正しい裁き 2009年11月08日(日曜 朝の礼拝)

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正しい裁き

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章10節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。
7:11 祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。
7:12 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
7:14 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。
7:15 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、
7:16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。
7:17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。
7:18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。
7:19 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」
7:20 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」
7:21 イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。
7:22 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。
7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。
7:24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」ヨハネによる福音書 7章10節~24節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝は、ヨハネによる福音書第7章10節から24節より御一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと思います。

1.隠れるようにして祭りに上ったイエス

 10節から13節までをお読みいたします。

 しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。

 前回、私たちはイエスさまが兄弟たちの勧めを退けて、「あなたがたはこの祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである」と言われてガリラヤにとどまられたことを学びました。けれども今朝の御言葉では、「しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」と記されています。これだけを聞きますとイエスさまの言葉と行動が一致していないように思えます。今朝ははじめにこのことを考えてみたいと思います。イエスさまは8節で「わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである」と仰せになりました。前回も申しましたように、ここでの「わたしの時が来ていないからである」は、「わたしの時が満ちていないからである」と訳すことができます。ですから、一つの理解はイエスさまが「わたしはこの祭りには上って行かない」と言われたのは、兄弟たちが勧めた「自分を世にはっきり示すため」であったと言うことであります。イエスさまは自分を世にはっきり示すために仮庵の祭りには上って行かないと言われたのであって、祭りそのものに行かないと言われたのではないと理解するのです。その証拠にイエスさまは兄弟たちが祭りに上っていたとき、人目を避け、隠れるようにして上って行かれたのでありました。これはイエスさまの時が満ちる過越の祭りとは対照的であります。イエスさまがおよそ半年後の過越の祭りにエルサレムに上られる場面が第12章の12節以下に記されておりますが、そのとき群衆はイエスさまをイスラエルの王として喜び迎えるわけです。また、イエスさまもろばの子にのってまさしくイスラエルの王として入城されるわけであります。しかし、その半年前の仮庵の祭りでは、イエスさまは人目を避け、隠れるようにして上って行かれたのです。これは具体的にはどのようなことを言っているのかと言いますと、当時、エルサレムに上って行くにはその町や村ごとにまとまって上って行ったわけであります。ナザレの村ならナザレの村に住む人がまとまって、詩編にあります「都に上る歌」(120~134編)を歌いながらエルサレムへと上って行ったのです。もし、イエスさまがそのような巡礼団と一緒に祭りに上って行ったならば、それこそ何が起こるか分かったものではありません。イエスさまの御意志に反して、この方こそ来るべきメシアであると担ぎ出されてエルサレムに入城するなんてことも起こりかねないわけです。それゆえ、イエスさまはこの巡礼団とは別に、人目を避け、隠れるようにして上って行かれたのでありました。それほどにイエスさまは世が御自分を憎んでいることをまざまざと感じておられたのです。イエスさまは兄弟たちの意志に従ってではなく、御自分の自由な意志によって仮庵の祭りへと上られたのであります。

 11節に、「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、『あの男はどこにいるのか』と言っていた」とありますが、ここでのユダヤ人は、ユダヤの指導者たち、祭司長たちとファリサイ派の人々を指しているようであります。前回も申しましたように、ユダヤ人の男子は、ユダヤの三大祭りである過越祭、五旬祭、仮庵祭に出ることが義務付けられておりました。それゆえイエスさまを殺そうとしていたユダヤ人たちは、仮庵祭こそイエスさまを捕らえるチャンスであると考えていたのです。よってユダヤ人たちはイエスさまを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言ったいたのであります。このようなユダヤ人たちをよそに、群衆の間ではイエスさまのことがいろいろとささやかれておりました。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もおりましたけども、しかし、ユダヤ人たち、祭司長たちとファリサイ派の人々を恐れてイエスさまについて公然と語る者はいませんでした。ユダヤ人たちを恐れてイエスさまについて公然と語ることができない重々しい雰囲気であったわけです。

