神殿とキリスト 2007年2月04日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

神殿とキリスト

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 7章44節~50節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:44 わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。
7:45 この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。
7:46 ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、
7:47 神のために家を建てたのはソロモンでした。
7:48 けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。
7:49 『主は言われる。「天はわたしの王座、/地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。
7:50 これらはすべて、/わたしの手が造ったものではないか。」』使徒言行録 7章44節~50節

原稿のアイコンメッセージ

 使徒言行録の7章に記されているステファノの説教は、大変長いものですが、大きく4つに区分することができます。第一の区分は、2節から16節までで「族長時代について」、第二の区分は、17節から43節までで「モーセと律法について」、第三の区分は、44節から50節までで「幕屋と神殿について」、そして第四の区分は、この説教の結論であります「最高法院の罪について」であります。この区分に従って説教して参りまして、今朝は第三の区分44節から50節より、お話しをいたします。 

 ステファノは、神殿と律法をけなす者として、最高法院に引き立てられたわけでありますが、今朝の御言葉では、その神殿について語っております。しかし、神殿そのものから語り出すのではなく、その前身である証しの幕屋から語りだすのです。前の節の43節に、「お前たちは拝むために造った偶像、モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を担ぎ回ったのだ。」とありますが、ここで「御輿」と訳されている言葉は、44節で「幕屋」と訳される言葉であります。幕屋は、天幕、テントのことでありますから、その骨組みと、貼ってある幕をたたんで、担いで持ち運んだわけですね。ステファノは、先祖たちがモレクの幕屋を担ぎ回ったと語りましたけども、しかし、主なる神様はちゃんと荒れ野の民に証しの幕屋をお与えになっていたのであります。証しの幕屋という言い方は、これは神様の指で記された二枚の板が納められている神の箱に由来する呼び名であります。つまり、神様の御臨在を証しする、神様がイスラエルと共にいることを証しする幕屋ということであります。そして実際に、モーセはその幕屋で主なる神と語らい、まみえることができたのです。ですから、この幕屋は、臨在の幕屋、会見の幕屋とも言われます。そして、この幕屋は、ステファノの言うように、見たままの形い造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものであったのです。つまり、モーセは、幕屋の幻を見、神様から示されたサイズ、寸法に従って、それに忠実に臨在の幕屋を作ったのであります。そして、この幕屋は、荒れ野の時代だけではなく、約束の地カナンに入ってからも無くなることはなかったのです。モーセの時代から、ヨシュアを経て、ダビデの時代までそこにあったのであります。

 45節に「ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき」と記されています。かつて神は、アブラハムに、「いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる」と約束なさいましたが、神はその約束をヨシュアの手を通して実現なされたのです。一つの土地に留まるようになると、当然、人々の生活というものも変わっていきます。今まで、テント生活をしていたのが、家を建てて住むようになるわけです。しかし、神様の住まいと考えられていた場所は、幕屋のままでありました。それでは、その幕屋が、いつ神殿になったのか。46節、47節にこう記されています。「ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした。」

 ダビデは、自分がレバノンの王宮に住んでいるのに、神の箱を幕屋に置いたままにしておくのに、引け目を感じておりました。また、ダビデ、ソロモンの時代は、イスラエル12部族からなる統一王国時代でありましたから、エルサレムに神殿を建てることによって、イスラエル民族の結束を強めたかったのだと思います。けれども、ステファノは、はっきりと断言するのです。「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みにはなりません。」このことは、実は神殿を建てたソロモン自身も語っている言葉でもあります。列王記8章に、神殿奉献に際してのソロモンの祈りが記されていますが、その27節から30節にこう記されています(旧約542頁)。

 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈り求める願いを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこのところに向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。

