまは、ペトロに三度、「わたしを愛しているか」と問われました。そして、ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と三度答えています。かつてペトロは三度、イエスさまとの関係を否定しました。そのペトロに、イエスさまは、三度、御自分への愛を問われたのです。そして、イエスさまへの愛を三度告白したペトロに、イエスさまは三度、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われたのです。このようにイエスさまは、御自分を愛するペトロに、御自分の羊の世話を託されたのであります。ここでのポイントは、イエスさまへの愛は、イエスさまの羊の世話をすることによって具体的に表されるということです。ですから、長老たちには、イエスさまを愛することが何よりも求められるのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の434ページです。
2節の後半から3節までには、どのように、神の羊の群れの世話をすべきかが記されています。第一に、長老たちは、強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をすべきです。旧約聖書を読みますと、神さまが羊飼いに、神の民イスラエルが羊の群れに譬えられています(エゼキエル34章参照)。また、神の独り子であるイエス・キリストは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました(ヨハネ10:11参照)。そして、イエスさまは、良い羊飼いとして、十字架のうえで自ら命を捨ててくださったのです(ヨハネ10:17参照)。そのようにして、イエスさまは御自分の羊たちをこの上なく愛し抜かれたのです。その主イエスに従って、長老たちには、自ら進んで、自発的に神の羊の世話をすることが求められているのです。第二に、長老たちは、卑しい利得のためにではなく献身的に世話をすべきです。『テモテへの手紙一』の第5章17節と18節にこう記されています。「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために苦労している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。聖書には、『脱穀している牛に口籠(くつこ)をはめてはならない』と、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と書かれています」。この御言葉から、長老たちの中に、御言葉と教えに労苦している長老たちがいたこと。その長老たちが何らかの報酬を受け取っていたことが分かります。私たちの教会でも、宣教長老である御言葉の教師は、教会から謝儀を受け取って、生活しております。ですから、「卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい」という勧めは、私のような教師に特に当てはまるわけです。長老たちは、喜んで、熱心に神の羊の世話をすることが求められているのです。第三に、長老たちは、ゆだねられている人々に対して、権威を振り回さず、むしろ、群れの模範になるべきです。ここで「ゆだねられている人々」と訳されている言葉は、直訳すると「くじ」(複数形)となります。その昔、神の民イスラエルは、くじによって約束の地を割り当てられました。それで、新改訳聖書は、「割り当てられた人たち」と翻訳しています。長老たちにゆだねられている人々は、神さまから、また、イエスさまから割り当てられた人々であるのです。その人々に対して、長老たちは権威を振り回してはいけないのです。このことは、イエスさまがペトロを含む弟子たちに教えられたことであります。『ルカによる福音書』の第22章24節から27節までをお読みします。新約の154ページです。
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」
ここで、イエスさまは、御自分の教会において、上に立つ者は権力を振るう者であってはならず、むしろ仕える者になることを教えております。なぜなら、教会の王であり、頭(かしら)である主イエス・キリストは仕える者であられたからです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の434ページです。
先程の『ルカによる福音書』のイエスさまの教えを念頭に置くとき、長老たちは仕えることにおいて群れの模範になるべきことが分かります。私たちの教会では、月に一度、第一主日の礼拝において、聖餐式を行います。そこにおいて、長老たちは、パンとぶどうジュースを配餐します。まさしく、給仕する者となるわけです。
最近の大会において、ハラスメントが問題となっております。「権威を振り回してはいけない」という御言葉は、教師や長老によるパワーハラスメントをも戒めているのです。わたしも、知らず知らずの内に、そのような言動を取ってしまったことをお詫びしたいと思います。そして、仕えることにおいて、群れの模範になれるよう努力したいと思います。
4節に、「そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります」と記されています。「大牧者」と訳されている言葉は、「牧者の長」となります。牧者の長とは、良き羊飼いであるイエス・キリストのことです。牧者の長であるイエス・キリストが再び来られるとき、長老たちは、しぼむことのない栄冠を受けることになる。そのことに望みを置いて、長老たちは、自ら進んで、献身的に、群れの模範となって、神の羊の群れの世話をすべきであるのです。そして、繰り返しになりますが、そのことは、イエス・キリストへの愛を源としているのです。
2 皆互いに謙遜を身に着けなさい
