ステファノの殉教 2007年2月11日(日曜 朝の礼拝)
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ステファノの殉教
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 7章51節~8章1節
聖書の言葉
7:51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。
7:53 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。
7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、
7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
8:1 サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。使徒言行録 7章51節~8章1節
メッセージ
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今回の説教の備えをしながら、朝から晩までパソコンに向かいながら、全く原稿が書けないという一日を過ごすことになりました。もちろん、1頁、2頁は書けるのですけども、そこから続かなくて、すぐ書き直してしまうのです。よくテレビなどで小説家が、原稿を書いては丸めてゴミ箱に捨て、また書いては丸めてゴミ箱に捨てるといった場面を目にしますけども、それとまったく同じことでありました。書き始めても行き詰まってしまうので、また初めから書き改めてみる。それを10回くらい繰り返しました。もう最後には、泣きたくなるような気持ちでありました。しかし、それでも、次の朝に目覚めると、不思議に神様から新しい視点が与えられていたわけであります。この視点をもって読まなければ、このところは正しく読めない、正しく理解できないというそういう視点であります。今朝は、その視点についてはじめにお話ししたいと思います。
結論から申しますと、最高法院で語られたステファノの言葉は、演説、弁明、説教といろいろと言うことができますけども、特に、わたしは説教としてこれまで語ってきたのでありますけども、しかし、このステファノの言葉を説教として読むと、おそらく今朝の御言葉は正しく読むことはできないだろうと思います。確かに、ステファノの言葉は説教と言えますけども、今朝の御言葉は、ステファノの言葉を説教として読んでしまうと読み違えてしまうのではないかと思うわけです。それでは、ステファノの言葉を何であると読むのか。それは、ステファノの言葉を、証し、信仰の告白として読むということであります。最高法院で語られたステファノの言葉を、説教というよりも、自分が旧約聖書をどのように読んでいるかという信仰の告白として読むのです。もちろん、これはステファノ個人に限られるものではありません。ステファノの属する初代教会が、旧約聖書をどのように読んでいるかの信仰の告白なのです。ですから、このところは初代教会が旧約聖書をどのように読んでいたかを知るための貴重な資料であると言えるのです。
そもそも最高法院に引いていかれたステファノは、偽証人によって次のように訴えられたのでありました。6章の13節です。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向に止めようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」
ここで、ステファノは、ただ神殿と律法をけなす者として訴えられているのではありません。ステファノが「あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。」と言った、とありますように、ナザレのイエスが、神殿と律法とどのような関わりにあるのか。さらには、ナザレのイエスとはどのような方なのか。これを言い表すことが、ここで求められていたのです。
ナザレのイエスが、神殿と律法をどのように変えるのか。これを言い表すために、ステファノは、アブラハムからはじまるイスラエルの歴史の一大展望図を描いたのです。それによって、神様の救いのご計画がどのように進展して行ったのか。そして、それがメシアであるイエスにおいて実現したことをステファノは語っているわけであります。神様がアブラハムに言われた「この場所でわたしを礼拝する」という約束は、人の手に造られた神殿によって実現したのではなくて、イエス・キリストにおいて、その体である教会において実現した。これがステファノの証し、信仰の告白であります。
ステファノの語った言葉を証し、信仰告白と理解するとき、今朝の御言葉の背景にあるものが、ルカによる福音書12章4節から12節までのイエス様の御言葉であることが分かります。そこにはこう記されています(新約131頁)。
友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺して後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている。言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。
イエス様は、11節で、「会堂や役人、権力者のところに連れていかれたときは」と言われました。まさに、ステファノは、ユダヤの権力者である最高法院へと連れていかれたのです。そして、そこで、ナザレのイエスが何者なのか、言い表すことを求められたのであります。このイエス様の御言葉を、おそらく、ステファノも知っていたのではないかと思います。そして、このイエス様のお言葉が、敵陣の中にただ一人というステファノの心を支えたのではないかと思うのです。
