執事について 2020年1月26日(日曜 朝の礼拝)
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執事について
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使徒言行録 6章1節~7節
聖書の言葉
6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。
6:2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
6:5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、
6:6 使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。使徒言行録 6章1節~7節
メッセージ
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序
本日、午後1時30分から開催される会員総会において、長老の選挙と執事の選挙が行われます。今回は任期満了に伴う再任の選挙だけではなく、新任の選挙が行われます。先週は長老についてお話しましたので、今朝は執事についてお話したいと思います。
1 執事について(『政治規準』より)
私たち日本キリスト改革派教会の憲法の一つである『政治規準』の第4条(教会役員)に、「聖書によれば、一切の教会権能をつかさどる教会役員は、教師・治会長老・執事である」とあります。執事は、教師・治会長老と並ぶ教会役員であるのです。また、第20条の(執事の働き)に、「教会の愛と奉仕の業は、小会の監督の下にある執事の手に、特にゆだねられる」とあります。執事は、教師・治会長老と並ぶ教会役員ですが、教師と長老たちの会議である小会の監督の下にあるのです。では、執事とはどのような働きを、教会の王であり、頭(かしら)であるイエス・キリストから委ねられているのでしょうか。『政治規準』の「第10章 執事」の第56条から第59条までをお読みします。
第10章 執事
第56条(執事の職務)執事の職務は、聖書によれば、主イエス・キリストの模範に倣って、愛と奉仕の業を行い、聖徒の交わりを特に相互の助け合いにおいて具現するものである。
第57条(執事の資格)この職務を担当する者は、霊的品性を持ち、模範となる生活を送り、家をよく治め、よい名声を持ち、あたたかい同情心と健全な判断力を持つ者でなければならない。
第58条(執事の任務)執事の任務は、次のとおりである。
(1)貧困・病気・孤独・失意の中にある者を、御言葉とふさわしい助けをもって励ますこと。
(2)献金の祝福を教会員に勧め、教会活動の維持発展のため及び愛の業のためにささげられたものを管理し、その目的にふさわしく分配すること。
(3)教会会計及び教会財務の維持・管理を小会の監督の下に行うこと。ただし、財政上の重要事項は、会員総会の議を経て行わなければならない。
(4)個々のキリスト信者が愛の律法によって果たすべき一切の義務を、特に執事として果たすこと。
(5)教会員と共に、また教会員のために祈ること。
(6)牧会的配慮を要する事柄を、牧師に知らせること。
(7)伝道すること。
(8)諸集会のために配慮すること。
(9)教会内外の執事的必要を調査し、教会員に訴えること。
2 執事は、中会または大会において執事的働きに関する委員会に選ばれることができる。
第59条(執事会)各個教会の執事は、3名以上の執事をもって執事会を組織する。執事会は、小会の監督の下におかれる。
2 執事会は、議長・書記・会計を選出し、毎月一回定期会を開かなければならない。特別な事情のため、毎月一回開催できないときでも、少なくとも三 か月に一回は開かなければならない。執事会の定足数は過半数とする。
3 執事会書記は、執事会記録を定期的に小会に提出し、承認を受けなければならない。
4 執事会は、必要があれば小会と合同協議会を開くことができる。
執事とは、主イエス・キリストの模範に倣って、愛と奉仕の業を行う者のことです。愛の業の代表的なものが、「貧困・病気・孤独・失意の中にある者を、御言葉とふさわしい助けをもって励ますこと」であります。また、奉仕の業の代表的なものが、「献金の祝福を教会員に勧め、教会活動の維持発展のため及び愛の業のためにささげられたものを管理し、その目的にふさわしく分配すること」であります。それは具体的には、「教会会計及び教会財産の維持・管理を小会の監督の下に行うこと」であるのです。そのような愛と奉仕の業を、執事は教会員を代表して担ってくださっているわけです。ですから、執事が任職・就職する際に、教会員は次のことを誓約するのです。
1.主は、あなたがたが選んだこの愛する兄弟〔姉妹〕を、今、あなたがたの執事として遣わされます。あなたがたは、真心から喜びと敬意をもって、この兄弟〔姉妹〕を執事として受け入れることを誓約しますか。
2.あなたがたは、彼〔彼女〕に対して、御言葉と私たちの教会の憲法が認める名誉と励ましと従順とを与えることを誓約しますか。
教会員は、自分たちが選んだ執事について、このような誓約をしているのです。
