クリスマスの喜びはどこから 2009年11月29日(日曜 朝の礼拝)
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ヨハネによる福音書 7章40節~52節
聖書の言葉
7:40 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、
7:41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。
7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」
7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。
7:44 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。
◆ユダヤ人指導者たちの不信仰
7:45 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。
7:46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。
7:47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。
7:48 議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。
7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」
7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。
7:51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」
7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」ヨハネによる福音書 7章40節~52節
メッセージ
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はじめに.
先程は讃美歌の94番を賛美しましたけども、今日から教会の暦では待降節・アドベントに入ります。今日はアドベント第一主日であるわけです。そのことを覚えながら今朝はヨハネによる福音書第7章40節から52節の御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
1.群衆の間に対立が生じる
40節から44節までをお読みいたします。
この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。
「この言葉を聞いて」とありますが、これは前回学んだ37節、38節に記されているイエスさまの御言葉であります。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。このイエスさまの御言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたのです。前回お話ししたことでありますが、仮庵の祭りは水の祭りでもありまして、七日間水の儀式が行われておりました。それは神さまがエジプトを脱出して荒れ野を歩むイスラエルの民に飲み水を与えてくださった恵みを覚える儀式でもありました。神さまが荒れ野にいたイスラエルを天からのパン・マンナで養われたことは以前お話ししましたが、神さまは岩から水を出させるという仕方で、イスラエルの渇きを癒されたのです。旧約聖書の出エジプト記第17章1節から6節までをお読みいたします。
主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたなかったので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
モーセが岩を杖で叩くことによって水を出させ、イスラエルの渇きを癒されたように、預言されていたモーセのような預言者もイスラエルの民に水を与えるとユダヤ人たちは信じておりました。それゆえ、イエスさまの御言葉を聞いた群衆のある者たちは、「この人は、本当にあの預言者だ」と言ったのです(申命記18:15参照)。
ではヨハネによる福音書に戻ります。
また群衆の中には「この人はメシアだ」と言う者もおりました。メシアとは「油を注がれた者」という意味で、イスラエルにおいて王や祭司が任職する際に頭に油を注いだことに由来する名称であります。「メシア」と訳されているギリシア語は「クリストス」であり、その日本語表記が「キリスト」であるわけです。メシアはヘブライ語の名称であり、キリストはギリシア語の名称でありますが意味は同じであります。群衆の中には「この人はメシアだ」「この人はキリストだ」と言う者たちがいたのです。メシアやキリストは、もともとは「油を注がれた者」という意味であると申しましたが、文脈から言えば「聖書が預言している救い主」を意味すると理解していただいてよろしいと思います。群衆の中には、「この人は聖書が預言している救い主だ」と言う者たちがいたわけです。しかし、それに対して疑問を投げかける声もありました。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」。これは聖書に基づく反論でありますね。旧約聖書のサムエル記下の第7章に「ダビデ契約」と呼ばれる御言葉が記されております。長いですがその所をお読みいたします。サムエル記下の第7章1節から17節までをお読みいたします。
王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった。王は預言者ナタンに言った。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」ナタンは王に言った。「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます。」しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次のとおりであった。
