モーセとキリスト 2007年1月28日(日曜 朝の礼拝)

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モーセとキリスト

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 7章17節~43節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:17 神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。
7:18 それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。
7:19 この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。
7:20 このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、
7:21 その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。
7:22 そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。
7:23 四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。
7:24 それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。
7:25 モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。
7:26 次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』
7:27 すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。
7:28 きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』
7:29 モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。
7:30 四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。
7:31 モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。
7:32 『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。
7:33 そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。
7:34 わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』
7:35 人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。
7:36 この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。
7:37 このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』
7:38 この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。
7:39 けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、
7:40 アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』
7:41 彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。
7:42 そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ、/お前たちは荒れ野にいた四十年の間、/わたしにいけにえと供え物を/献げたことがあったか。
7:43 お前たちは拝むために造った偶像、/モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を/担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たちを/バビロンのかなたへ移住させる。』使徒言行録 7章17節~43節

原稿のアイコンメッセージ

 前回に続いて、今朝もステファノの説教を読み進めて行きたいと願っております。このステファノの説教は、大変長いものですが、大きく4つに区分することができます。それは2節から16節までと、17節から43節までと、44節から50節までと、51節から53節までの4つに区分であります。主題ごとに分類すると、2節から16節までは、「族長たち」について、17節から43節までは、「モーセと律法」について、44節から50節までは「幕屋と神殿」について、51節から53節までは「最高法院の罪」についてそれぞれ記されています。前回は、2節から16節までの「族長たち」について学んだのでありますが、そこでステファノによって改めて確認されたことは、アブラハムをはじめとする族長たちが、ただ神の約束を信じて歩んだということであります。つまり、イスラエルの宗教の本質は、神の言葉に対する信頼、信仰であったのです。このイスラエルの宗教の本質を、先ず確認した上で、ステファノは続けて、「モーセと律法」について語るのです。 

 17節から22節をお読みします。

 「神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話しや行いをする者になりました。」

 神は、アブラハムに「いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる」と、また、「彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる」と、さらには、「彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く、その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する」と約束されました。その神の約束が実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がったのであります。ヤコブは75人の親族一同とエジプトに下ったわけですが、エジプトを脱出するときには、壮年男子だけで、60万人になっておりました。アブラハムの子孫は、エジプトの地において、部族から民族と呼べるほどまでに増え広がっていたのです。しかし、それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでありました。なぜなら、この王は、先祖を虐待して、乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしたからです。出エジプト記には、ヨセフを知らない新しい王が、次のように警告したと記されています。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」

 そのような危機意識から、エジプト人は、イスラエル人に強制労働を課して虐待したのでありました。しかし、それでも彼らは増え広がったので、「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」と乳飲み子の殺害を命じたのであります。子孫がことごとく殺されてしまうことは、民族存亡の危機でありました。そして、そのような時に、モーセが生まれたのであります。モーセは神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、もはや隠しきれなくなり、ナイル河畔の葦の茂みの間に置かれました。そして、そのモーセをエジプトの王ファラオの王女が拾い上げたのです。彼女はモーセを自分の子として育てたと記されていますが、出エジプト記を見ますと、その子の姉が、王女に「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んできましょうか」と申し出て、その子の実の母が、乳母として、その子が大きくなるまで引き取ったと記されております。このような不思議な神様の導きによって、モーセは殺されることなく、乳離れする3歳頃までイスラエル人としての父の家でイスラエル人としての教育を受けることができたのであります。そして、王女の家に迎え入れられると、エジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者となったのです。このようにして、「あなたの子孫は外国に移住し、虐げられる」という預言が実現し、また「あなたの子孫はわたしが救い出す」という神の約束がモーセの誕生と成長によって、着々と準備されていったのです。

 23節から29節をお読みします。

 「四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『たれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』モーセはこの言葉を聞いて、逃げだし、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。」

