真理はあなたたちを自由にする 2010年1月03日(日曜 朝の礼拝)
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真理はあなたたちを自由にする
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 8章31節~38節
聖書の言葉
8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。
8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」ヨハネによる福音書 8章31節~38節
メッセージ
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はじめに.
今朝は2010年最初の礼拝であります。私たちは今年の年間テーマを「キリストの内に留まり続ける」、年間聖句を「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」ヨハネによる福音書第15章4節として歩みます。新年最初の礼拝では、年間テーマにそった個所からお話しをすることにしておりますが、今朝はいつものようにヨハネによる福音書を読み進めて行きたいと思います。といいますのも、今朝の御言葉には、今年の年間テーマのキーワードである「留まる」と訳される言葉が三度出てくるからです。31節、「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である』」。ここに「とどまる」という言葉が1つ出てきます。また35節、「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」。ここで「いる」と訳されている言葉は、「とどまる」とも訳されているのと同じ言葉です。ですから、ここで「とどまる」という言葉が2つでてくるわけです。それゆえ、今朝の御言葉は年間テーマに則した個所であると言えるのです。
1.真理はあなたたちを自由にする
31節から33節までをお読みします。
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
今朝の御言葉の直前の30節に、「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」とありました。イエスさまはその御自分を信じたユダヤ人たちにこう言われたのです。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」。ある人は、ここで「弟子である」と言われているのであって、「弟子になる」と言われていないことに注意すべきだと言っています。ここでイエスさまは御自分の御言葉に留まることによって、あなたがたは本当にわたしの弟子になるとは言われていない。そうではなくて、ここでイエスさまが言われているのは、御自分の御言葉に留まるならば、あなたがたは本当にわたしの弟子であることが分かると言われたのです。私たちは第6章で、ガリラヤの地においてイエスさまが五つのパンと二匹の魚で五千人もの人々を満腹にさせたお話しを学びました。このしるしをきっかけとして、イエスさまはご自分こそ「天から降って来た生きたパンである」ことを教えられたのですが、そのイエスさまの教えを聞いた多くの者たちは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつぶやいたのでありました。第6章66節には、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とはっきりと記されています。イエスさまを多くの者が信じたけども、その言葉にとどまったものは十二人だけであったのです。イエスさまが今朝の御言葉で、御自分を信じたユダヤ人たちに「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と言われたとき、このガリラヤでの出来事を忘れてはいなかったと思います。ユダヤ人たちばかりではありません。イエスさまは今朝私たちにも「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と言われるのです。日曜日を主の日として礼拝をささげ、イエスさまの御言葉を聞き、その御言葉にどのようなときも留まるならば、私たちは本当にイエスさまの弟子であるのです。
また、イエスさまは御自分の御言葉に留まるならば、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われました。ここでの真理は何よりイエス・キリストにおいて現された神の啓示を指しております。26節に「あなたたちについては言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」とありますが、ここで「真実」と訳されている言葉は「真理」とも訳される言葉です。ですから、イエスさまはここでこのようにもお語りになっているわけです。「わたしをお遣わしになった方は真理であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」。イエスさまは、真理である方から聞いたことを、話しているわけですから、その言葉は真理であり、その言葉に留まるならば、私たちは真理を知ることになるわけです。そして、その真理は私たちを自由にすると言うのです。このイエスさまの御言葉を聞いて、ユダヤ人たちは次のように反論しました。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」。アブラハムの子孫、これは「神の約束の民」ということです。それゆえ彼らは、「今までだれかの奴隷になったことはありません」と言うのです。これを聞いて、本当かなぁと思われるのではないでしょうか。十戒の序言には何と記されているか。