ステファノの説教 2007年1月21日(日曜 朝の礼拝)
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ステファノの説教
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 7章1節~16節
聖書の言葉
7:1 大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。
7:2 そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、
7:3 『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。
7:4 それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、
7:5 そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。
7:6 神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』
7:7 更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』
7:8 そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。
7:9 この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、
7:10 あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。
7:11 ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。
7:12 ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。
7:13 二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。
7:14 そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。
7:15 ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、
7:16 シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。使徒言行録 7章1節~16節
メッセージ
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前回は、七人の筆頭とも言えますステファノが捕らえられ、最高法院へと引いて行かれた場面を共に読みました。ステファノと議論し、歯が立たなかったヘレニストのユダヤ人たちは、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動してステファノを襲って捕らえ、最高法院へと引いて行き、偽証人を立てて、次のように訴えさせるのです。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」
このように、ステファノは、律法と神殿をけなすものとして訴えられたのでありました。しかし、ここで「偽証人をたてて」と記されているように、使徒言行録の執筆者であるルカは、ステファノがそのようなものではないことを、読者に教えております。そして、ステファノ自身も、法廷においてそうではないことを旧約の歴史を自分の口で語ることによって主張しているのです。それもただ自分は無罪であると弁明しているのではなくて、律法を破っているのは、あなたたちの方だと、逆に、最高法院の指導者たちの罪を告発するのであります。ステファノの演説の結論部分は、次のようになっております。51節から53節です。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
これが、ステファノの説教の結論であります。律法をけなす者として訴えられたステファノが、逆に、裁く者たちを律法に背く者として告発しているのです。いつのまにか立場が逆になってしまっているわけです。その逆転が、旧約の歴史を語っていくなかで、起こっているのであります。おそらく、大祭司をはじめとする、最高法院の議員たちは、ステファノが自分が無罪であることを弁明するために、自分たちの歴史を語り始めたと思ったことでしょう。ステファノは、自分たちの歴史、イスラエルの歴史を自分の言葉で語ることによって、自分が律法と神殿をけなす者でないことを弁明しているのだと思って、最高法院の議員たちは、ステファノの演説を聴いていたはずであります。しかし、それが聞いているうちに、ステファノの弁明というよりも、指導者たちの罪を暴き、大胆に告発する預言者的説教であることに気がつくのであります。おそらく、はじめ最高法院の議員たちは、余裕をもって、勝ち誇ったように、ステファノの演説を聴いていたと思います。しかし、話しが進んで行くにつれて、その表情は、こわばったものとなる。そして、この演説が終わると、人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりしたのでありました。