使徒言行録に戻ります。7章51節以下で、ステファノは最高法院の罪を大胆に告発しております。この罪の告発から、ステファノの語った言葉は、最高法院を悔い改めへと招く説教と理解されるわけでありますけども、証し、信仰告白という視点で、もう一度このステファノの言葉を読み直すときに、ここで、ステファノが一番いいたいことは、預言者が預言してきた正しい人、イエスについてなのだということが分かります。しかし、正しい方であるイエスについて語るとき、ステファノはどうしても最高法院の罪に触れなくてはならなかったわけです。それは彼らがイエス様を裏切る者、殺す者となったからであります。さらには、イエス様の遣わされた使徒たち、弟子たちをも迫害する者たちであったからです。このようにして、ルカによる福音書11章47節から51節のイエス様の御言葉が現実のものとなっているのです。そこで、イエス様は律法の専門家を非難してこう言われました。(新約130頁)。
「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それはアベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。」
49節に、「だから神の知恵もこう行っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』」とありますが、これは、イエス様が遣わされる初代教会を立てた、新約時代の預言者や使徒たちのことです。つまり、イエス様は、あなたがたは預言者の墓を建てることによって、自分は先祖たちの仕業と関わりないかのように思い込んでいるが、そんなことよりも、わたしとわたしが遣わす者たちを迫害することによって、預言者たちを殺した先祖たちに連なる者であることを証ししていると言われたのでありました。ステファノが「あなたがたの先祖が逆らってったように、あなたがたもそうしているのです。」と語るとき、このイエス様のお言葉と同じことを言っているわけです。
使徒言行録に戻ります。これまで、ステファノは、「わたしたちの先祖」と語り、神に背き続けてきたイスラエルの歴史を自らの歴史として語って参りました。ですから、ここでステファノが「あなたがたの先祖がさからったように」と言うとき、自分は違うということを言いたいのではありません。そうではなくて、ここでステファノが、「あなたがたの先祖」と言ったのは、それは最高法院の議員たちが、預言者を殺した先祖たちと自分たちは関係がないと考えていたからであります。マタイによる福音書23章30節にありますように、最高法院の議員でもあった律法学者たちは、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかっただろう』なとど言っていたのです。しかし、ステファノは言うのです。預言者を殺したのは、他ならないあなたたちの先祖だと。そして、あなたたちは、預言者と同じことをしているのだと。彼らは、正しい人イエスを裏切り、殺すことによって、自分たちが預言者を殺した先祖の子孫であることを明らかにしたのです。
52節に「その方を裏切る者、殺す者となった」とあるように、ここで、「裏切る者」と書いてあるのは意味深いことだと思います。裏切るということは、神様との約束を、神様からの信頼を前提としています。神様は、アブラハムとの契約を実現するために、愛する御子イエスを時満ちてこの地上にお遣わしになりました。本来ならば、聖書の専門家である律法学者や祭司たちが、最高法院の議員が、イエス様の言葉に耳を傾けてもよかったはずであります。聖書に詳しい彼らこそが、聖書が証しするイエス様の弟子となってもよかったはずでありました。けれども、実際は、彼らはイエス様を裏切る者、殺す者となった。イエス様がルカによる福音書の20章でお語りになった「ぶどう園と農夫のたとえ話」のように、彼らは愛する独り子イエス様を殺すことによって、イスラエルというぶどう園を自らのものにしようとしたのでありました。そのようにして、彼らは神様との契約を、神様からの信頼を裏切る者となったのです。それゆえ、ステファノは、はっきりと語るのです。天使たちを通して律法を受けた者なのに、あなたたちはそれを守っていないと。預言者を殺し、律法に背き続ける、その行き着く先がメシアを殺すという行為であったのです。ステファノは、律法をけなす者として訴えられていましたけども、しかし、ステファノは、律法を守っていないのはあなたたちだと言い放ったわけです。
これを聞いた最高法院の人々は、激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりしたと記されています。それは、彼らが自分たちが、裁く立場から裁かれる立場へといつの間にか変わっていたことに気づいたからです。律法の裁き手であると自負する自分たちが、ステファノによって、律法を守らない者として訴えられたからでありました。また彼らにとって、自分たちが神の名によって処刑したナザレのイエスを、神が復活させ、メシアとなされたという主張は、とうてい受け入れられない主張でありました。なぜなら、イエスがメシアであることを認めることは、自分たちの権威を否定することであったからです。
そのような怒り狂う最高法院の議員をよそに、ステファノは聖霊に満たされ天を見つめておりました。すると、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったのです。このステファノの言葉のはじめには、「見よ」と訳される言葉が記されています。ですから、新改訳聖書は、このところを「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と訳しています。わたしの持っている何冊かの英語の聖書を見ましても、このステファノの言葉は、「Look!」「見よ」という言葉で書き出されています。この「見よ」という言葉は、私はとても大切な言葉ではないかと思います。それは、この言葉によって、この光景がステファノの目にずっと見えていたものではなく、このときに初めて彼の前に現れたことを教えているからです。本来、人が見ることのゆるされない、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様とを見つめて、彼は感極まって、「見よ、天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのは見える」と言ったのであります。