2.神殿で教えるイエス

 14節から18節までをお読みいたします。

 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」

 仮庵の祭りは8日間に渡って祝われましたから、「既に半ばになったころ」とは4日目を指しています。ユダヤ人たちがイエスさまを捜すのを諦め、群衆がイエスさまを話題にしなくなっていたとき、イエスさまは神殿に上り、公然と教え始められたのです。このイエスさまの教えを聞き、ユダヤ人たちは驚いてこう申しました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。このユダヤ人たちの言葉は一見ほめ言葉のようでありますけども、実はイエスさまを引き下げる言葉であります。ユダヤ人たちはイエスさまについて「この人は、学問をしたわけでもないのに」と申しましたが、この所を新改訳聖書は、「この人は正規に学んだことがないのに」と訳しています(「正規」とは「正式にきめられていること、正式の規定」の意味)。また、フランシスコ会の翻訳聖書は「この人は先生についたこともないのに」と訳しています。これらの翻訳から分かりますように、イエスさまは当時の律法学者たちのように専門の教育を受けたわけではなかったのです。使徒言行録の第22章でパウロは、自分はエルサレムで育ち、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けたと語っています。そのように律法の専門的な教育を受けるためには、有名なラビのもとに弟子入りする必要があったのです。けれどもイエスさまはどうであったかと言いますと、イエスさまは有名なラビに弟子入りして正規に学んだことがなかったのです。ユダヤ人たちはいわばイエスさまをもぐりのラビだと言っているわけです。確かにここでユダヤ人たちはイエスさまが聖書をよく知っていることを認めておりますけども、しかし、そこには当然疑問符が付けられているわけです。それは律法学者の伝統を離れて、自分から語っているのではないかという疑問符であります。そしてもしそうならば、それは聞くに価しないものであったのです。

 このユダヤ人たちの考え方というのはある意味当然の考え方なのだと思います。そのことは律法学者を現在の御言葉の教師に置き換えて考えてみればお分かりいただけると思います。私は御言葉の教師として、このように説教をしておりますけども、それは私たちの教会の正規の手続きを経てのことであります。わたしが洗礼を受けました坂戸教会の小会の推薦を受けて中会の教師候補者となり、大会が経営する神戸改革派神学校の本科生として3年3ヶ月の学びをなし、中会の説教免許試験に合格し、さらには中会が委託している大会の教師試験に合格して、中会で按手を受け、羽生栄光教会に遣わされて、今このように御言葉の教師として立っているわけです。もしそのような手続きなしに、ここに立とうしてもそれは無理なことでありまして、いくら聖書を独学してくわしく知っているからと言っても、やはりそれは聞くに価しないと判断されるのではないかと思うのです。神戸改革派神学校や改革派神学研修所の目的は、「歴史改革派信仰に立って、キリスト教教師の養成と正統神学の建設をなすこと」でありまして、そこには強力な伝統主義があるわけです。歴史的改革派信仰の総決算と言えるのが17世紀に作られたウェストミンスター信仰基準でありまして、私たちの教会はこれに前文を付したものを憲法としているわけであります。私たちの教会は「日本キリスト改革派羽生栄光教会」でありまして、そこでは歴史的改革派信仰に基づいた聖書の解き明かしがなされねばならないわけです。そのような意味で、私たちも歴史的改革派信仰という伝統の中で聖書を学んでいるわけです。ですから、日本キリスト改革派教会の教師は、自分の思いのままに御言葉を解釈するのではなくて、歴史的改革派信仰に基づいて御言葉を解き明かすことが求められているのです。そのような意味でオリジナリティーを求めることは危険な行為であるわけです。