ステファノは、この演説のために、石打の刑に処せられるわけですけども、それは、このような説教を最高法院でした以上、避けられないことでありました。ステファノは、処刑されてもいたしかたないような言葉を、最高法院に対して語ったのであります。それはステファノ自身も、覚悟の上のことであったと思います。なぜなら、この法廷は、神の義に基づく公正な法廷ではありませんで、イエス様を処刑し、イエスの弟子たちを滅ぼそうとする最高法院の法廷であったからです。7章の1節に、「大祭司が、『訴えのとおりか』と尋ねた。」とありますが、これは見せかけ、ポーズでありまして、本心では、民衆からこのような訴えが出てきたことを喜んでいたと思います。これまで、最高法院が弟子たちを処罰するのに躊躇していたのは、彼らに好意的であった民衆を恐れていたからでありました。しかし、その民衆が、弟子たちを訴えるのであれば、これは安心して、弟子たちを迫害することができるわけであります。ですから、訴える者と裁く者は、弟子たちの教えに反対することにおいて、利害を同じとする者たちであったのです。いわば、ステファノは、敵陣の中に一人だけという、かつての主イエスと同じ状況に置かれていたのであります。ただし、主イエスの裁判の場合は、偽証人の証言は不思議なことに一致しませんでした。けれども、ステファノの場合は一致しましたので、弁明する必要が生じたのであります。
15節に、「最高法院の席についていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」と記されています。
「天使の顔」、これは微笑みに溢れた柔和な顔というよりも、神の栄光を映し出す、光り輝く顔のことであります。モーセが十戒を授かって、シナイ山から下ってきたとき、モーセの顔は光輝いていたと言われていますが、同じようにステファノの顔は、神の栄光を見つめつて光輝いていたのです。説教を終えたステファノは、「神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見た」のでありますけども、その説教を語りだす前から、ステファノは、そのイエス様のお姿を信仰の眼で見つめていたのではないかと思うのです。もっと言えば、ステファノは自分が、最高法院の法廷ではなくて、主イエスの法廷に立っていると考えていたのではないかと思います。それゆえ、ステファノは、最高法院の議員たちの罪を、大胆に告発することができたのであります。
使徒言行録には、いくつかの説教が記されておりますけども、ステファノの説教は、その中で、一番長いものであります。それだけ、大切な教えがここに記されているということです。このステファノの説教は、先程お読みしました結論部分を除くと、大きく3つに区切ることができます。1つは、2節から16節で、「族長時代」について記されています。2つ目は、17節から43節で、「モーセと律法」について記されています。3つ目は、44節から50節で、「幕屋と神殿」について記されています。そもそも、ステファノは、律法と神殿をけなして一向に止めないと訴えられたのでありが、律法については、特に、第二区分の17節から43節で、「モーセと律法」について語ることによって自らの立場を明らかにし、弁明しております。また、神殿については、第三区分の44節から50節で、「幕屋と神殿」について語ることによって、自らの立場を明らかにし、弁明しております。今朝は、第一の区分である2節から16節までの「族長時代」について学ぶわけでありますが、これは、律法と神殿を語るための序文となっているわけです。そして、どの書物でも序文が大切なように、族長時代の記述も、真に大切なことが語られているのです。
おそらく、私たちは、このステファノの説教を読むと、なぜステファノは、ここで、長々と旧約聖書の歴史を語るのかと疑問に思われるのではないかと思います。ステファノは、大祭司の「訴えのとおりか」という質問に、「いいえ、わたしはそのようなことは申しておりません」とは答えずに、アブラハムから始まるイスラエルの歴史を語り始めるのであります。しかし、このような仕方は、ユダヤにおいては、特に珍しいことではなかったようです。自分の聖書理解がおかしいのではないかと間違っているのではないかと疑われるとき、その最も確かな弁明の仕方は、自分の言葉で、聖書を語って聞かせるということであります。そうすれば、おのずと、彼らの訴えが誤りであり、その訴えが偽りであることが分かるはずであります。そのような目的をもって、ステファノは、ここでアブラハムから始まるイスラエルの歴史を語り、自分が律法も神殿もけなしているものではないことを明らかにしようとしているのです。そして、繰り返しになりますけども、このステファノの演説は、自分の立場を擁護する弁明だけではなくて、指導者たちを指摘する説教でもあるわけです。この2つの視点をもって、ステファノの演説を読み解くことが大切であります。
