反対者たちの父 2010年1月10日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
反対者たちの父
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 8章39節~47節
聖書の言葉
8:39 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。
8:40 ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。
8:41 あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、
8:42 イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。
8:43 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。
8:44 あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
8:45 しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。
8:46 あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。
8:47 神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」ヨハネによる福音書 8章39節~47節
メッセージ
関連する説教を探す
はじめに.
今朝はヨハネによる福音書第8章39節から47節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
1.ユダヤ人たちの父
39節から42節までをお読みいたします。
彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。
前回学んだ37節、38節で、イエスさまは次のように仰せになりました。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」。ここでイエスさまはユダヤ人たちがアブラハムの子孫であることを認めながらも、御自分の父とユダヤ人たちの父を区別しておられます。イエスさまの父は神さまでありますけども、ユダヤ人たちの父は一体誰なのかは言われておりません。そのようなイエスさまの御言葉を受けて、ユダヤ人たちは「わたしたちの父はアブラハムです」と答えたわけです。アブラハムについては創世記第12章から25章までに記されておりますけども、神さまはアブラハムと契約を結び、彼の子孫を大いなる民とすると約束されました。ユダヤ人たちは、自分たちの父がそのアブラハムであると言うわけです。それに対してイエスさまはこう言われました。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている」。37節で、イエスさまはユダヤ人たちがアブラハムの子孫であること、アブラハムの血筋を引いていることを認められましたけども、彼らがアブラハムの子であることは認められませんでした。なぜなら、子は父と同じ業をするはずであるからです。子供は親に倣うことによって、その親の子供であることを証明するのです。ここで「アブラハムの業」がどのようなものかは記されていませんが、40節を読むとそれがどのようなものか分かってきます。「ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった」。「神から聞いた真理」とは、神の啓示のことであります。アブラハムは信仰の父と言われるように、神の啓示に開かれた存在でありました。アブラハムは神の言葉を信じ、それを真理として受け入れ従うものであったのです。そのことは創世記第12章の「アブラムの召命と移住」というお話しを読むとよく分かります。そこにはこう記されています。
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。
このアブラハムについてヘブライ人への手紙の著者は次のように記しています。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」。
また創世記第15章では、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」との主の言葉をアブラハムが信じ、主はそれを彼の義と認められたことが記されています。さらには創世記第22章に進むと、約束の子であるイサクをいけにえとしてささげよとの神の言葉にアブラハムが従ったことが記されています。これは主の介入によって阻まれるのでありますけども、そこで主はアブラハムにこう言われております。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべてあなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」。
また前後しますけども、創世記の第18章を見ますと、アブラハムが三人の人をもてなしたことが記されており、その一人は主であったと記されています。