5節から7節までをお読みします。
同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時に高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。
ペトロは、若い人たちに、「同じように、長老に従いなさい」と勧めています。「同じように」とは、「自ら進んで、喜んで、長老に従いなさい」ということです。細かいことを言うようですが、ここでの「長老」は複数形で記されています。教会の王であり、頭(かしら)である主イエス・キリストは、長老たちに、神の羊の群れの世話をするように命じられました。その長老たちに、若い人たちは自発的に、喜んで従うことが求められているのです。若い人たちだけではなく、神の羊であるすべての信徒が自ら進んで、喜んで、長老たちに従うことが求められているのです(年の差の問題ではない)。
さらに、ペトロは、「皆互いに謙遜を身につけなさい」と勧めます。謙遜とは、「自分を低くすること」です。「相手よりも低い位置に自分を置くこと」が謙遜であります。そのような謙遜を、私たち皆が身に着けるべきであるのです。当時、奴隷はすぐ仕えることができるようにエプロン(前掛け)を身に着けていたと言われます。そのように、私たちは互いに仕えることができるように、謙遜というエプロンを身に着けるべきであるのです(ヨハネ13:4、5参照)。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。ここで、ペトロは、旧約聖書の『箴言』第3章34節(LXX)を引用しています。高慢な者とは、自分を高くする者ですね。自分を高くして、神であるかのように振る舞う者を、神さまは敵とされる。しかし、自分を低くして、神さまに依り頼む者には、恵みを与えてくださるのです。それゆえ、ペトロはこう記すのです。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」。「皆互いに謙遜を身に着けなさい」という勧めが、ここでは、「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」という勧めに移っています。このことは、私たちが身に着けるべき謙遜が、神さまの御前に自分を低くすることから始まることを教えています。国語辞典で「謙遜」という言葉を引くと、こう記されています。「相手に遠慮して、自分の能力や価値、言動などをわざと低くすること。自慢したり高ぶったりせず、控えめであること」(『明鏡国語辞典』)。このような謙遜は、いわゆる処世術でありますね。ペトロが勧めているのは、そのような処世術としての謙遜ではありません。神さまの御前に自分を低くする。そこから生じて来る謙遜です。ペトロはそのような謙遜を身に着けたときに、イエスさまから「わたしの羊の世話をしなさい」と命じられたのです。先程、復活のイエスさまが、ペトロに現れてくださり、「わたしを愛しているか」と三度問われた御言葉を読みました。かつてのペトロでしたら、「はい。わたしはあなたを愛しています。あなたのためなら死んでもかまいません」と答えたことでしょう。実際、ペトロは、イエスさまが捕らえられる前、「あなたのためなら命を捨てます」と言っていました(ヨハネ13:37)。けれども、そのペトロが我が身かわいさに、イエスさまのことを三度否定してしまうわけです。そのことによって、ペトロの高慢は打ち砕かれたのです。そのことによって、ペトロは謙遜にさせられたのです。ですから、復活のイエスさまから、「あなたはわたしを愛しているか」と三度問われたときに、ペトロは、「はい。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と三度答えたのです。ペトロは、「イエスさまへの愛の確かさは、自分の内にあるのではなくて、イエスさまの内にある」と三度答えたのです。そして、イエスさまの羊の世話をする者とされたのです。イエスさまからそのようなお取り扱いを受けた者として、ペトロは、「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」と記しているのです。「かの時」とは、大牧者であるイエス・キリストが栄光の主として再び来られるときです。その時、神さまの力強い御手の下で自分を低くしているあなたを、神さまが高くしてくださるのです(フィリピ2:6~9参照)。
7節に、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」と記されています。この御言葉は、6節との繫がりから理解するのがよいと思います。つまり、神の力強い御手の下で自分を低くすることは、思い煩いを何もかも神さまに任せてしまうということであるのです。神さまにお任せしないで、思い煩っているならば、その人は、神さまの力強い御手の下で自分を低くしていない、ということです。「神の力強い御手」とは、神さまが全能であることを示しています。私たちは「使徒信条」において、「わたしは天地の造り主、全能の父である神を信じます」と告白しています。私たちは全能である神さまを父と告白する者たちであるのです。そうであれば、私たちは思い煩いを、何もかも神さまにお任せすべきであるのです。なぜなら、神さまは、私たちのことを心にかけていてくださるからです。旧約聖書の『イザヤ書』第49章15節に、こう記されています。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない」。神さまが、私たちを忘れることは決してありません。なぜなら、神さまが、私たちを御子イエス・キリストの血によって贖い、御自分の民としてくださったからです。ですから、私たちは、すべての思い煩いを、神さまにゆだねることができるのです(マタイ6:25~34参照)。