イエスは世の光 2009年12月13日(日曜 朝の礼拝)
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イエスは世の光
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 8章12節~20節
聖書の言葉
8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
8:13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
8:14 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
8:16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
8:17 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。
8:18 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
8:19 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
8:20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。ヨハネによる福音書 8章12節~20節
メッセージ
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はじめに.
今朝はヨハネによる福音書第8章12節から20節より御言葉の恵みにあずかりたいと思います。
1.イエスは世の光
12節から14節までをお読みいたします。
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしてもその証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか知らない。」
今朝の御言葉は第7章52節からの続きであります。前回学んだ第7章53節から第8章11節までは亀甲の括弧で括られておりました。これは凡例によると「後代の加筆と見られているが、年代的には古く重要である個所」でありました。ですから今朝の御言葉は第7章52節に続くものであり、仮庵の祭りを背景としているのです。仮庵の祭りの期間、夕べになると神殿の婦人の庭にある4つの燭台に火がともされました。それは祭司が梯子をかけて油を注ぐといった大きな燭台で、その光によってエルサレム中が照らされたと言われています。そして、その光の中で祭司は楽器を演奏し、人々は松明をもって歌い躍ったのです。仮庵祭はそのような光の祭りでもあったのです。4つの燭台の火、それはかつてエジプトを脱出し荒れ野を旅したイスラエルの民を導いた火の柱を思い起こさせるものでありました。祭りの間仮小屋に住んだユダヤ人たちは、その燭台の火を見て、かつて先祖を導いた神さまが自分たちと共にいてくださることを覚え、喜びに包まれたのであります。
このような光の祭りである仮庵祭において、イエスさまは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われたのです。このイエスさまの主張は、仮庵の祭りを背景に考えますと、かつて荒れ野においてイスラエルを導かれた主こそわたしであると主張していると読むことができます。あるいは、わたしこそ全世界の民を照らし導くメシアであると主張していると読むことができるのです。イエスさまは「わたしは世の光である」と宣言し、御自分に従う者たちに「暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と約束されるのです。これはイエスさまの招きの言葉でありますけども、ファリサイ派の人々は「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と反論しました。人は自分について証言するときどうしても自分に都合の良いように証言してしまうので、その証言は真実とは見なされなかったのです。しかし、イエスさまはこうお答えになりました。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへいくのか、知らない」。ここでイエスさまは何を言っているのでしょうか。それはファリサイ派の人々が言っていることはふつうの人間においては当てはまるけども、わたしには当てはまらないということです。ふつうの人間であるあなたたちが自分について証しをしてもその証しは真実ではないけども、わたしが自分について証しをしてもその証しは真実であるとイエスさまは言われるのです。あなたたちと言われるファリサイ派の人々とイエスさまの違いがどこにあるのでしょうか。それはイエスさまが御自分どこから来てどこへ行くのか知っているのに対して、ファリサイ派の人々はイエスさまがどこから来てどこへ行くのか知らないということであります。イエスさまは天の御父のもとから来たのでありますけども、ファリサイ派の人々はイエスさまがガリラヤから来たと考えていたわけです。また、イエスさまは天の御父のもとへ行こうとしているのでありますが、ファリサイ派の人々は「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」と訝っていたわけです。このように、ファリサイ派の人々はイエスさまがどこから来てどこへ行くか知りませんでした。そしてそれはファリサイ派の人々ばかりではなく、すべての人間がそうであったのです。ですから人間は誰もイエスさまが御父から遣わされた世の光であることを証言することはできないのです。また、イエスさまは人間からの証言を必要とされないお方でありました。イエスさまは御自分を世の光と言われましたが、ある学者は光について次のような重要な指摘をしています。「すべての世界の対象物がそれ自身について証言するためには光が必要であるが、光は、ある意味において、それ自身について証言している。光はいつも照らしており、決して照らされることはない。光は独特である」。この光についての説明は、イエスさまが「たとえわたしが自分について証しをするとしてもその証しは真実である」と言われたことを納得させてくれます。つまり世の光であるイエスさまは人間の証しを必要とせず、御自身について真実な証しをすることができるのです。すなわちイエスさまの御自分についての証しは、人間の証しを必要としない神の言葉、神の啓示であるわけです(ウ告白1:4参照)。「わたしは世の光である」と言われるイエス・キリストこそ、全世界の人々を照らし、導く啓示の光であるのであります。「光」は聖書において何より「神さま」を象徴的に表しますけども、神の独り子であるイエス・キリストはまさしく世を照らす光であるのです。イエス・キリストこそ、まことの神を知らずに歩んでいる人間に父なる神を示し、命の光を与えてくださるお方なのです。