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と記されているではないか。また、バビロン帝国によって捕囚とされたではないか。今もローマ帝国の支配下にあるではないかと思うのでありますけども、ユダヤ人たちの誇りは、「今までだれかの奴隷になったことはない」ということであったのです。なぜそのようなことをユダヤ人たちは言い切れたのか。それは彼らが安息日を守り、律法に従った生活を営んでいたからなのです。バビロンの地に奴隷として連れて行かれてからも、彼らは安息日を守り、主なる神を礼拝し、律法によって生活を形づくっていました。ですから、彼らはいつも神の支配のもとに生きていたのであって、人の支配下に置かれたことはないのです。人間の歴史から言えば、紀元前587年にバビロン帝国によってエルサレムが陥落し、その住人は奴隷としてバビロンへ連れて行かれるのですけども、しかし、ユダヤ人たちはその捕囚の期間にあっても、安息日を守り、主なる神を礼拝し、律法によって生活を営むことによって神の民としてのアイデンティティーを保ち続けることができたのです。それゆえ、彼らは、アブラハムの子孫である自分たちは、今まで誰かの奴隷になったことはない。「あなたたちは自由になる」とどうして言われるのかとイエスさまに反論したのです。ここにあるのは、自分たちはアブラハムの子孫であり、神の選びの民であるという強烈な選民意識であるのです。
2.罪の奴隷
34節から36節までをお読みします。
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
ここで「はっきり言っておく」と訳されている言葉は直訳すると「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」となります。これはイエスさまが神の御子としての権威をもって言われるときの決まった言い回しです。イエスさまは神の御子の権威をもって、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と言われるのです。前回、私たちは「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」というイエスさまの御言葉について学びました。それは言い換えれば「罪の奴隷とされている」ということであります。ユダヤ人たちは、律法こそ真理であると考え、その律法に従うことによって自由を得ていると考えていました。ですから、彼らはイエスさまに「あなたたちは自由になる」とどうして言われるのですかと問うたのです。しかし、イエスさまは「はっきり言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」と言われたのです。なるほど、あなたたちはだれかの奴隷になったことはないかも知れない。しかし、罪の奴隷になっているではないか、とイエスさまは言われるのです。奴隷とは、主人の意志に服従する者であります。罪を主人とする奴隷は、罪を犯します。それゆえ、イエスさまは罪を犯す者はだれでも罪の奴隷であると言われたのです。律法と罪の関係については、ローマの信徒への手紙の第6章と第7章に詳しく記されておりますけども、今朝の御言葉からも言えることは、ユダヤ人が真理であると考えていた律法が彼らを罪の支配から自由にはしてくれないということです。ですから、イエスさまが「真理はあなたたちを自由にする」と言われるとき、その真理とは律法のことではなくて、律法を全うされるイエス・キリストのことなのです。第1章17節に、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」とありました。また、第14章6節で、イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のところへ行くことはできない」と言われています。このように、イエス・キリストこそ、私たちを罪の奴隷状態から解放してくださる真理そのものなのです。
続けてイエスさまは奴隷が家の中で限られた間しか居場所を持たないことを教えられます。「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」。「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる」。奴隷は売買の対象でありましたから、売られてしまえば家を出て行かなくてはならないわけです。いずれにしてもて奴隷は家にいつまでもいるわけには行かない。しかし、子はいつまでもいることができるのです。これはこの地上のことを言っているように思えますけども、同時に神の家でのユダヤ人たちとイエスさまとの関係を教えてもいるわけです。そのことは、「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」というイエスさまの御言葉から明かであります。「神の家にいつまでもいる子であり、御父から権能を与えられたわたしが、あなたたちを自由にするならば、あなたたちは本当に自由になる。自由になって、神の家から出て行かなくてはならなくなるのではなくて、むしろ自由な者として神に仕える者となる。神の家にいつまでもいることのできる神の子となる」とイエスさまは言われるのです。
3.わたしの言葉を受け入れない
37節と38節をお読みします。
あなたたちがアブラハムの子孫であることは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
