成し遂げられた救い 2011年2月27日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
成し遂げられた救い
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 19章25節~30節
聖書の言葉
19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。ヨハネによる福音書 19章25節~30節
メッセージ
関連する説教を探す
序.前回のお話
前回私たちは、イエス様が十字架につけられた場面を共に学びました。ピラトの掲げた罪状書きには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてありましたけれども、これはピラトの思いを越えて、書き直すことのできない真理を物語っておりました。十字架につけられたナザレのイエスこそ、ユダヤ人の王、いや全世界の王であられるのです。ヨハネによる福音書は罪状書きがヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていたと記しておりますが、これは当時の全ての人々に十字架に上げられたナザレのイエスこそ王であることを示しているのです。またイエス様は王であるばかりでなく大祭司でもあられました。ヨハネによる福音書はイエス様の下着には縫い目がなく、上から下まで一枚織りであったことを伝えておりますが、これは大祭司の衣服と同じ作りであります。これによってヨハネは、イエス様が十字架において御自身をささげる永遠の大祭司であられることを教えているのです。イエス様は永遠の贖いを成し遂げるために自ら十字架を背負い、ゴルゴタへと向かわれたのです。ここまでが前回お話したことでありますが、今朝はその続きである25節から30節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
本論1.イエスの母と愛する弟子
25節から27節までをお読みします。
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
ヨハネによる福音書は十字架につけられたイエス様のそばに四人の婦人たちが立っていたと記しております。この四人の婦人たちはイエス様を十字架につけ、服を分け合った四人の兵士たちと対応する形で記されています。またイエス様の十字架のそばには愛する弟子もおりました。このことはヨハネによる福音書だけが記していることであります。マルコによる福音書の並行個所を見ますと婦人たちは遠くから見守っていたと記されていますし、男の弟子はでてきません(マルコ15:40,41参照)。ですから福音書記者ヨハネは共観福音書とは別の伝承を用いてこのところを記したと考えられます。ヨハネによる福音書の独特の教えがこのところに記されているのです。イエス様の十字架のそばにいた四人の婦人たちは「イエスの母」と「母の姉妹」、「クロパの妻マリア」と「マグダラのマリア」でありました。「マグダラのマリア」については、マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書にもでてきますが、他の婦人たちについては共観福音書にはでてきません。特に、イエス様の母が十字架のそばに立っていたことを記すのはヨハネだけであります。そして、ヨハネの関心はイエス様の母と愛する弟子の二人へと向けられているのです。「愛する弟子」とは、最後の晩餐の席において、イエス様の胸もとに寄りかかったまま、裏切る者が誰であるのかを問うた弟子のことであります。十字架につけられたイエス様は母と愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われました。それから弟子に、「見なさい。あなたの母です」と言われたのです。福音書記者ヨハネは、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」と記しています。この御言葉を私たちはどのように解釈したらよいのでしょうか?一つの伝統的な解釈は、イエス様が死の間際に案じたことは母のことであり、母のこれからを愛する弟子に託したという解釈であります。母の他の息子たち、イエス様の弟たちはこの時まだイエス様を信じていなかったので、イエス様は霊的な配慮から愛する弟子に母を託したという解釈です。これは私たちがまず心に刻むべき解釈であると思います。またもう一つの解釈はイエスの母を「ユダヤ人キリスト者」の象徴とし、愛する弟子を「異邦人キリスト者」の象徴とする解釈であります。ヨハネによる福音書はイエス様がの母の名前を挙げておりません。私たちは共観福音書から母の名前がマリアであることを知っておりますが、ヨハネは母の名前を記していないのです。また愛する弟子も、伝統的にはこの福音書を記した使徒ヨハネであると考えられておりますけれども、やはり名前を記していないのです。なぜ名前を記していないのか。それはイエスの母も愛する弟子も象徴的な存在であるからだと言うのであります。そして「イエスの母」はユダヤ人でイエス様を信じた者たちを代表しており、「愛する弟子」は異邦人でイエス様を信じた者たちを代表していると解釈するのです。ユダヤ人キリスト者は、異邦人キリスト者を子供として受け入れ、また異邦人キリスト者はユダヤ人キリスト者を母として尊敬するようにと、イエス様が十字架の上からお語りになったと解釈するのです。そしてここに第17章に記されていたイエス様の祈り、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」という祈りの反響を読み取ることができると言うのです。周りにユダヤ人キリスト者がいない私たちは、このような解釈を聞いてもピンとこないかも知れませんが、イエス様の十字架のもとで新しい家族関係が結ばれたことは確かなことであります。私たちが主にある兄弟姉妹と呼びますように、イエス様の十字架のもとに、主にある新しい交わり、神の家族としての交わりが生まれたのです。イエス様は私たちにも「見なさい。あなたの兄弟姉妹です」と言われるのです。私たちは十字架のもとで、互いを主にある兄弟姉妹として見つめるまなざしをいただくのです。
