主にあって喜んで生きる 2020年1月05日(日曜 朝の礼拝)
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主にあって喜んで生きる
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
フィリピの信徒への手紙 4章2節~9節
聖書の言葉
4:2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
4:3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
4:4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
4:8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
4:9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。フィリピの信徒への手紙 4章2節~9節
メッセージ
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序 年間聖句と年間テーマ
今朝は、2020年の最初の礼拝であります。それで、今朝は、年間聖句から説教したいと思います。週報の表紙にあるように、2020年の年間テーマは、「主にあって喜んで生きる」です。また、年間聖句は、「主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(聖書協会共同訳 フィリピの信徒への手紙4章4節)です。新共同訳聖書では、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と記されています。この聖句にあるように、主にあっていつも喜んで歩んでいきたいと願い、このテーマと聖句を選ばせていただきました。
今朝は、フィリピの信徒への手紙の第4章2節から9節までをお読みしましたが、全体をお話するのではなく、年間聖句である4節の「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」を中心にお話ししたいと思います。
1 創造主である神の御心
昨年の9月に、大会の歴史資料編纂委員会が、神戸改革派神学校で開かれました。その日は、第二学期の開講講演会のある日で、久しぶりに神学校のチャペルで、神学講演を聴くことができました。講師は、東関東中会の千城台教会牧師で、神戸改革派神学校の元校長の市川先生でした。その講演の中で、市川先生が、「創造されたこと自体が恵みである」と言われました。「創造されたこと自体が恵みである」。この言葉が、私の心に留まり、いろいろことを考えました。そのことが、年間テーマにつながりますので、お話ししたいと思います。「創造されたこと自体が恵みである」。このことは、もう少し平たく言うと、「生まれてきたこと自体が恵みである」と言えると思います。子どもが親に産んでくれたことを感謝する。そのとき、その子どもは、自分がその親のもとに産まれてきたことを恵みとして認識しているのだと思います。私たちが神さまに、創造されたこと、今日まで生かされてきたことを感謝するとき、私たちも神さまに造られたこと、生かされていることを恵みとして認識していると思うのです。そして、そのことを創造主である神さまは、私たち人間に望んでおられることではないかと思います。親が子供に望むことは何でしょうか。いろいろとあると思いますが、その一つは、子供が毎日を喜んで生きることではないかと思います。生きていること自体を喜んでいること。それは親が子供に望むことであると思います。神さまも同じではないでしょうか。私たちを造られた神さまが望んでおられること、それは私たち人間が創造され、生かされていることを喜ぶことだと思うのです。このことは、今朝の御言葉、第4章4節の「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」という御言葉の前提と言えます。なぜ、パウロは、「主にあっていつもに喜びなさい。もう一度いいます。喜びなさい」(聖書協会共同訳)と記したのでしょうか。それは、主にあっていつも喜ぶことが、創造主である神さまの御心であるからです。
2 主にあっていつも喜ぶ
パウロは、「主において常に喜びなさい」と記しました。「主において」という言葉が大切です。「主において」の「主」とは、「主イエス・キリスト」のことです。ですから、「主において」とは、「主イエス・キリストにおいて」「主イエス・キリストにあって」、「主イエス・キリストに結ばれて」ということです。パウロは、主イエス・キリストを抜きにして、「いつも喜びなさい」とは言っていません。それは無理なことであるからです。はじめの人アダムが堕落して以来、この世にはあらゆる悲惨と苦しみがあるからです。しかし、主イエス・キリストにあるならば、私たちはいつも喜ぶことができるのです。この世にはあらゆる悲惨と苦しみがあるにもかかわらず、私たちは、主イエス・キリストにあっていつも喜ぶことができるのです。それは、主イエス・キリストが世に既に勝っている御方であるからです。ヨハネによる福音書の第16章33節で、イエスさまは弟子たちにこう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。世に勝っているイエスさまに、死に勝利された復活のイエスさまに結ばれて、私たちはいつも喜ぶことができるのです。「あなたがたは主にあっていつも喜びなさい」という命令は、「あなたがたは主にあっていつも喜ぶことができる」という事実に基づいています。「あなたがたは主にあっていつも喜ぶことができる。だから、あなたがたは主にあっていつも喜びなさい」とパウロは記しているのです。「主にあっていつも喜びなさい」という御言葉は、「主にあっていつも喜ぶことができる」という恵みの事実を前提にしているのです。