 ここで、ソロモン自身がはっきりと、「天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てた神殿など、なおふさわしくありません。」と語っております。そして、もちろん、大祭司をはじめとする最高法院の議員たちも、そのことを知っていたと思います。ですから、「神は天におられ、神殿に住んでいるのではない」ということは、天地を造られた神を信じるイスラエル人であるならば、誰も異存はなかったと思います。ただし、このステファノの言葉には、最高法院の罪を指摘する一つのトゲがあります。それは、神殿を「人の造ったようなもの」と言っていることです。これと同じ言葉が、前回学んだ41節に記されておりました。41節にこうあります。「彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。」ここで、若い雄牛の像、偶像が「手で造ったもの」と呼ばれています。その言葉をステファノは、ここで、神殿に対して用いているわけです。これは、エルサレム神殿を絶対視する最高法院の罪を鋭くえぐる言葉であります。ステファノは、ここで、かつて先祖たちが金の子牛という手で造られたものをまつって楽しんでいたように、今、あなたたちは金や銀で飾られた神殿をまつって楽しんでいるのだと語っているのです。神殿を絶対視するあなたたちこそ、実は偶像崇拝者なのだとステファノは最高法院の罪を告発しているのであります。

 さらに、ステファノは、預言者の言葉を引用して、彼らの間違いを明らかにいたします。48節の後半から。

 「これは預言者も言っているとおりです。『主は言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしに/どんな家を建ててくれるというのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。」』

 ここで引用されているのは、イザヤ書66章の御言葉であります。神様にとって天は王座、イスであり、地は足台であるならば、神様の上半身は天を突き抜けてしまいます。もちろん、神様は肉体を持たない霊であられますから、これは擬人法による表現であります。しかし、ソロモンが祈った「天も天の天もあなたをお納めすることはできない」という真理をたいへん生き生きと伝えております。また、このイザヤの言葉は、そもそも天と地に満ちるものは全て神様が造られたことを教え、神のために家を造るという人間の傲慢を打ち砕く言葉であります。神は、人間がお仕えしなければ、困ってしまうようなそのようなお方ではありません。むしろ、全てのものを造り、すべてのものを私たちに与えてくださるお方なのです。しかし、大祭司をはじめとする最高法院の議員たちはは、まるで自分たちがいなければ、神が何もできないようなとんでもない思い違いをしていたのであります。

 このイザヤ書の言葉をお読みいただくと、その内容は、先程お読みしたソロモンの祈りと大変似ていることに気づかれると思います。むしろ、イザヤの言葉ではなくて、神殿を建てたソロモンの祈りをここで引用したほうが良かったのではないかと思えるほどであります。しかし、ここで、ステファノは、どうしてもイザヤ書から引用したかったのだと思います。それは、イザヤ書が語っている大きな文脈を思い起こすときに、はじめて理解することができるのです。イザヤ書65章、66章は、主の救いの約束の実現について記していますが、今朝は65章の17節から66章の6節までをお読みしたいと思います(旧約1168頁)。

 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はいない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び踊るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる。彼らは家を建てて住み/ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることはない。わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける。狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしの神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。これらはすべて、わたしの手が造り/これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。牛を殺してささげ、人を打ち殺す者/羊をいけにえとし、犬の首を折る者/穀物をささげ、豚の血をささげる者/乳香を記念の献げ物とし、偶像をたたえる者/これらの者が自分たちの道を選び/その魂は忌むべき偶像を喜ぶように。わたしも、彼らを気ままに扱うことを選び/彼らの危惧することを来させよう。彼らは呼んでも答えず、語りかけても聞かず/わたしの目に悪とされることを行い/わたしの喜ばないことを選ぶのだから。御言葉におののく人々よ、主の御言葉を聞け。あなたたちの兄弟、あなたたちを憎む者/わたしの名のゆえに

/あなたたちを追い払った者が言う。主が栄光を現されるように/お前たちの喜ぶところを見せてもらおう、と。彼らは恥を受ける。都から騒がしい声がする。神殿から声がする。敵に報いを返される主の声が聞こえる。