 モーセは、エジプトの王女の子として育てられたのですが、自分がイスラエル人であることを忘れることはありませんでした。モーセは、イスラエル人を虐げられているのを見て心を痛める者であったのです。そして、ついに、四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ったのです。モーセは、イスラエル人が虐待を受けているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ちました。それは、神が自分を通して兄弟たちを救おうとしておられると考えたからであります。先程も申しましたように、モーセという人は、神様の導きにより、ユニークな歩みをして参りました。モーセは、イスラエル人でありながら、エジプトの王女の子として育てられたのです。おそらく、彼はそのことの意味を神様に祈り尋ねつつ、深めていったのではないかと思います。なぜ、自分は生き残ることができたのか。なぜ、自分は、イスラエル人でありながら、エジプトの王女の子として育てられたのか。そのことの意味を神様に問い、与えられた結論が、神が自分を通して兄弟たちを救おうとしておられるということであったのです(エステル記4:14を参照)。そして、モーセは、そのことを兄弟たちも理解してくれると思っていたのです。けれども、そうではないということが、その次の日の出来事によって明かとなるのであります。次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとしてこう言いました。「君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。」ここには、争う者の仲をとりもつ仲介者、仲保者としてのモーセの姿が描かれています。しかし、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばしてこう言ったのです。「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。」モーセはこの言葉を聞いて逃げ出した、と記されています。モーセは、イスラエルの民に受け入れられず、また、そのことが知られた以上、もうエジプトの宮殿に帰ることもできず、ミディアン地方で、寄留の民となったのです。このように、イスラエルの人々は、モーセを拒否したのでありました。そして、モーセは、ミディアン地方に身を寄せている間に、結婚をし、二人の男の子をもうけました。それは、ささやかな暮らしでありましたが、モーセにとって平穏な日々でありました。しかし、そのモーセを再びエジプトへと向かわせる出来事が起こるのです。

 30節から35節をお読みします。

 「四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようはとしませんでした。そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、またその嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」

 40年が経ち、80歳になったとき、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。柴が燃えているのに、その火は燃え尽きない。モーセはそれを不思議に思って、もっとよく見ようと近付きました。そのとき、モーセは主の声を聞いたのです。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」モーセは恐れおののいて、もうそれ以上見ようとはしませんでした。すると、主はこう仰せになりました。「履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。」シナイ山に近い荒れ野であっても、主が御臨在されるならば、そこは聖なる土地なのであります。エルサレムではなくても、主が御自身を現してくださる場所ならば、そこが聖なる土地なのです。さらに、主はモーセにこう仰せになります。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。」人々が「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」と言って拒んだモーセを、神は、柴の中に現れた天使の手を通して、指導者または解放者としてお遣わしになったのです。このモーセについての記述を読むとき、私たちは、主イエスのことを思わずにはおれません。使徒ペトロは、ソロモンの回廊の説教において、こう語っています。使徒言行録の3章13節から15節です(新約218頁)。

 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、そのしもべ僕イエスに栄光を与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちはこのことの証人です。」 

 かつて、先祖たちがモーセを拒んだように、イスラエルの民は、神が遣わされた命の導き手であるイエスを拒んだのです。

 7章36節から41節までをお読みします。

 「この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導きだしました。このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖の間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものを祭って楽しんでいました。

 ステファノは、ここで、モーセを「この人」と呼び、モーセの働きを書き連ねています。37節には「このモーセ」と記されていますが、元の言葉を見ますと、「この人」となっています。36節に「この人」とあり、37節にも「この人」とあり、38節にも「この人」と、3度に渡って「この人が」とたて続けに語られているのです(口語訳聖書を参照)。ステファノは、イスラエルの民が拒絶したまさに「この人が」と強調して語っているのです。

 モーセはエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。モーセは、エジプトにおいて10の災いのしるしを行い、紅海では、海を二つに分け、荒れ野では、天からのパン、マナを降らせるなど様々な不思議な業としるしを行いました。そして、同じことが、最高法院がメシア失格として拒んだイエスについても言えるのであります。イエス様は、様々な病を癒し、悪霊を追い出し、目の見えない人を見えるようにし、死人さえもよみがえらせました。また、嵐を静め、5つのパンと2匹の魚で、五千人以上もの人を養われたのであります。神は、イエスを通して行われた不思議な業としるしとによって、この方こそ神から遣わされたメシアであることを証しなされたのでありました(2:22)。そして、今も、使徒たちが行う不思議な業を通して、主イエスが確かに復活し生きておられることを証ししておられるのです。

 また、モーセはイスラエルの子らに「神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。」と言いました。使徒たちによれば、このモーセのような預言者こそ、イエス様でありました(3:22)。また、イエス様御自身も、ヨハネによる福音書5章46節でこう仰せになりました(ヨハネ5:46)。「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。」

 このように、モーセを信じることと、モーセが預言したイエス様を信じることは、一つのことであると言えるのです。

 さらに、モーセは、荒れ野の集会において、神と民との間に立ち、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのでありました。

 ここで、「集会」と訳されている言葉は、ふだん「教会」と訳される「エクレーシア」という言葉であります。ステファノは、自分たちの起源、原風景を、荒れ野の集会、荒れ野のエクレーシアに見ているのです。そこで、モーセがしたことは、神と民との間に立って、命の言葉を受けるという、仲介者の働きでありました。ここで、「シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖の間に立って」とありますように、この言葉の背後にありますのは、シナイ山で授かった十の言葉、十戒であります。その十戒に代表される律法が、ここで「命の言葉」と言われているのです。さらに、ここで注目すべきは、「先祖たちに伝えてくれた」とは言わずに、「わたしたちに伝えてくれた」と語っていることであります。モーセの言葉は、先祖だけではない、今、生きている私たちに語られている言葉なのであります。なぜなら、それは、今も生きて働いておられる栄光の神の言葉であるからです。ここにきて、ステファノがモーセと律法をけなすものではないことが明かとなったと思います。ステファノは、モーセと、彼を通して与えられた律法について正しく語ることによって、自分が律法をけなすものではないことをここに証明したのです。

 しかし、それだけに留まらず、ステファノはここでも主イエスのことを思い浮かべながら、モーセと主イエスを重ねるようにして語っています。ステファノは、律法を「命の言葉」と呼びましたが、牢獄から12使徒を解放した天使によれば、イエス・キリストの福音こそ、「命の言葉」でありました(5:20)。つまり、律法もイエス・キリストを指し示すものであることがここでは暗示されているのです。そして、先祖たちがモーセに従おうとせず、彼をしりぞけたように、最高法院の議員たちも、イエスに従おうとせず、使徒たちを通して語られる「命の言葉」をしりぞけ続けているのであります。

 この先祖たちの不従順が明らかになったのが、金の子牛の事件でありました。先祖たちは、エジプトをなつかしく思い、アロンにこう言いました。「わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。」金の子牛の出来事は、出エジプト記の32章に記されています。彼らは、24章において、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」といい、雄牛の血を振りかけることによって、主と契約を結んだにもかかわらず、はやくも堕落したのです。シナイ山に登ったモーセを待ちきれなくなり、不安になった彼らは、金の子牛という目に見える保証を求めたのであります。ステファノは、ここで、「エジプトを懐かしく思い」と記しています。おそらく、金の子牛もエジプトでなじみのある神々の像であったのでありましょう。イスラエルの民は、偶像の家であるエジプトから、まことの神を礼拝する民として導き出されたにも関わらず、自らの楽しみのために偶像をつくり、「これこそあなたをエジプトの国から導きだした神々である」と宣言したのでありました。イスラエルの民は、その律法を与えられた当初から、神に背く者たちであったのであります。最高法院の議員たち、また、ステファノを訴えた者たちは、自分たちが律法を与えられた神の民であることを誇る者たちでありました。