先程、私は、「私たち人間が造られたことを喜んで生きることが、創造主である神さまの御心である」と申しました。しかし、そのことは、アダムにあって良き創造の状態から堕落した人間、あらゆる悲惨と苦しみの中に生きる人間には不可能なことになりました。そのことは、ヨブ記の第3章を思い起こすならば、よく分かります。財産と子供たちを失い、ひどい皮膚病にかかったヨブは、自分の生まれた日を呪って、こう言うのです。「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく/光もこれを輝かすな」。私たちもこのヨブの気持ちを知らないわけではないと思います。順調なときは、生まれたことを喜ぶことができるかも知れません。けれども、苦しみの中にあるとき、私たちも生まれた日を呪うのです。自分を産んでくれた親に対して、「なぜ、自分を産んだのか」と愚かなことを言うのです(イザヤ45:10「災いだ、なぜ子供をもうけるのか、と父親に言い/なぜ産みの苦しみをするのか、と女に問う者は」参照)。そのような愚かなことを言うことがないように、神さまは、独り子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。神さまは、独り子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されることによって、私たちをあらゆる悲惨と苦しみから救い出してくださったのです。私たち人間は、イエス・キリストによって贖われることによって、創造され、生かされていることを喜ぶことができるようにされるのです。それゆえ、パウロは、「主にあっていつも喜びなさい」と記しているのです。
3 希望に基づく喜び
パウロが、「主にあっていつも喜びなさい」と記すとき、その喜びの根拠は、主イエスにあると申しました。十字架と復活の主イエス・キリストに結ばれていること、そこに私たちがいつも喜ぶことのできる根拠があるのです。そして、実際、このように記したパウロ自身が、主にあっていつも喜んでいたのです。このことは驚くべきことであります。なぜなら、パウロは、この手紙を記したとき、ローマの牢獄にいたからです。第1章13節と14節にこう記されています。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。このようにパウロは、キリストのゆえに監禁されていたのです。また、パウロは自分に死が迫っていることを感じていました。第1章21節から24節までにこう記されています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。また、第2章17節と18節でこう記しています。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」。ここでパウロは、自分が殉教の死を遂げることをほのめかしています。パウロは、自分が殉教の死を遂げることになろうとも、喜ぶと言うのです。それは、パウロがローマの信徒への手紙の第8章で記しているように、死もイエス・キリストとの交わりを引き裂くことはできないからです。むしろ、私たちキリスト者は、死を通して、イエス・キリストとの親しい交わりに入れられるのです。ですから、パウロは、「わたしにとって、・・・死ぬことは利益なのです」と記すことができたのです。このように見てきますと、パウロの喜びが希望に基づく喜びであることが分かります。パウロは、第3章8節と9節でこう記しています。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」。さらに、パウロは第3章20節と21節でこう記しています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。このように、パウロは、キリストへの信仰によって、神さまの御前に正しい者とされること。キリストによって、栄光の体へと変えられることに希望を置いていたのです。そして、パウロは、この希望に基づいていつも喜んでいたのです。キリストへの信仰によって、神さまの御前に正しいとされること。キリストと同じ栄光の体へと変えられること。これらの希望は、パウロだけに与えられているものではありません。イエス・キリストに結ばれている私たちにも同じように与えられているものです。ですから、私たちもパウロと同じように、主にあっていつも喜ぶことができるのです。
結 喜ぶことは安全なこと
「主において常に喜びなさい」。このことを、パウロは、第3章1節で既に記していました。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」。こう記した後で、パウロは、「あの犬どもに注意しなさい」と偽教師たちへの警告の言葉を記します。ここで注意したいことは、「喜ぶことが、私たちにとって安全なことである」ということです。それは、私たちの喜びが、主イエス・キリストにある喜びだからですね。主イエス・キリストに結ばれていることを忘れて、主イエス・キリストにある希望を見失うとき、私たちは喜ぶことができなくなります。それは、私たちがキリスト者として、危険な状態にあるわけです。しかし、私たちがキリストに結ばれた者として、キリストにある希望に心を向けるならば、私たちはいつも喜ぶことができるのです。それは必ずしも、いつもニコニコしていられるということではないと思います。けれども、私たちの心の奥底、その底流には、いつもキリストに結ばれた者としての喜びが流れているのです。