イエスさまはユダヤ人たちが血縁からすれば、アブラハムの子孫であることを認められます。けれども、ユダヤ人たちがアブラハムに似たものであるかは別のことであります。なぜなら、彼らはイエスさまを殺そうとしているからです。イエスさまは「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と言われましたけども、ユダヤ人たちはイエスさまを殺そうとすることによって、自分たちが罪の奴隷であることを暴露してしまっているのです。なぜ、ユダヤ人たちはイエスさまを殺そうとするのでしょうか。それは、彼らがイエスさまの言葉を受け入れないからです。ここで「受け入れない」と訳されている言葉は、直訳すると「場所を持たない」「余地がない」となります。心にイエスさまの御言葉が入る場所がないのです。自分たちはアブラハムの子孫であり、今までだれかの奴隷になったことはないという誇りが、イエスさまの御言葉を閉め出してしまい、根付かせるまでにいたらないのです。イエスさまが来られたとき、イエスさまを受け入れたのは罪人と呼ばれていた社会から疎外されていた人々でした。聖書に詳しい指導者たちは、イエスさまを受け入れず、殺してしまいました。なぜでしょうか。指導者である祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々こそ、イエスさまを受け入れても良さそうなものであります。しかし、そうはならなかった。それは彼らが自分たちが罪の奴隷であることを認めることができなかったからです。自分たちはアブラハムの子孫である。自分たちは律法によって生活を営んでいる。その誇りのために彼らはイエスさまの御言葉を受け入れることができなかったのです。自分は正しいと思っている人に、「あなたは罪人ですよ」と言ってみたらどうなるでしょうか。自分は自由だと思っている人に、「あなたは罪の奴隷ですよ」と言ってみたらどうなるでしょうか。それこそ、受け入れないのではないでしょうか。これは他人ごとではありません。私たちもイエスさまの教えを聞きながら、それを受け入れずに歩んでいることがあるのです。そして、そのとき私たちの心からイエスさまの御言葉を閉め出してしまうのは、私たちの心にある傲り高ぶった思いであるのです。繰り返しますけども、イエスさまは今朝の御言葉を御自分を信じたユダヤ人たちに語られたのです。私たちはイエスさまを殺すようなことはないと考える。しかし、果たしてそうでしょうか。私たちはイエスさまの言葉をいとも簡単に殺してしまうのです。イエスさまの御言葉よりも、肉の思いに従って歩んでしまうのです。そうであるならば、私たちは今朝、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」というイエスさまの御言葉を真剣に受けとめねばならないのです。
むすび.解放者イエス・キリスト
イエスさまは、「罪を犯す者は罪の奴隷である」と言われ、「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と言われました。では、イエスさまは御自分の御言葉にとどまる者たちをどのようにして、罪の奴隷状態から解放してくださるのでしょうか。それは御自身を十字架において私たちの、いや全世界の罪を償ういけにえとして献げられることによってです。洗礼者ヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったように、イエスさまはその尊い血潮をもって私たちを罪の奴隷状態から贖ってくださったのです。そして、私たちを自由な者、神の子としてくださったのです。聖書に「主の霊のおられるところに自由があります」と記されておりますけども、主の霊の導きに従って生きるところに自由があるのです。聖霊は御言葉と密接な関係にありますから、主の霊の導きに従って生きるとは、御言葉に留まり続けるということであります。御言葉に留まると聞くと、どこか窮屈になるのではないかと思うかも知れませんけども、そうではないのです。主の御言葉に留まることによって、私たちは初めて主の霊の導きに従って生きることができるのです。ですから、御言葉に留まるところにこそ、本当の自由があるのであります。
今朝は最後に罪を劣等感に置き換えて、自由について考えてみたいと思います。劣等感を抱くことは必ずしも悪いことではありませんが、それが行き過ぎると罪の一つに数えられると思います。例えば、自分の心の奥底に、自分は生きる価値がないのではないかという劣等感があったとします。そのような劣等感を抱いていた人が、イエス・キリストにおいて神さまを知るとき、その劣等感から解き放たれるということが起こるわけです。なぜなら、イエス・キリストにおいて御自分を現された神さまは、その独り子を与えになられたほどに私たちを愛してくださる神さまであるからです。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と言われ、独り子であるイエスさまを十字架の死へと引き渡された神さまであるからです。また、その御子であられるイエスさま御自身も私たちに命を与えるために、自ら十字架の死を死なれたお方であるからです。イエスさまは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と仰せになりました。この神の真理であるイエスさまを知ったとき、私たちは「自分は生きる価値がないのではないか」という劣等感から解放されるのです。神さまに愛されている者として、イエスさまに愛されている者として、自らを愛することを学び始める。さらには隣人を愛することを学び始めるのです。神の愛をいただくことによって、神の愛に包まれることによって、私たちは自由になるのです。それは逆を言えば、私たちは神の愛を忘れるとき罪を犯すということです。私たちはイエス・キリストを信じることによって、もはや罪の奴隷ではありません。私たちはイエス・キリストにあって自由な者、神の子とされています。そして、神の子として歩み続けるために、私たちは御言葉に留まり続けなくてはならないのです。なぜなら、イエス・キリストの御言葉は、どのような厳しい御言葉であっても、私たち一人一人を愛して、私たちの罪のために十字架で死なれた方の言葉であるからです。イエス・キリストの御言葉を愛の言葉として、新しい年も御一緒に聴き続けていきたいと願います。