「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去り葉しない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに告げた。
預言者ナタンを通してダビデに告げられた主の御言葉のゆえに、約束の救い主はダビデの子孫から起こされるとユダヤの人々は信じていたわけです(詩編89)。 また、ミカ書の第5章を見ますと、来るべきメシアがダビデの出身地であるベツレヘムから出ることが預言されております。ミカ書第5章1節をお読みいたします。
エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
このようにミカは、ダビデの出身であったベツレヘムからイスラエルを治めるメシア、救い主が出ると預言していたわけです。しかしそれにしても、終わりの所に「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」と記されていることは、ヨハネ福音書のプロローグを思い起こさせる意味深長な言葉であります。
ではヨハネによる福音書に戻ります。
今御一緒に、旧約聖書のサムエル記下やミカ書から確認しましたように、確かに「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出る」と聖書に書いてありました。ですから、42節の群衆の言葉は聖書に基づく正しい批判と言えるわけです。そして、マタイによる福音書とルカによる福音書を読みますと、まさしくイエス・キリストは、ダビデの子孫として、ベツレヘムでその産声を上げたと記されているわけであります。けれども、不思議なことにヨハネはそれについて述べておりません。マタイによる福音書とルカによる福音書は、ベツレヘムで生まれたイエスさまがガリラヤのナザレで育ったことを記し、イエスさまはガリラヤのナザレで育ったけれども、実は生まれたのはダビデの村ベツレヘムであったと記しているのに対して、ヨハネはイエスさまがベツレヘムで生まれたことを記さないのです。むしろヨハネはイエスさまが永遠から神と共におられる神の独り子であったことを何より強調して記したわけです。先程、ミカ書第5章に「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」という意味深長な言葉があると申しましたが、イエスさまの出生は、まさしく時間がつくられる前の永遠にまでさかのぼることができるのです。しかし、ユダヤ人たちはイエスさまを自分たちと同じ単なる人間であり、ガリラヤ出身であると考えていたのです。福音書記者ヨハネもそれを弁明しようとしないのでありますが、マタイ福音書やルカ福音書の知識を持っている私たち読者は、ユダヤ人たちが誤解していることに気づくような仕組みになっているわけです。いずれにせよ、イエスさまの御言葉を聞いて、群衆の中にイエスさまをメシア、救い主と言う者もいれば、そうではないと言う者もあり、そこに対立、分裂が生じたということであります。そして、その中にはイエスさまを捕らえようとするほどに、敵意を抱く者たちもいたのです。
2.あの人のように話した人はいない
45節から49節までをお読みいたします。
さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻っ来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。 少し前の32節に、「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした」とありましたけども、この下役たちが戻ってきたことがここに記されています。祭司長たちやファリサイ派の人々が「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と問うたのに対して、下役たちは「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えました。これは興味深い発言だと思います。マルコ、マタイ、ルカの共観福音書を見ますと、群衆を恐れてイエスさまを捕らえることができなかったと記されています。イエスさまをあの預言者、またメシアと信じる群衆を恐れてイエスさまに手出しすることができなかった。それはおそらく、この下役たちも同じであったと思います。しかし、ここで下役たちは「今まで、あの人のように話した人はいません」と自分たちがイエスさまを捕らえられなかった理由を述べているのです。これは下役たちも、イエスさまの御言葉の中に、人間の存在を越えるものを聞き取ったことを表しています。イエスさまを通して人を越えたお方、すなわち神さまが語っておられることを認める発言を下役たちはしているわけです(ヨハネ14:24)。それゆえ、ファリサイ派の人々は「お前たちまで惑わされたのか」と罵るわけであります。この「惑わす」ということが祭司長たちやファリサイ派の人々が問題にしていたイエスの罪でありました。イエスは群衆を惑わしている。それゆえ、イエスは逮捕されなければならないと彼らは考え行動したわけです。惑わす者については、旧約聖書の申命記第13章2節から6節にこう記されています。
預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
そもそも、なぜ、ユダヤ人たちはイエスさまを殺そうと考えたのでしょうか。それは、ヨハネ福音書の第5章18節に記されていたように、イエスさまが安息日を破るだけではなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからでありました。これはユダヤ人たちからすれば、主なる神を礼拝するように、自分を礼拝することをイエスは求めたと言えるわけです。イエスは自分を神と等しい者とすることによって、「イスラエルの神、主は唯一の神である」という最も根本的な信仰から群衆を惑わす危険人物であるとユダヤ人たちは考えたのです。ですから、彼らは律法に従って、下役たちを遣わし、イエスを捕らえようとしたわけです。ファリサイ派の人々によれば、律法を知っている議員やファリサイ派の人々の中にはイエスを信じた者はおらず、イエスを信じたのは律法を知らない群衆だけだと言うのです。なぜ、群衆はイエスを信じたのか。それは、彼らが律法を知らない呪われた者たちだからだと言うのであります。ここで「呪われている」という言葉が使われていますが、これも申命記の第27章26節に基づく言葉であります。そこにはこう記されています。