先週も読みましたが、「第18章 教会職制の原理」についても読みたいと思います。ここには、会員総会で行おうとしている選挙の意味がよく言い表されているからです。
第18章 教会職制の原理
第116条(召命の教理)教会における職務は、聖霊による神の召命によって任じられる。この召命は、通常、良心の内的なあかし、教会員による明白な認可、教会会議による判定を通して明かになる。
2 教会の政治は代議制であるから、教会役員を選出する権利は、教会員にのみ所属する。従って、いかなる場合にも、教会員の選挙あるいは少なくとも同意を経ないで教会役員を決めることはできない。
3 神は教会の役員を召されるとき、彼らに必要な賜物を与えて、種々の任務を行わせられる。従って、役員の候補者は、すべて会議の試験または試問を受けて、承認されなければならない。
第117条(任職の教理)教会の役員に召された者は、教会会議あるいは教会会議が権能を委託した者によって任職されなければならない。任職とは、神の教会に役員として正当に召された者に、祈りと按手により、権威ある承認を与えることを言う。
2 御言葉の教師の任職は中会が行う。
3 治会長老及び執事の任職は小会が行う。ただし、教会設立のときは中会が行う。
4 教会の職務に任職される者は、具体的な働きに召されていなければならない。
5 教師の任職を受けようとする者は、各個教会の牧師・協力牧師・宣教教師の働きに召されるか、あるいは中会が認める何らかの働きに召されていなければならない。
6 治会長老・執事の任職を受けようとする者は、各個教会において正規に選ばれた者でなければならない。
第116条に、教会の職務への召しは、通常、良心の内的なあかし、教会員による明白な認可、教会会議による判定を通して明らかとなる、とあります。今回の執事選挙について言えば、良心の内的なあかしとはとは、小会の要請を受けて、S姉妹が執事候補者となってくださったということです。また、教会員による明白な認可は、会員総会で行われる選挙によって明らかとされます。教会会議による判定とは、当選した執事候補者に対する小会の試問のことです。このような一連の手続きを経て、聖霊による神の召命は明らかとなるのです。ですから、教会員は、S姉妹が執事になることが主の御心であるかどうかを祈り、信仰をもって投票することが求められているのです。
ここまで、『政治規準』からお話しました。次に、その教えの源である『聖書』から、執事についてお話したいと思います。
2 食卓の奉仕者の選出(使徒6:1~7より)
今朝の御言葉である使徒言行録の第6章1節から7節までをお読みします(新約223頁)。
そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
「執事」とか「奉仕者」と訳されるギリシャ語は、「ディアコノス」です。その「ディアコノス」と関係の深い「ディアコニア」という言葉が、1節で「分配」、4節で「奉仕」と訳されています。また、「ディアコネオー」という言葉が、2節で「世話をする」と訳されています。このような言葉のつながりから、教会は、ディアコニア(奉仕)をするために選ばれた七人を、ディアコノス(執事)として解釈したのです。
ここには、教会内に生じた問題が記されています。エルサレムの教会には、ヘブライ語を話すユダヤ人(ヘブライスト)とギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト)の大きく二つのグループがありました。ヘブライ語を話すユダヤ人は、ユダヤで生まれ育ったユダヤ人です。他方、ギリシャ語を話すユダヤ人は、外国で生まれ育ったユダヤ人であります。いわゆる離散のユダヤ人、ディアスポラのユダヤ人です。おそらく、ヘブライ語を話すユダヤ人の方が多数派だったのでしょう。ギリシア語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して、日々の分配のことで仲間のやもめが軽んじられていると苦情がでました。この「日々の分配」とは、食事の配給のことです。この日々の奉仕を、十二使徒の監督のもとに、おそらくヘブライ語を話すユダヤ人たちがしていたのです。「教会においてやもめが軽んじられている」ということは、見過ごすことのできない問題でした。やもめは未亡人のことで、孤児や寄留者と並ぶ社会的弱者でありました。旧約聖書を読むと、神さまが、やもめや孤児や寄留者といった社会的弱者を保護するように、イスラエルの民に命じておられます(申命記24:17~22参照)。それゆえ、教会がやもめたちをどのように扱うかは、大きな問題であったのです。やもめをどのように扱うかによって、教会の愛が試されるわけです。
