イエスの肉と血 2009年10月04日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの肉と血

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章51節~59節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
6:52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
6:59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。ヨハネによる福音書 6章51節~59節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝は、ヨハネによる福音書第6章51節から59節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

1.カファルナウムの会堂で

 今朝の御言葉の最後である59節に「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである」と記されております。わたしは今皆さんの前に立って説教をしておりますけども、イエスさまもこの時カファルナウムの会堂でユダヤ人たちを前に説教をしておられたのです。そのような状況を思い浮かべますと、ユダヤ人たちが互いにつぶやき合い、互いに激しく議論し始めた理由も分かってきます。わたしの説教を聴いてくださっている皆さんは、心の中でつぶやいたり、疑問を投げかけることはあっても秩序を重んじて静かに聴いてくださっています。けれども、この時のイエスさまの説教を聴いていたユダヤ人たちはそうではありませんでした。イエスさまが「わたしは天から降って来たパンである」と教えられれば互いにつぶやき、イエスさまが「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と教えられれば互いに激しく議論し始めたのです。そのような聴衆のつぶやきや議論をイエスさまの方で汲み取ってくださって、さらに教えが深められていく。そのような構造にイエスさまの教えはなっております。ちなみに、59節の「これら」は、第6章22節から始まるイエスさまのお話を指しているわけですが、22節から40節まではどうも会堂での教えとは考えにくいのです。24節に「群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちも小舟に乗り、イエスを探し求めてカファルナウムに来た」とありますから、イエスさまがカファルナウムで教えられたことは間違いないのですが、どうも会堂で教えられたように思えないのです。そのようにわたしが考えるのには2つの理由があります。1つは、22節から40節までは群衆が直接イエスさまに疑問を投げかけていることです(25、28、30、31、34)。もう一つ理由は、22節から40節まで「群衆」と呼ばれていた人々が41節以降「ユダヤ人たち」と呼ばれていることです。こう考えてきますと、22節から40節までは、25節に「そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると」とありますように浜辺でイエスさまが群衆にお語りになったお話しであり、41節以下は会堂でユダヤ人たちにお語りになったお話しであったと推測することができます。もともとは浜辺と会堂という異なる状況で語られたイエスさまのお話を、福音書記者ヨハネが編集して一つにまとめ上げたものが22節から59節までのイエスさまの教えであると言えるのです。そして、福音書記者ヨハネは、59節の「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである」と改めて記すことによって、読者にもひとまとまりのイエスさまの教えとして読むことを求めているのです。

2.ユダヤ人たちの議論

 前置きが長くなりましたが、今朝の御言葉を初めから読み進めていきたいと思います。51節から53節までをお読みいたします。

 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。

 イエスさまの「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」との御言葉を聞いて、ユダヤ人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論し始めました。前回、50節の「しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者はしなない」というイエスさまの御言葉を解説したときに、わたしは「これを食べる者」とは、イエスさまをヨセフの息子ではなくて天から降って来た神の独り子と信じる者のことだと申しました。そうであれば、ここでユダヤ人たちはイエスさまが象徴的に言われたことを文字通りにとらえてしまったのでしょうか。ちょうど34節で群衆が、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と文字通りのパンをイエスさまに求めたように、ここでも彼らはイエスさまが象徴的に言われたことを文字通りにとらえ誤解してしまったのでしょうか。どうもそうではないようです。なぜなら、イエスさまは、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と仰せになるからです。イエスさまはユダヤ人たちが激しく議論した「どのようにして」ということには応えられませんでしたが、彼らが文字通り御自分の肉を食べることを肯定されました。それどころか神の御子の権威をもって、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と仰せになるのです。ここで「人の子」とあります。「人の子」とはイエスさまが御自分についてお語りになるときの決まった言い回しでありますが、すでに学んだ第5章26節、27節にこう記されておりました。「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」。イエスさまが「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と仰せになるとき、その「人の子」とは、御父から自分の内に命を持つようされた、裁きの権能を委ねられた神の独り子であられるのです。そのような「神の独り子であるわたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とイエスさまは言われるのであります。これを聞いたユダヤ人たちはますます激しく議論したと思います。といいますのは、モーセの律法には、「生き物の命は血の中にあるから、決して血を食べてはならない」と禁じられていたからです(レビ記17:10~14)。まして人の血はとんでもないこと。考えただけでも身の毛がよだつおぞましいことだとユダヤ人たちは思ったはずです。イエスさまの言われていること、イエスさまが御自分の肉を食べさせ、血を飲ませられるということは文字通りに思い描くならば、ユダヤ人でなくても身の毛のよだつ、おぞましいことであります。けれども、この福音書の最初の読者たちは、ここでのイエスさまの教えが「主の晩餐」のことを指していることにすぐに気がついたと思います。それは現代の私たちキリスト者においても同じでありまして、私たちがユダヤ人たちのように激しく議論し始めないのは、イエスさまが聖餐について教えてくださっていることを前提としてこの所を読むからです。マルコ、マタイ、ルカのいわゆる共観福音書は、イエスさまが十字架につけられる前の晩に、弟子たちと主の晩餐を祝われたことを記しております。ここではルカによる福音書をお読みいたします。ルカによる福音書第22章14節から23節までをお読みいたします。