「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。
このようにファリサイ派の人々は、群衆がイエスさまを信じたのは律法を知らないためであると憎々しげに結論するわけです。けれども、この彼らの結論に疑問を投げかける者がおりました。それは彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモであったのです。
3.律法を守らない律法の専門家たち
ではヨハネによる福音書に戻ります。
50節から52節までをお読みいたします。
彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」
第3章にイエスさまのもとをニコデモが夜訪ねてきたことが記されておりました。第3章1節、2節にこう記されています。
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であると知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
このようにニコデモはイエスさまに好意を抱いている人物であったのです。ニコデモは、しるしを見て、あなたは神のもとから来られた教師であるとイエスさまに言ったのでありますが、その後イエスさまから「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」との教えを受けました。ですから、下役たちの「今まで、あの人のように話した人はいません」という言葉を聞いて、そうだ、その通りだと思ったのではないでしょうか。そのニコデモがイエスさまを弁護するように、このように言うのです。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたか確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」。ここで「我々の律法によれば」とありますように、申命記の第1章16節以下には裁判について次のように記されています。
わたしはそのとき、あなたたちの裁判人に命じた。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。」
この申命記の御言葉に基づいて、ニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と言ったわけです。このニコデモの発言は次の二つのことを私たちに教えてくれます。一つは、48節でファリサイ派の人々が「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」と言いましたが、ニコデモのようにひそかにイエスさまを信じる者たちがいたということです(ヨハネ12:48)。二つ目は、自分たちは律法を知っていると豪語しているファリサイ派の人々が最も基本的な掟を守っていなかったということです。これは福音書記者ヨハネの皮肉であると読むこともできます。ファリサイ派の人々は、群衆がイエスを信じるのは律法を知らないからであると言うのですけども、このニコデモの指摘によって、彼らが本当に律法を知っているのかが疑問視されるわけです。このニコデモの言葉にファリサイ派の人々は頭に来たのでしょう。彼らは答えてこう言いました。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者が出ないことが分かる」。これは41節で群衆が言っっていた言葉と同じことであります。ここで再び問題はイエスさまの出身へと戻って行くわけです。ファリサイ派の人々は、「聖書をよく調べれば、ガリラヤから預言者は出ないことが分かる」と申しましたけども、ヨナ書に出てくるアミタイの子ヨナはガリラヤの出身であります(列王記下の14:25)。また、このファリサイ派の人々の発言は、これまでガリラヤから預言者がでなくとも、神さまは新しくガリラヤから預言者を起こすことができることを考慮に入れておりません。彼らは、イエス・キリストにおいて神さまが新しい啓示を与えてくださるということを考慮に入れていないのです。そしてかつて与えられた啓示である律法によって、新しい啓示を頑なに拒み続けるのです。
むすび.クリスマスの喜びはどこから来るか
メシアはガリラヤから出るのではなく、ダビデの子孫で、ダビデの村ベツレヘムから出る。この群衆とファリサイ派の主張に対して、私たちは反対するものではありません。むしろ、マタイ福音書やルカ福音書の降誕物語を知っている私たちはアーメンとさえ言えるのです。しかし、福音書記者ヨハネは、イエスさまがベツレヘムから生まれたことを記さずに、ガリラヤから出たものとして記しました。ユダヤ人の誤解を誤解のままに放っておくような書き方をしているわけです。なぜそのような書き方をしたのでしょうか。一つ考えられることは、ヨハネがイエスさまの生まれをガリラヤでもベツレヘムでもないと考えていたということです。この説教のはじめに、今日は待降節、アドベントの第一主日であると申しました。待降節は、イエスさまのお誕生を祝うクリスマスを待ち望む期間でありますけども、そのクリスマスの喜びはどこから来るのかを考えていただければ、ここでヨハネが強調したいことがお分かりいただけると思います。私たちはクリスマスをお祝いしますし、イエスさまがお生まれになっていから2000年もの間、教会はクリスマスをお祝いしてきました。それはイエスさまがベツレヘムで生まれたからなのでしょうか。確かにイエスさまはベツレヘムで生まれましたけども、究極的に言えばそうではないわけです。クリスマスの喜びはどこから来るのか。クリスマスの喜びはベツレヘムからではなくて、天から来る。永遠の神の独り子が私たちを救うために、私たちと同じ人となって生まれてくださった。そこにクリスマスの究極的な喜びがあるのです。もしイエス・キリストがユダヤ人たちが考えていたようにただの人間であったならば、ベツレヘムから生まれようとも、クリスマスの喜びはなかったのです。クリスマスの喜びは、神さまが私たちを救うために、愛する独り子を人として遣わしてくださったことに尽きるわけであります。クリスマスの喜びは天から来ることを覚えまして、クリスマスを待ち望む待降節を歩んで行きたいと願います。