ここで、注目すべきは、イエス様が神の右に座っていたのではなくて、「立っていた」と記されていることです。使徒信条で、私たちが「天に昇り、父なる神の右に座したまえり」と告白するように、教会は、神の右に座すイエス・キリストを告白してきました。しかし、ここで、ステファノが見たイエス様は立っていたと言うのです。なぜ、イエス様はこのとき立っておられたのか。それには大きく2つの解釈があります。1つは、ステファノを天へと迎え入れるために、イエス様はお立ちになられたという解釈です。ステファノがイエス様について立派に証しした。それに応えるかのように、イエス様は立ち上がって、ステファノを迎え入れようとしたというのです。そして、2つ目の解釈は、イエス様は、父なる神にステファノのことを、弁護するために立っていたとする解釈であります。先程お読みしたルカによる福音書12章8節にこういうイエス様の御言葉がありました。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」このお言葉の通り、イエス様は、ステファノを父なる神に、あれはわたしの仲間、愛する友であるととりなしていたのではないかというのです。この2つはどちらも、大変豊かな解釈でありますが、私の解釈はもっと単純でありまして、私はこのときイエス様が立ち上がって、ステファノを励ましておられたのではないかと思います。イエス様が最高法院で裁判を受けるステファノをご覧になって思わず立ち上がり、身を乗り出して「ステファノ、がんばれ」と叫んでいるのではないか、と思うのです。そして、ステファノは、この天の幻を、この時まで、目で見ることはできませんでしたけども、しかし、この裁判が始まる前から、ステファノは、霊の眼によって、信仰によって、この目に見えない光景をまるで見えるかのように見つめていたのではないかと思うのです。それゆえ、最高法院に立つステファノの顔はさながら天使のような顔のようであったと記されているのであります。ですから、イエス様は、ステファノが最高法院に立ち、イエス様について証ししているその間、ずっと立ち続け、ステファノを励まし続けておられたのではないかと思うのです。ステファノの信仰告白を、天におられるイエス様が支え続けてくださった。そして、ステファノが、必ず天に迎え入れられることを教えるために、天の光景を垣間見させてくださったのであります。
しかし、このような素晴らしい光景も、最高法院の議員たちにとっては、神を冒涜する言葉にしか思えませんでした。人々は大声を上げて叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかったのです。この大声を上げて、耳を手でふさぐという身振りは、これは神を冒涜する言葉から自分の身を守るための身振りであったと言われます。神様を冒涜する言葉を聞くまいと思い、人々は大声をあげ、耳を手でふさいだのです。しかし、本当にステファノの言葉は神を冒涜する言葉であったのでしょうか。そうではありません。むしろ、このことは、ステファノが言っているように、彼らが「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない」ということをよく表しているのです。心と耳に割礼を受けていないとは、心と耳が神様に対して開かれていないということです。それゆえに、神様の言葉を神様の言葉として聞くことができないということであります。耳をふさいで、大声で叫ぶと、一体何が聞こえるか。そこで聞こえてくるのは自分の声だけであります。そのように彼らは、神の声に耳を閉ざし、自分の声だけに聞き従うのです。自分だけの声だけに聞き従うとき、その心はかたくななものとなるのです。そして、自分たちに命の言葉を、まさに命懸けで伝えてくれたステファノを殺害してしまうのです。38節で、ステファノは、モーセが天使から命の言葉を受けたと語りました。また、53節でも、ステファノは、あなたがたは天使たちを通して律法を受けたのに、と語りました。そして、聖書は、最高法院でイエスについて証しするステファノの顔が、さながら天使のようであったと記しているのです。最高法院の議員たちは、今、ステファノという天使を通して、命の言葉を受けているのです。しかし、彼らはそれを聞こうとはしない。それどころか、ステファノを殺してしまう。なぜ、最高法院の人々は、ステファノの言葉にそれほど過剰に反応したのでしょうか。それは、ここで、ステファノがイエス様を「人の子」と呼んでいるからではないかと思います。この「人の子」という名称、イエス様が御自分をあらわすのに用いた名称であります。例えば、イエス様はザアカイの家を訪れたとき、「人の子は、失われたものを探して救うために来たのである。」と仰せになりました。しかし、聖書において、イエス様の口以外から、イエス様のことを「人の子」と呼んでいるのは、ここが唯一の箇所なのであります。誰もイエス様のことを「人の子」とは呼ばなかったわけです。ただ、ここでステファノだけが、イエス様を「人の子」と呼んでいるのです。この「人の子」という名称は、ダニエル書7章に記されている、「日の老いたる者」から、権威、威光、王権を受けるメシア称号の一つであります。しかし、おそらく、このとき最高法院の議員たちが思い起こしたのは、ダニエル書よりも、むしろ数ヶ月、あるいは数年前に聞いた、イエス様のお言葉ではなかったかと思います。イエス様は、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい。」と詰め寄る最高法院の議員たちに対してこう仰せになりました。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」