2.ファリサイ派の人々の反論
15節から18節までをお読みいたします。
あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
ここでイエスさまはファリサイ派の人々に「あなたたちは肉に従って裁くが」と言っておりますが、これは目に見えるところに従って裁くという意味です。すなわち、彼らはイエスさまをふつうの人間として人間の基準をもって裁こうとしていたわけです。しかし、裁かれようとしているイエスさまは「わたしはだれをも裁かない」と言われます。第3章17節に、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とありましたけども、イエスさまは誰をも裁かず罪に定めることをしないのです。しかしそれはイエスさまが裁きの権能を持っていないということではありません(5:22、27)。むしろイエスさまこそが真実な裁きをすることができるお方なのです。なぜなら、イエスさまは一人ではなく、イエスさまを遣わされた御父と共にいるからです。ユダヤ人たちの律法に二人が行う証しは真実であると書いてあるけども、「わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」とイエスさまは仰せになります。ここでイエスさまはファリサイ派の人々の理屈に合わせて発言をしておられます。あなたたちは、あなたたちのは律法によってわたしを裁こうとしているけども、それならわたしはその条件を満たしている。なぜなら、わたしは自分について証しをしおり、共におられる父も証ししておられるからだとイエスさまは言われるのです。しかし、ここでのイエスさまとファリサイ派の人々のやりとりはかみ合っていません。イエスさまは「あなたがたの律法に二人が行う証しは真実であると書いてある。その二人の証人とはわたしと、わたしを遣わされた父だ」と言われましたけども、ファリサイ派の人々からすれば、イエスさまの自分についての証しは無効でありました。しかし、イエスさまは御自分が世の光であることを前提としてこの所を語っているのです。イエスさまは、ファリサイ派の人々の土俵にのっているように見えるのですが、御自分が世の光であり、御父から遣わされた神の御子であるという主張を保つ続けているわけです。イエスさまは自分についての証しが真実であり、また自分と共に御父がおられるゆえに、二人の人間がする証しが真実であるならば、わたしと御父の証しはなおさら真実ではないかと言われるのです。
3.イエスの父
19節、20節をお読みいたします。
彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
イエスさまの「わたしをお遣わしになった父もわたしについて証ししてくださる」との御言葉を受けて、ファリサイ派の人々は「あなたの父はどこにいるのか」と尋ねました。このやりとりもちぐはぐな感じがいたします。イエスさまは神さまのことを指して「わたしを遣わした父が共におり、証ししてくださる」と言っているのでありますが、ファリサイ派の人々はそれを理解せず、人間の父親のことを考えているわけです。第九章にイエスさまが「生まれつきの盲人をいやす」というお話しが記されていますが、そこにはファリサイ派の人々が目が見えるようになった人の両親を呼び出して尋問したことが記されています。ですからこの時もファリサイ派の人々は、イエスさまが言われる父親を呼び出して尋問しようとしたのではないかと思います。そしてそのようにして、ファリサイ派は自分たちがイエスさまの父を知らないことを暴露してしまったのです。なぜならイエスさまが父と呼ばれる神さまは、イエス・キリストを通してお語りになり、その御業をなしておられたからです。第14章で、弟子のフィリポがイエスさまに「主よ、私たちに御父をお示しください」と願う場面が描かれていますが、そこでイエスさまはこうお答えになりました。第14章8節から11節までをお読みいたします。
フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父がその業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
ここでイエスさまが弟子たちに教えられていることは、御自分と御父と霊的な関係であり、三位一体の神の神秘であります。このようにイエスさまは御自分を信じる弟子たちには霊的なことを教えられたのでありますが、自分を殺そうと狙っていたファリサイ派の人々には、「あなたたちは、わたしもわたしの父をも知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ」と答えられたのです。それは彼らが肉に従って、目に見えるところに従ってイエスさまが何者であるかを判断しようとしていたからなのです。そして、肉に従って判断している限り、彼らだけではなく私たちもイエスさまがどこから来てどこへ行くのか。さらにはイエスさまの父がだれなのかが分からないままなのです。それゆえ、私たちはイエス・キリストの御言葉をイエスさまの御言葉であるがゆえに、信じ従うことが求められているのです。
むすび.命の光を持つ
イエスさまは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われましたけども、この「命の光」とは何でしょうか。それは、イエスさまの御言葉が真実であると証言してくださる聖霊のことであります。私たちのうちには御父と御子の霊である聖霊が宿ってくださっている。それゆえ、御父と御子の証しが真実であることが分かるのです(一ヨハネ5:6~12参照)。自分のことを話して恐縮ですが、わたしが洗礼を受けたとき、それほどイエスさまについて知っていたわけでもなく、強い確信があったわけでもありませんでした。けれども、イエスさまに従って歩んでいく中で、聖書に書いてあること、イエスさまの言われていることが本当だなぁと分かってくるわけです。全部分かったから信じるのではなくて、よく分からなくてもイエスさまを信じて歩み出すならば、ちゃんとイエスさまは私たちに命の光である聖霊を与えてくださって、イエスさまの御言葉が真実であることを分かるようにしてくださるのです。これはやってみないと分からない。ちょうど泳ぐということが水の中に体を浮かべてみないと分からないように、イエスさまに従って歩むとき、わたしにも命の光が与えられていることが分かるのです。そのようにして、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」というイエスさまの御言葉は、私たち一人一人のうえに確かに実現しているのです。