本論2.渇くイエス
28節、29節をお読みします。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱいに含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」とありますが、ここでの「すべてのこと」とは御父からゆだねられたすべてのことであります。イエス様は第4章34節でこう言われておりました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」。イエス様は御自分を遣わした御父からゆだねられたすべての業が今や成し遂げられたのを知って、「渇く」と言われたのです。福音書記者ヨハネは「こうして、聖書の言葉が実現した」と述べておりますが、この聖書の言葉として詩編第69編22節と詩編第63編2節の二つが考えられます。詩編第69編22節にはこう記されています。
人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。
この詩編の言葉は、イエス様が「渇く」と言われたときに実現したというよりも、それを聞いた兵士たちが酸いぶどう酒を差し出したことによって実現したのでありまして、わたしは詩編第63編2節の御言葉の方がふさわしいのではないかと思います。詩編第63編2節にはこう記されています。
神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。
イエス様が「渇く」と言われたのを聞いて、兵士たちは喉の渇きを潤すために酸いぶどう酒を差し出しました。しかし、詩編第63編の御言葉を背景にしてイエス様の「渇く」という御言葉を読むならば、イエス様の渇きは御父を求める魂の渇きであったことが分かるのです。イエス様は私たちに代わって、「渇く」と言われた。御父から遠く離れ、乾ききった大地のように衰えているにも関わらず、それに気が付かない私たちに代わって、イエス様は「渇く」と言われたのです。
本論3.酸いぶどう酒を受けるイエス
30節をお読みします。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
イエス様が酸いぶどう酒を受けられたと記しているのはヨハネによる福音書だけであります。マルコによる福音書の並行箇所を見ますと、兵士たちは酸いぶどう酒を差し出すのですが、イエス様は大声を出して息を引き取られました。マルコによる福音書において、イエス様は酸いぶどう酒をお受けにならず死んでしまわれるのです。しかし、ヨハネによる福音書においてイエス様は酸いぶどう酒をお受けになるのです。酸いぶどう酒とはぶどう酢を水で薄めたもので、ローマの兵士たちの飲み物でありました。イエス様はすべてを成し遂げた祝いに酸いぶどう酒を受けられるのです。それは十字架の王であるイエス様がお受けになった勝利の杯であります。26節でイエス様は母に「婦人よ」と呼びかけられましたが、このことは私たちに第2章の「カナの婚礼」のお話を思い起こさせます。母がイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言うと、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われました。そして、イエス様は水がめの水を極上のぶどう酒へと変えることにより、その御栄光を現されたのです。極上のぶどう酒をふるまわれたお方が、今朝の御言葉では酸いぶどう酒をお受けになるのであります。「わたしの時はまだ来ていません」と言われた方が、「成し遂げられた」と言われるのです。「成し遂げられた」。このイエス様の御言葉を口語訳聖書は「すべてが終わった」と訳しておりました。ある人は「新共同訳聖書の翻訳の方が、口語訳聖書の翻訳よりもすぐれている。口語訳聖書の翻訳では誤解を与えるおそれがあるから」と言っておりました。確かに「すべてが終わった」は「もうだめだ、これで終わりだ」と言った悲嘆の言葉としても読むことができます。それに対して新共同訳聖書の「成し遂げられた」は目的を遂行した達成感を表す翻訳であると言えます。十字架にあげられたユダヤ人の王であるイエス様は、酸いぶどう酒を受け、「成し遂げられた」と言い、御父のもとへ凱旋していくのです。「成し遂げられた」という言葉は、十字架の死に至るまで御父の御心に従い、すべてを成し遂げた勝利者としての凱歌の叫びなのであります。旧約聖書のイザヤ書第53章にある主の僕の歌に、「主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる」とありますけれども、まさしくイエス様は主の御心をすべて成し遂げられたのです。
結.成し遂げられた救い
「成し遂げられた」と訳されている言葉の名詞形が第13章1節にでてきておりました。第13章1節にはこう記されておりました。
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
ここで「この上なく」(テロス)と訳されている言葉の動詞形(テレオー)の完了形が、「成し遂げられた」(テテレスタイ)と訳されている言葉なのです。そして、このことはイエス様が十字架によって私たちに対する愛を全うしてくださったことを教えているのです。イエス様は私たちをこの上なく愛してくださることにより、私たちの救いを成し遂げてくださったのです。私たちが自分では成し遂げることのできなかったすべてのことを、イエス様が私たちに代わって、私たちのために成し遂げてくださったのであります。それゆえ、私たちはイエス・キリストにあって、神の家族の一員とされ、主にある兄弟姉妹とされて、神の栄光をほめたたえることができるのです。