ステファノの「見よ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」という言葉を聞いたとき、議員たちは、イエス様のあの御言葉を思い出したのです。そして、ステファノが目にしているという光景こそが、彼らが正しい方であるイエスを裏切り、殺したという彼らの罪の確かな証拠と言えるのです。それゆえ、彼らは、その言葉に耳をふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかったのです。
このステファノの殺害についてでありますが、これが怒りに駆られた者たちによるリンチであったのか、それとも法にのっとってなされた処刑であったのかは、議論のあるところであります。58節を見ますと、「都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。」とありますから、どうやら、怒りに駆られていても、法の手続きを踏まえた処刑であったようです。石打の刑は、これは神を冒涜する者への処刑方法でありました。イエスをメシアであると証ししたステファノは、最高法院に、神を冒涜した者として処刑されたのです。
人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」と言いました。この言葉は、イエス様の十字架の言葉を思い起こさせるものであります。イエス様は十字架において、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫ばれました。それと同じように、ステファノも「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」と祈ったのです。ただ、ここで違うことは、イエス様が「父よ」と祈られたのに対し、ステファノは「主イエスよ」と祈っていることです。このことは、主イエスが、神と等しいお方であり、イエスこそが、命への導き手であるということの信仰の告白であります。主イエスこそが、私たちが安心して自分の霊をゆだねることのできるお方なのです。
それから、ステファノはひざまづいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びました。この言葉も、十字架のイエス様の言葉を思い出させるものであります。イエス様は、自分を十字架につける者たちのためにこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」このイエス様の言葉をなぞるように、ステファノは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだのです。ここでも、ステファノは、主イエスに祈っています。ステファノは、主イエスこそが、本当の裁き主であることを知っていたのです。ステファノは、その主イエスのおられる天上の法廷を見つめながら、地上の法廷において、恐れることなく、イエス・キリストを証ししたのであります。そして、処刑されている間も、自らの霊を主イエスにゆだね、主イエスに彼らの罪の赦しを祈り願うことによって、イエス・キリストがどのようなお方であるかを証ししたのであります。証し人、証人という言葉、マルテュスという言葉でありますが、これは後に殉教者という意味を持つようになりました。イエス・キリストを証しすることは、まさに命がけであったということであります。そして、「殉教者の血は教会の種子である」と言われるように、古代教会の信者たちは、自らの命をもって主イエスを証ししたのでありました。そして、ステファノは、キリスト教会において最初の殉教者となったのであります。ですから、ステファノが見た天の光景は、ステファノのためばかりではありません。イエス様は、ステファノに続いて殉教していく者たちのためにも、この天の光景をステファノに表されたのです。このことが聖書に記されているはそのためであります。ステファノだけが、天の光景をみることができた。ステファノはいいなぁということでは終わらない。それは、イエスの証し人として立てられている私たちのためにも記されているのです。私たちが、命をかけてでも、主イエスを証しし続けるようにと、私たちが与る希望として、天の光景がここに描かれているのであります。古代教会の多くの人々が、この光景を、自分も見ることができると信じて、迫害を耐え忍び、殉教の死を死んでいったのです。
聖書は、ステファノを「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」と紹介しておりました。ステファノは、聖霊だけではなく、信仰にも満ちていたのです。そして、今朝の御言葉は、イエスを信じる信仰とは、何なのかを私たちは教えてくれるのであります。自分のちっぽけな信仰を恥ずかしく思うほどに、私たちはステファノの生き様を、また死に様を通して、信仰とは何かを改めて教えられるのです。
このステファノの叫び、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」という叫びは、何だか空しい叫びのようにも思えます。あまりにも悲しい叫びのように思えるのです。しかし、後に聖書は、このステファノの祈りが、空しく地に落ちなかったことを教えるのであります。そのステファノの叫びを聞いた、サウロが後に使徒パウロとなり、イエス・キリストを信じ、福音を宣べ伝える者に変えられるのです。このステファノの意志を、パウロが受け継ぐのであります。教父であるアウグスティヌスは、「このステファノの祈りがなければパウロは回心しなかったであろう」と語っております。
主イエスはヨハネによる福音書12章24節から26節でこう仰せになりました(新約192頁)。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところにわたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
ステファノという一粒の麦が地に落ちて死んだことにより、パウロがキリストを信じる者となり、そして数え切れないほどのキリストを信じる者たちが生まれたのであります。私たちの教会も、このステファノの血の上に、立てられていることを決して忘れてはならないと思います。