十二使徒は、弟子をすべて呼び集めてこう言いました。「わたしたちが神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」。十二使徒たちは、祈りと御言葉の奉仕(ディアコニア)に専念するために、食事の奉仕(ディアコニア)をする七人を選ぶように提案しました(教会には二つのディオアコニアがある)。そして、一同はこの提案に賛成し、ステファノを初めとする七人を選んだのです。ここには、どのようにして選んだかは記されていませんが、投票によって選んだのだと思います(使徒14:23参照)。使徒言行録の1章に、イスカリオテのユダに代わる使徒として、マティアが選出されたことが記されています。そのときは、どのように選出したかと言いますと、最終的には主に祈ってくじを引いてきめたのです。それは、弟子たちに聖霊がまだ降っていなかったからです。聖霊が与えられてからは、教会で人を選ぶときは、選挙で選ぶのです。そして、その選挙の結果を、「聖霊とわたしたちは決めた」と信仰をもって受け入れたのです(15:28参照)。ここに名前が記されている七人は、すべてギリシア語名であります。おそらく、この七人はギリシア語を話すユダヤ人であったのでしょう。ギリシア語を話すユダヤ人のやもめが軽んじられいたという問題を解決するために、ギリシア語を話すユダヤ人から奉仕者(ディアコノス)が選ばれたのです。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置きました。これは按手とよばれるものです。使徒たちから按手を受けることによって、七人は奉仕者(執事)として任職したのです。このようにして教会は、御言葉の奉仕と食卓の奉仕の両方に専念することができるようになったのです。それゆえ、神の言葉はますます広まり、弟子の数は増えていったのです。
3 執事の資格(一テモテ3:8~13より)
今朝のもう一つの御言葉、テモテへの手紙一の第3章8節から13節までをお読みします(新約386頁)。
同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理をもっている人でなければなりません。この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです。
ここでの「奉仕者」(ディアコノス)は「執事」のことです。パウロは、「同じように」と書き出していますが、それは、3章1節の「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる」のと同じように、ということです。執事という良い仕事には、それにふさわしい条件が求められるのです。パウロは執事たちも品位のある人でなければならないと記します。ここでの品位は、聖霊によって形作られたキリスト者としての気品であり、信仰、希望、愛に基づく気品です。また、執事には二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益を貪らないことが求められます。執事には、発言に一貫性があり、自分を抑制でき、不正による利益を憎む心が求められるのです。執事は献金を管理をするので、恥ずべき利益を貪らないことが求められるのです。
9節に、「清い良心の中に信仰の秘められた真理をもっている人でなければなりません」と記されています。「清い良心」とは、神さまを主とするキリスト者の良心のことです。良心とは「善悪を判断し、自分の行いを正しいものにしようとする心の働き」ですが、キリスト者の良心は、神さまの御言葉によって善悪を判断し、神さまの御言葉に適った正しいことを行おうとするのです。執事は、その清い良心の中に信仰の秘められた真理をもっている人でなければならないのです。私たち改革派教会において教師、長老、執事は、前文を付したウェストミンスター信仰規準を教理の体系として受け入れることを誓約します。このことは、教会役員が信仰の秘められた真理を持つためであると言えます。教会役員である教師、長老、執事には、聖書から信仰の秘められた真理を体系的に学び続けることが求められているのです。
10節に、「この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい」と記されています。小会は当選した執事候補者を試問という形で審査をするわけです。そして、小会の試問において、非難される点がないことが確認されれば、後日、礼拝において任職式・就職式が行われることになるのです。
13節に、「というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです」と記されています。「良い地位を得る」とは、教会の中で尊敬を受けるということです。このパウロの言葉は、執事の務めを立派に果たした人を、教会は重んじるように教えています。また、執事の務めを立派に果たした人々は、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得ることができるのです(休職している執事についても言及する)。この確信は、主からいただく報いに対する確信でもあります。信仰をもって奉仕に励むとき、世の終わりに主からいただく報いを確信することができるのです。そして、それは執事だけではなく、主に仕えるすべての奉仕者が得ることのできる大きな確信であるのです(二テモテ4:7,8参照)。私たちは、自分が与えられている賜物(タラントン)を主のために用いるとき、主から豊かな報いを受けるという確信を得ることができるのです(マタイ25:14~30参照)。