今朝の御言葉の40節は、実は原文を見ますと「人間」という言葉が記されています。ですから、岩波書店から出ている翻訳聖書は40節を次のように訳しています。「ところが今、あなたたちは私を、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきた人間を、殺そうと狙っている」。アブラハムは神から聞いた真理を語った人を手厚くもてなしました。その真理に心を開いて聞き従いました。しかし、ユダヤ人たちはどうであったか。あなたたちは、神から聞いた真理を語っている人間を受け入れるどころか殺そうとしている。よって、あなたたちはアブラハムの子ではない。あなたたちは自分の父と同じ業をしているのだとイエスさまはお語りになるのです。ここでイエスさまはユダヤ人たちの御自分に対する態度から彼らの父が誰であるかを導き出そうとしているのです。そのようなイエスさまにユダヤ人たちはこう言いました。「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」。旧約聖書を見ますと、イスラエルが他の国の神々を慕い求め霊的姦淫を行ったことが預言者によって糾弾されております。しかし、ここでユダヤ人たちは、自分たちはそのような姦淫によって生まれたのではない。自分たちは神をただひとりの父として持つ者だと語るのです。確かに旧約聖書を見ますと、イスラエルの民が神を父とする神の子であると記されています。例えばイザヤ書第63章16節にこう記されています。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくとも/主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』/これは永遠の昔からあなたの御名です」。ユダヤ人たちは、イエスさまから自分たちがアブラハムの子であることを否定されたとき、もしかしたらこのイザヤ書の御言葉を思い起こしていたかも知れません。ともかく、ユダヤ人たちはここで究極的なことを言ったわけです。
しかし、これに対してもイエスさまは次のように言われます。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである」。ここでもイエスさまの前提とされていることは「子は親を愛する」ということです。さらには、「親を愛する子は、親から遣わされた方をも愛するはずである」ということであります。もし、ユダヤ人たちが唯一の神を父とする子であるならば、イエスさまを愛するはずである。なぜなら、イエスさまは神さまからの者であり、神さまから遣わされて今ここにいるからです。しかし、ユダヤ人たちはイエスさまを愛するどころか、イエスさまを殺そうとしていたのです。
2.悪魔である父
43節から45節までをお読みいたします。
わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
ユダヤ人たちは、自分たちの父がアブラハムであり、さらには神であると主張しましたけども、ここでイエスさまは彼らの父が悪魔であるとお語りになりました。38節に「ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」とあり、41節にも「あなたたちは自分の父と同じ業をしている」とありましたけども、この父こそ、悪魔であったのです。なぜ、彼らは真理であるイエスさまの御言葉を聞くことができないのか。なぜ、彼らは真理であるイエスさまを殺そうとするのか。それは彼らが悪魔の子となっているからだとイエスさまは言われるのであります。父である悪魔の欲望を満たすためにあなたたちはわたしを殺そうとしているとイエスさまは言われるのです。それでは悪魔とはどのような存在なのでしょうか。イエスさまは続けてこう言われました。「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」。このイエスさまの御言葉の背後には、創世記の第3章のエデンの園での出来事、さらには第4章に記されているカインとアベルの出来事があると考えられています。悪魔は神の敵であり、堕落した天使であると言われておりますが、アダムの助け手であるエバを誘惑した蛇の背後には悪魔が働いておりました。神さまは最初の人アダムに、「善悪の知識の木の実からは決して取って食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われました。けれども、蛇はエバに、「決して死ぬことはない。それを食べると神のようになることができるのだ」と誘惑したのです。ここで蛇は神さまと正反対のことを言ったわけです。そのようにして蛇、悪魔は偽りを吹き込み、その偽りによってこの世界に死をもたらしたのであります。それゆえ、歴史の始めから悪魔は人殺しであると言えるのです。また悪魔は、カインの心に働きかけ、弟アベルを殺しました。なぜカインはアベルを殺したのでしょうか。それは自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです(一ヨハネ3:12)。悪魔は堕落した天使でありますから、真理をよりどころとしてはおりません。彼のうちに真理がないのです。ですから、悪魔が偽りを言うとき、その本性から言っているのです。いわば、無意識に嘘をつく。嘘をついている自覚がない。嘘を言っていながらそれを本当のことであると思い込んでしまっている。もちろん、嘘をついて後ろめたいなどと感じることもないのです。悪魔が嘘をつくとき、悪魔が人を殺すとき、それはまことに悪魔らしいことをしていると言えるのです。イエスさまは、悪魔は偽り者の父であると言われました。確かにこの世界に嘘、偽りを持ち込んだのは悪魔でありました。悪魔はエバに「決して死ぬことはない。それを食べると神のようになることができる」という嘘、偽りをこの世界に初めて持ち込んだのです。それゆえ、まさしく悪魔は偽りの父であると言えるのです。
3.神に属する者
45節から47節までをお読みいたします。
しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。