ステファノは、イスラエルの歴史をアブラハムから説き起こしました。神様がアブラハムに「あなたの子孫を、夜空の星のようにする」と言われましたように、神はアブラハムからイスラエル民族を起こされたのであります。それゆえ、ステファノは、「兄弟であり父である皆さん」と呼びかけるのです。ステファノも最高法院の議員たちも、同じアブラハムの子孫であるのです。ステファノが、アブラハムからイスラエルの歴史を語り始めたことは大切なことであります。それは、モーセ律法以前に、神とイスラエルとの関係は始まっていたということです。モーセ律法によって、イスラエルの宗教が成立したのではなくて、それよりもはるか以前に、神は御自身をアブラハムに現し、アブラハムは、行く先々で祭壇を築き、神を礼拝していたのでありました。それも、神がアブラハムに現れたのは、彼がまだカルデア人の土地、メソポタミアの地にいた頃でありました。ステファノを訴える者たちは、エルサレムにこそ、神は御臨在してくださると考えていたわけでありますけども、イスラエルの歴史を見るならば、神は、メソポタミアにおいても、ハランにおいても、御自身を現してくださる神なのであります。そして、アブラハムと神の交わりを成立せしめたものは、訴える者たちが固執する神殿祭儀ではなくて、ただ神の約束だけでありました。アブラハムには、目に見え、触れて確かめることのできるような保証は何も与えられておりませんでした。アブラハムは、栄光の神が、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」と言われたがゆえに、カルデア人の土地を後にしたのであります。そして、今、指導者たちの住んでいるパレスチナの地においても、そこでは、一歩の幅の土地も与えられなかったのです。また、アブラハムには、子供が与えられておりませんでした。その時アブラハムは、100歳、妻のサラは90歳であったと記されています。神は、そのようなアブラハムに「いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫に相続させる」と約束なされたのであります。そして、アブラハムはそれが神の約束であるがゆえに信じたのでありました。ここに、エルサレム神殿といった目に見えるものを、神が共におられることの保証と考える者たちへの非難を読み取ることができます。イスラエルの宗教は、きらびやかな神殿がなくとも、いきいきと成り立っていたのであります。栄光の神は、どこにでもおられ、共にいてくださる、生きた神なのであります。そして、その神との交わりも、神殿や動物祭儀といった目に見える保証に基づくものではなくて、何の保証もなしに神の約束を信じるという信仰によって成り立っていたことが分かるのであります。
どこにでもおられる神、天地を満たしておられる神は、歴史の主でもあられます。神は、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、彼の子孫が、外国に移住し、四百年の間奴隷にされることを。さらには、その奴隷状態から神ご自身が救い出してくださり、この場所、カナンの地で神を礼拝することを告げるのです。神が歴史の主であり、すべての事柄が、この神の御手によって支えられ、導かれていることを信じるとき、まだ実現しない事柄を、まるでもう実現しているかのように見ることができるのです。ここで、ステファノから投げかけられている非難は、あなたたちはそのような生ける神、歴史を導いておられる神を本当に信じているのかということであります。神を神殿に押し込めて、まるで何もできないかのように、考えていないかということであります。
神が歴史の主であられることは、9節から16節のヨセフ物語の中によく表れています。神がアブラハムと結ばれた割礼の契約は、イサク、ヤコブ、十二人の族長たちへと受け継がれていきます。しかし、このヨセフについての記述を読みますと、その族長たちの間に妬みが生じていたことが分かります。族長たちは、自分たちの兄弟であるヨセフを妬み、エジプトへ売ってしまったのでありました。しかし、神はヨセフから離れず、あらゆる苦難から助け出し、ついにはエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのであります。メソポタミアにおいても、またハランにおいてもアブラハムと共におられた神は、こんどはエジプトの地においてヨセフと共にいてくださり、あらゆる苦難から助け出してくださったのでありました。そして、エジプトを治める大臣という栄誉ある地位をお与えになったのです。
エジプトとカナン全土を飢饉が襲うことにより、ヨセフと族長たちは再会することになります。ヨセフは二度目のとき、自分が弟のヨセフであることを兄たちに明かすのでありますが、このところは大変感動的な場面でありますので、創世記からお読みしたいと思います。創世記の45章1節から14節をお読みいたします。旧約聖書の81頁です。
ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれらか五年間は耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところにおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。そこでのお世話はわたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』さあ、お兄さんたちも、弟のベニヤミンも、自分の目で見てください。ほかならぬわたしがあなたたちに言っているのです。エジプトでわたしが受けているすべての栄誉と、あなたたちが見たすべてのことを父上に話してください。そして、急いで父上をここへ連れて来てください。」ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。