 ここには、主なる神が創造される新しい天と新しい地の様子が当時の世界観の最高の祝福をもって描かれています。具体的には20節から23節がそれにあたります。また、24節の「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける」とありますように、神様との親しい交わりが実現しております。さらに、25節に、「狼と小羊は共に草をはみ」云々という言葉によって、アダムの堕落以前の良き創造の世界が回復されていることが分かります。このような神様の救いが実現した世界をイザヤは、65章、66章において描き出しているのです。これは、後にヨハネの黙示録へと引き継がれていった終末の幻であります。そのような神様の祝福、神様との交わりが実現した新しい天と新しい地の文脈の中で、ステファノの引用した御言葉は語られているのです。ですから、ステファノは、ただ神様は人の手で造った神殿などにお住みにはならないということだけを言いたいがために、このイザヤ書の御言葉を引用したわけではないのです。ステファノが語りたいことは、もっとスケールの大きいことであります。つまり、ステファノは、イエス・キリストにおいて、この新天新地の祝福がすでに到来していることを主張しているのです。ステファノの時代、このイザヤ書の65章、66章に描かれる新天新地の祝福は、メシアによってもたらされると信じられておりました。そして、ステファノは、そのメシアこそが、イエスであり、その祝福はすでに実現しているのだと告げているのです。ですから、ステファノがここで言いたいことは、メシアであるイエスが来られた以上、もう神殿そのものが無用になったということであります。イエス・キリストにおいて、神と民との親しい交わりが実現した今、もう神殿は無用になったのであります。もし、神殿という言葉を用いるならば、復活されたイエス・キリストこそが、まことの神殿となられたのです。イエス・キリストは、十字架の死から三日目に復活することにより、神と民とのまみえる、まことの聖所となられたのであります。

 ヨハネによる福音書の2章にイエス様が神殿から商人を追い出すというお話しが記されていますが、そこでイエス様は「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と仰せになりました。そして続けて、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」と記されています。イエス様が、御自身を全世界の罪を贖ういけにえとして献げられたことによって、イエス・キリストにおいて、神殿祭儀にまさる神との交わりが実現したのであります。神はダビデに、「あなたの子孫がわたしのために家を建てる」と仰せになりましたが、その子孫は、実はソロモンではなくて、イエス様であったのです。ダビデの子孫であり、神の御子でもあられるイエス・キリストが、十字架と復活によって、神と民とのまみえる、まことの聖所となられたのです。

 ステファノが引用したのは、66章の1節、2節前半だけでありましたけども、これを聞いた最高法院の議員は、それに続く言葉をも思い起こすことができたと思います。彼らは聖書の専門家でありますから、ここでステファノが何を言いたいのかに気がついたはずです。つまり、メシアの時代が到来しているにもかかわらず、いけにえを献げ続ける者は、偶像をたたえる者であるということを。そして、そこに神様の厳しい裁きが待っていることを。6節に「都から騒がしい声がする。神殿から声がする。敵に報いを返される主の声が聞こえる。」とありますよに、事実、エルサレム神殿は、紀元70年に、激しい叫びの中、ローマ帝国によって滅ぼされるのであります。このイザヤの預言を、最高法院は、イエスの弟子たちを語られる命の言葉に耳を塞ぎ、神殿祭儀にしがみつくことによって、現実のものとして行くのです。しかし、ここで、わたしが残念に思うことは、最高法院の議員が、ステファノが引用した2節後半の言葉に思いを向けなかったことであります。2節の後半にはこうあります。

 わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。

 神は、主イエスを通して、このような者たちに、御自分の霊を注ぎ、私たちをも生ける神の神殿としてくださるのです。「わたしはあなたがたと共にいる」という神の約束は、幕屋から神殿を通して、イエス・キリストにおいて、私たち一人一人のうちに実現されていくのです。神と民とのまみえる、まことの聖所となられた復活のイエス・キリストを信じるとき、私たちも主の霊を宿す、神の神殿としていただけるのであります。その恵みにおののきつつ、主イエスと共に生きる者でありたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す