 ユダヤ人たちの「この人は、先生についたことがないので自己流で語っているにすぎない」という批判に対して、イエスさまは「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」とお答えになりました。そして続けて、この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか分かるはずである」と言われるのです。ここでイエスさまは聞く側であるユダヤ人の方を問題にしておられます。わたしの教えが神から出たものであることが分からないのは、あなたがたが御心を行おうと願って聞いていないからではないのいかとイエスさまは問われているのです。17節に「わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」とありますけども、ここでの「わたしが勝手に話しているのか」という言葉を口語訳聖書は、「わたし自身からでたものか」と訳しています。すなわち、ここでは教えの出所が問われているわけです。神さまを源とする教えなのか、自分自身を源とする教えなのかがここで問われているわけであります。ユダヤ人たちは、イエスさまがいくら聖書をよく知っていても、それは正規の教育を受けたわけではないから、聞くに価しないと批判しました。けれどもイエスさまは、御自分の教えが御自分を遣わされた神さまを源とするものであり、神の御心を行おうとする者はそのことが分かるはずだと言われたのです。そして、さらに自分から出た教えを語る者がどのようなものであるかを教えられるのです。18節。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」。ここでの「自分勝手に話す者」という言葉も「自分自身から話す者」と訳すことができます。口語訳聖書は「自分から出たことを語る者」と訳しています。ラビとしての正規の教育という基準をもってイエスさまを裁いたユダヤ人たちが、ここでは逆にイエスさまから「だれの栄光を求めているか」という学ぶ者の心を基準として裁かれているのです。詩編の第115編に、「わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって」という御言葉がありますけども、そのような心で御言葉を学び続けているかが今朝私たちにも問われているのです。

 ここでイエスさまは「栄光」について語っておられますけども、すでに第5章41節以下でこう仰せになっておりました。「わたしは人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内に神への愛がないことを、わたしたちは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、他の人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受け入れるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか」。

 このイエスさまの御言葉を念頭に置くとき、イエスさまはユダヤ人たちにこう言われたと理解することができます。「自分の栄光を求めるあなたたちこそ自分自身から語る者であり、自分をお遣わしになった方の栄光を求めるわたしこそが、真実な人であり不義がない者である」。そしてイエスさまは御自分が真実で不義がないことを証明するために、モーセの律法について言及されるのです。

3.律法を破っているのはどちらか

 19節から24節までをお読みいたします。

 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。-もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが- だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

 イエスさまはユダヤ人たちが律法を持っていることは認めますけども、誰もそれを守ろうとしていないと仰せになりました。なぜなら、ユダヤ人たちは真実であり不義がないイエスさまを殺そうとしていたからです。ここでは明らかに十戒の第6戒である「殺してはならない」が念頭に置かれています。ユダヤ人たちは「殺してはならない」という掟を持っていながら、真実であり不義がないイエスさまを殺そうとしていたのです。ですからイエスさまは、「あなたたちのだれもその律法を守らない」と言われたのであります。このイエスさまの御言葉を聞いて、群衆は「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか」と答えました。「悪霊に取りつかれている」とは「気が変になっている」ということを意味する悪口です(ヨハネ10:20参照)。現代的に言えば、「被害妄想もはなはだしい。一体だれがあなたがたを殺そうというのか」となるかと思います。ある人は、群衆はユダヤ人たちがイエスさまを殺そうとしていたことをしらなかったのでこう答えたと解釈しています。しかし、わたしにはどうもそのようには思えないのです。13節に記されていましたように、群衆はユダヤ人たちを恐れて公然と語ることができませんでした。それはユダヤ人たちがイエスさまを殺そうと考えていたことを知っていたからではないでしょうか。また25節には、「これは人々が殺そうとねらっている者ではないか」と言う者たちの声が記されています。こう考えてきますと、この群衆はもはやユダヤ人と区別することができない者たちとして描かれているということが分かるのです。しかし、イエスさまはこの群衆の答えに触れることなく、群衆を含めたユダヤ人たちが、そもそもなぜ御自分を殺そうとしているのかについてお語りになるのです。この21節でイエスさまが言及されている「一つの業」とは第5章に記されておりましたベトザタの池の病人を癒されたことを指しております。このベトザタの池の病人の癒しも、ユダヤ人の祭りのときにエルサレムで行われたものでありましたので、どうやら多くのユダヤ人たちに強い印象を残していたようであります。この病人の癒しが安息日に行われたがゆえに、ユダヤ人たちはイエスさまを安息日の掟を破る者として迫害し、さらにはイエスさまが神を父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたゆえにますますイエスさまを殺そうとねらうようになったのでありました(ヨハネ5:16,18参照)。安息日については十戒の第4戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と定められておりました。ユダヤ人たちはイエスさまの癒しの業は安息日に禁じられている医療行為にあたると判断したわけです。そして、そのようなユダヤ人たちに、イエスさまは、「しかしそう言いながら、あなたたちは安息日であってもモーセの律法を破らないようにと割礼を施しているではないか」と反論されるのです。割礼についてはレビ記の第12章2節に「八日目にその子の包皮に割礼を施す」と記されています。また、イエスさまが「これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが」と言われているように、創世記の第17章を見ますと、神さまがアブラハムに、契約のしるしとして子孫に割礼を施すことを命じておられます。そのように割礼とは神の救いに入れられていることのしるしであったわけです。それゆえ、割礼を施すべき八日目が安息日であってもユダヤ人たちは割礼を子供に授けていたのであります。安息日に割礼を受けてもそれは安息日の掟を破ることにはならないとユダヤ人たちも教えていたのです。そうであれば、わたしが安息日に38年もの間寝たきりであった人の全身をいやしたからといって腹を立てる理由がどこにあるのかとイエスさまは言われるのです。割礼は契約のしるしであり、神の救いに入れられていることのしるしでありました。その割礼を安息日であっても授けてよいならば、救いそのものと言える全身のいやしはなおさらではないのかとイエスさまは仰せになるのです。安息日であっても、救いのしるしである割礼を授けることは許されて、救いそのものと言える全身の癒しは許されないとするならば、それはうわべだけで裁いているのであり、正しい裁きをしていないとイエスさまは仰せになるのであります。