少し長く読みましたが、ここでヨセフは、「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」と語り、「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生きながらえさせるためです。」と語っております。ヨセフは、人の悪意をも用いても、救いを与えられる、歴史を導かれる主なる神を信じていたのです。いや、そのことを自らの体験として語っているのであります。このことは、50章20節でも再度告白されています。こう記されております。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、こんにち今日のようにしてくださったのです。」
歴史を導かれる主は、族長たちの悪いたくらみさえも用いて、ヨセフをエジプトに遣わされ、ヨセフの親族一同だけではなく、多くの民の命をお救いになられる、そのような神であられるのです。
このようなヨセフの生涯を思いますときに、私たちは主イエス・キリストのことを思わざるを得ないのであります。ヨセフが兄弟たちからねたまれエジプトに売り飛ばされたように、イエス様も同胞の民にねたまれ、異邦人の手に引き渡されました。また、神がヨセフと共にいて、恵みと知恵を与え、あらゆる苦難から助け出されたように、神はイエス様と共にいて、恵みと知恵を与え、あらゆる苦難から、死という苦難からも助け出されたのであります。さらに、神がヨセフを高く上げ、エジプトの大臣にしたように、神はイエス様を復活させて、御自分の右に上げられ、天と地の一切の権能を授けられたのであります。そして、このことが多くの民に救いをもたらすという点でも同じであります。ヨセフが、エジプトの大臣になり、事前に食物を蓄えることによって、多くの民の命が助かり、生きながらえることができました。それと同じように、イエス様が、十字架の死から復活し、主となられることによって、多くの民が、死んでも生きる永遠の命にあずかるものとなったのであります。
このように、ヨセフを導かれ、救いを与えられた神を信じるということは、イエス・キリストを導かれ、救いを与えられる神を信じるということと一つのことであるのです。使徒ペトロも、ペンテコステの説教において、こう語っております。使徒言行録の2章22節から24節をお読みいたします(新約聖書215頁)。
「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」
このペトロの言葉には、人の悪いたくらみをも用いて、救いをお与えになる、悪を善に変える神が告白されております。神は、独り子であり、何の罪もないイエスを、私たちの身代わりとして十字架につけることにより、罪の赦しを与えになったのです。そして、その救いへの招きから、イエス様を十字架につけた者たち、最高法院の議員たちも決してもれてはいないのです。ですから、ステファノが、ヨセフ物語を語りながら、最高法院の議員たちに勧めていることは、私たちの先祖である族長たちが、涙を流して悔い改めたように、あなたたちも悔い改めてもらいたいというであります。奴隷とされ、牢獄に捕らえられていたヨセフを、エジプトの大臣へと高く上げた神を信じるのであれば、なぜ、呪いの死に引き渡されたイエスを、神がよみがえらせ、天へと上げられたことを信じられないのか。あなたがたが、神がイエスをメシアとなされたことを信じられないのは、ヨセフを導かれた神を信じていないからではないか。そこにあなたがたの不信仰の根があるのではないか、とステファノは語っているのであります。
ヤコブはエジプトに下って行き、やがてヨセフも族長たちも死んで葬られました。後のイスラエル12部族となる12人の族長たちもエジプトで死んだのです。しかし、その遺骨は、カナンの地であるシケムに葬られたのです。このことは、エジプトで死んだ族長たちも、「いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる」というアブラハムに対する神の約束を信じていたことを教えております。神のアブラハムへの約束は、イサクへの約束となり、ヤコブへの約束となり、12人の族長たちへの約束となっていたのです。アブラハムだけではない。イサクも、ヤコブも、そして12人の族長たちも、神の約束の信仰に生きた者たちであったのです。そして、その神の約束は、この地上だけに留まるものではありませんでした。彼らは、神のとの全き交わりに生きる天の御国を待ち望んでいたのであります。ヘブライ人への手紙11章13節から16節にはこう記されています(新約415頁)。
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を捜し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかも知れません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
アブラハムにはじまる族長時代は、まだモーセ律法も神殿もない、まことにシンプルなものでありますけども、しかし、それだけに、イスラエルの宗教の本質がここに表れているのであります。そして、その本質こそ、神の言葉を信じる信仰なのであります。後に使徒パウロが、アブラハムを信仰の父と呼びますけども、彼はそこでイスラエルの宗教の本質を言い表しているのです。ステファノは、これからモーセ律法について、さらにはエルサレム神殿について語って参りますけども、このイスラエルの宗教の本質であります信仰を忘れるならば、全ての空しいのであります。そのことを明かとするために、ステファノは、神の約束だけを信じて歩んだ族長たちの姿を、まず最初に語ったのであります。