イエスさまは、「しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない」と言われました。わたしが偽りを語るからあなたたちは信じないと言われたのではなくて、わたしが真理を語るからあなたたちは信じないとイエスさまは言われたのです。なぜなら、ユダヤ人たちは悪魔の子となっているからです。悪魔は真理をよりどころとしておらず、彼の内には真理がないのですから、いくら真理を語っても聞くことができない。イエスさまが真理を語るからこそ、彼らはイエスさまを信じないのです。続けてイエスさまは、「あなたたちのうち、いったいだれえが、わたしに罪があると責めることができるのか」と語ることによって、ユダヤ人たちがイエスさまに何の罪も見出すことができないことを明かとされました。そしてユダヤ人たちが御自分に何の罪も指摘できないことを確認したうえで、「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか」と言われたのです。わたしは今朝の御言葉を正しく読み解く鍵は、この46節にあると思っております。イエスさまは、ユダヤ人たちを悪魔の子だと言われて、そのようなあなたたちは滅んで当然だと言われたのではないのです。また、そのようなあなたたちに真理を語っても無意味だと言われたのでもないのです。イエスさまはユダヤ人たちの父が悪魔であることを指摘した後で、なおも「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか」と言われたのです。アブラハムの子であるはずのユダヤ人たち、神の子であるはずのユダヤ人たちが、こともあろうに悪魔の子となっている。イエスさまはこのことを深く憂いておらるのです。
旧約聖書の哀歌に、「預言者はあなたに託宣を与えたが/むなしい、偽りの言葉ばかりであった。あなたを立ち直らせるには/一度、罪をあばくべきなのに/むなしく、迷わすことを/あなたに向かって告げるばかりであった」という御言葉があります。イエスさまはユダヤ人たちがもう一度アブラハムの子、神の子となるために、彼らが悪魔の子となっていることを曝かれたのです。自分たちが罪の内に死ぬ者であり、罪の奴隷となっていることを認めないユダヤ人たちに、イエスさまは彼らが悪魔の子となっていることを愛をもって糾弾されたのです。イエスさまがあなたがたは悪魔である父から出た者であると言われるとき、もちろんそれは彼らが悪魔によって造られたと言っているのではありません。彼らは悪魔に倣うことによって悪魔の子となってしまっているのです。そしてそれゆえに、彼らが悪魔の子からアブラハムの子へ、また神の子へと変わる希望があるのです。そしてその初めの第一歩が「あなたたちは悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」というイエスさまの御言葉を真剣に受けとめ、自己吟味することであるのです。
むすび.私たちはイエス・キリストにあって神の子
今朝の御言葉で問われていることは、私たちは誰から出たものなのかという私たちの起源なのです。私たちは神から出たものなのか。それとも神の敵である悪魔から出た者なのか。ユダヤ人たちは、自分たちは神からの出たものと信じて疑いませんでした。しかし、神の御子イエスさまがこの地上に来られたとき、イエスさまは自分の言葉を受け入れず、自分を殺そうとするユダヤ人たちが悪魔の子であると言われたのです。なぜ、人はイエス・キリストを信じないのか。それはその人の背後に真理をよりどころとしていない悪魔の力が働いているからなのです。では、私たちはどうでしょうか。神を父とする者でしょうか。それとも悪魔を父とする者でしょうか。イエスさまはユダヤ人たちに「神があなたたちの父であるならば、わたしを愛するはずである」と言われました。それゆえ、私たちがイエスさまを愛するならば、私たちは今、自分が神の子であることが分かるのです。イエスさまを愛するならば、私たちは確かに神の子とされているのです。
イエスさまは、「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と仰せになりました。ここで「神に属する者」と訳されている言葉は直訳すると「神からの者」「神から出た者」となります。ここでも問われているのはその起源です。このイエスさまの御言葉を読むと、私たちは自分はイエスさまの御言葉を神の言葉として聞いているから神から出た者であると思うかも知れません。けれども、ここで何より思い起こすべきは、イエスさまこそが神の言葉を聞く神に属する者、神から出た者であるということです。私たちはそのイエス・キリストにあって、神に属する者とされているのです。この説教を準備しながら、自分のような者がよくイエス・キリストを信じ、神の子とされたなぁとつくづく不思議に思いました。神などいないとうそぶいていた高校生の頃の自分のことを考えてみると、とても神の子とは言えなかった。しかし、その自分が今、イエス・キリストを信じる者とされている神の言葉を信じ語る者とされている。これはまさしく神さまの御業であります。先程、悪魔の内には真理がないから、悪魔の子はイエスさまが語る真理を聞くことも理解することもできないことを学びました。そのことは、イエスさまの御言葉を聞くことができる私たちの内には真理があることを教えています。私たちの内に真理があるから、真理であるイエスさまの御言葉を聞き、信じることができるのです。では、その真理は私たちが生まれながらにもっていたものなのでしょうか。そうではありません。十字架と復活の主であるイエスさまが、私たちに真理の霊である聖霊を遣わしてくださることによって、私たちを真理に聞く者としてくださったのです。悪魔の子であった私たちにイエスさまが聖霊を遣わすことによって、私たちの内に真理を与え、私たちを神の言葉を聞く、神に属する者としてくださったのです。イエスさまは悪魔の働きを滅ぼすためにこの地上に来てくださいました。そして、今も聖霊と御言葉によって悪魔の子を御自分を愛する神の子へと造りかえてくださるのです。そのイエス・キリストの御業に私たちは恵みによってあずかることができたのであります。そして、イエスさまは私たちを通しても御自分の御業と成し遂げてくださるのです。