むすび.正しい判断を

 話は変わるようでありますが、私たちは信仰告白としてウェストミンスター小教理問答を告白しています。いまちょうど十戒について告白をしておりますが、小教理はどの掟についても「求めていること」と「禁じていること」の二つの面から告白しています。わたしは今朝の説教を準備しながら、やはりこの二つの面から考えることが大切だなぁと思わされたわけです。出エジプト記の第20章を見ますと第4戒の安息日の掟が次のように記されています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目はあなたの神、主の安息日であるからいかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。

 この第4戒を「禁じていること」から見ますと「いかなる仕事もしてはならない」という所が注目されるのだと思います。そしてこれこそユダヤ人たちが注目した点であったのです。けれども、この掟をはじめから読むならば、ここで最も大切なこととして求められていることは、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」ということであるのです。むしろ、いかなる仕事もしてはならないのは、安息日を聖別するための手段なのであります。神さまの御栄光を現す礼拝をささげるために、イスラエルは安息日に働くことを禁じられていたのでありました。しかし、ユダヤ人たちは禁じられていることばかりに目を向けて、細則をつくってあらゆる労働を禁止したのであります。けれども、イエスさまはそのようなユダヤ人でもモーセが与えた割礼だけは安息日でも行っていることに目をつけられたわけです。そして、モーセは安息日であっても割礼を命じたとするユダヤ人たちの解釈に立って、安息日は救いの業をさまたげないことを教えられたのであります。安息日にはすべての業が禁じられているのではなく。割礼に象徴される救いの業は許されている。それゆえ、イエスさまが全身をいやされた一つの業は、安息日にこそふさわしい業であったのであります。イエスさまが38年もの間寝たきりの人を癒されたことは安息日を破ることではなくて、むしろ安息日の目的を実現する業であったのです。これがすべての人に求められている正しい裁き、正しい判断なのです。イエス・キリストというお方をどのようなお方として判断するのか。そのことがすべての人に求められているのです。私たちがうわべだけで判断することなく、正しい判断をしていくことができますように、日々、聖霊なる主の導きを祈り求めたいと願います。

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