自分たちは、アブラハムの子孫であり、モーセの弟子であると誇る者たちであったのです。けれども、その先祖たちの歴史を見るならば、それは神に背き続ける反逆の歴史でしかなかったのであります。アブラハムにはじまる神との関係が続いたのは、イスラエルの民が神に従順であったからでは決してありませんでした。それは、ただ神の忍耐と憐れみによるものであったのです。神の契約に対する誠実だけが、神とイスラエルの民との関係を繋ぎとめていたのです。

 42節から43節をお読みします。

「そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ、おまえたちは荒れ野にいた四十年の間、わたしにいけにえと供え物を/献げたことがあったか。お前たちは拝むために造った偶像、モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を/担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たちを/バビロンのかなたへ移住させる。』」

 ステファノによれば、偶像崇拝は、神の刑罰の原因であると同時に、神の刑罰そのものでありました。神は御自分を認めようとしない者たちを、無価値な思いへと引き渡されるのです(ローマ1:28)。ここで、「天の星を拝む」とありますが、これは後にイスラエルの王国時代に盛んであったものであります。金の子牛に見られる偶像崇拝は、その後のイスラエルの歴史においても無くなることはなく、むしろ盛んに行われていたのです。その罪を暴き、神に立ち帰るように呼びかけたのが、預言者たちでありました。ここでステファノは、預言者アモスの言葉を引用しております。このステファノの言葉によれば、荒れ野の40年間においても、イスラエルの家は、主なる神にいけにえと供え物を献げたことはありませんでした。もちろん、彼らは動物犠牲をささげておりましたけども、それは主なる神に献げていたのではないというのであります。それでは、一体に何にいけにえや供え物を献げていたのかと言いますと、お前たちは拝むために造った偶像、モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を担ぎ回っていたというのであります。これは、実際、荒れ野において、モレクの御輿やライファンの星を担ぎ回ったということではなくて、主なる神を礼拝しながらも、彼らは造られたものに常に心ひかれていたということであります。ちょうど、シナイ山において、先祖たちが、エジプトを懐かしんだように、彼らの心は造られたもの、目に見えるものにひかれ続けていたのです。そして、その礼拝は、神に仕えるため、神を喜ばせるためではなくて、自らを喜ばせるためであったのであります。それが「拝むために造った偶像」という言葉の意味するところであります。礼拝それ自体が目的化され、その対象である神が見失われるときに、その礼拝はもはや真の礼拝とは呼ぶことはできないのであります。そして、バビロンへの捕囚も、主なる神へのまことの礼拝が失われていたがゆえの、神の刑罰であり、神の訓練であったのです。

 ステファノは、今朝の御言葉を通して、イスラエルの歴史は、首尾一貫して、神に逆らう反逆の歴史であることを語ってきました。しかし、ここで注意したいことは、ステファノは、その反逆の歴史を自らの歴史として語っているということであります。新共同訳は記しておりますけども、39節の「先祖」という言葉の前には、「わたしたちの」という言葉が記されています。ステファノが今朝の御言葉において先祖と語りますとき、つねに「わたしたちの先祖」と語っているのです。ステファノ自身を含めた、わたしたちの先祖であります。ステファノは、自分は違うと、自分だけは高いところにおいて、イスラエルの反逆の歴史を語っているのではないのです。ですから、それを聞く私たちも、イスラエルの民の歩みを、自らの信仰の先祖たちの歴史として聞かなければならないのであります。自分のことを棚に上げて、聞いてしまってはいけないのです。まさしく、自分たちの歴史としてステファノの説教を聞かなければならないし、また、旧約聖書を読んでいかなくてはならないのです。そのとき、私たちは、自らの不従順を認めながら、ただ神の憐れみに頼るしか生きる道がないことを感謝をもって言い表すことができるのであります。そして、私たちに代わって、父なる神に全き従順を貫いてくださったイエス・キリストへといよいよ導かれるのであります。イスラエルの歴史を通して、自らの歩みが神に背き続ける不従順なものでしかないことを知るとき、十字架の死に至るまで、父なる神に従順であられた主イエス・キリストのお姿が、いよいよ鮮やかに浮かびあがってくるのであります。

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