 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るそのものは不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

 このようにイエスさまによって制定された主の晩餐は、初代教会において「パン裂き」と呼ばれ毎日、あるいは主の日ごとに行われておりました(使徒2:42,45、20:7)。このように聖餐を祝っていた最初の読者たちは、イエスさまが、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ命はない」と言われたとき、イエスさまが主の晩餐において与えてくださるパンとぶどうの汁にあずかり続けることを求めておられるとすぐに理解することができたはずです。また、毎月第一主日ごとに聖餐を祝っている私たちも、この所を聖餐式を前提として読んできたはずです。ですから、イエスさまが「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない」と言われるとき、ここでの食べること飲むことは「信じる」ことの象徴ではなくて、文字通りの食べること飲むことを意味しているのです。いやむしろこう言った方がよいかも知れません。イエスさまは、私たちが信じて食べること、信じて飲むことを求めておられるのです。

3.イエスの肉と血

 ヨハネによる福音書に戻ります。

 54節から57節までをお読みいたします。

 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。

 ここには、イエスさまの肉を食べ、血を飲む者にもたらされる利益が記されています。イエスさまは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と仰せになってくださいました。聖餐式でいただく一欠片のパンを私たちの罪のために裂かれたイエスさまの肉と信じて食べ、少量のぶどう汁を私たちの罪のために流されたイエスさまの血と信じて飲むとき、私たちは永遠の命を与えられ、終わりの日に復活させられることをいよいよ確かなこととして味わい知ることができるのです。なぜなら、十字架の上で裂かれたイエスさまの肉こそまことの食べ物であり、十字架の上で流されたイエスさまの血こそまことの飲み物であるからです。51節でイエスさまが、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われたとき、わたしは前回、ここでイエスさまは御自分の十字架の死を預言していると申しました。イエスさまが与える肉と血は、その十字架の死を通して、御自分を信じる者たちに与えられるよみがえりの命なのです。十字架と復活を抜きにしてイエスさまはよみがえりの命を与えられるのではありません。私たちの罪のために死に私たちの初穂としてよみがえられたお方であるからこそ、聖餐式において御自分の肉と血とをお与えになることができるのです。そうであるならば、私たちはユダヤ人たちと一緒に、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と問わずにはおれないのではないでしょうか。確かに私たちは聖餐式において一欠片のパンと少量のぶどう汁にあずかります。しかし、それがどうしてイエス・キリストの肉を食べ、血を飲むことになるのでしょうか。その答えを教えてくれるヒントが、56節にこう記されています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。ここで「いつも・・・おり」「いつも・・・いる」と訳されている言葉は、「とどまる」とか「つながる」とも訳される言葉です。第15章でイエスさまは弟子たちに、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができなにように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と言われましたが、ここで「つながっている」と訳されている言葉が、「いつも・・・おり」「いつも・・・いる」と訳されているのと同じ言葉なのです。すなわち、イエスさまは、まことのぶどうの木である御自分と弟子たちをつなげるのと同じ仕方で、パンとぶどう汁にあずかる者を御自分との交わりに保ち続けてくださるのです。そしてそれは「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」という最も親密な交わり、聖霊による交わりなのであります。天の父なる神の右に座し給う主イエス・キリストは、御言葉の約束に基づいて、聖霊においてパンとぶどう汁に御臨在してくださるのです。聖霊において御臨在してくださる主イエス・キリストは、栄光の体へとよみがえられた神の性質と人の性質を持つ二性一人格のお方であります。ですから、イエス・キリストが聖霊においてパンとぶどう汁に御臨在してくださると言うとき、それはイエス・キリストの神の性質だけを言っているのではありません。聖霊において御臨在してくださるのは、神の性質と人の性質を持つ二性一人格のイエス・キリストなのです。それゆえ、私たちはパンとぶどう汁を、イエス・キリストの肉と血としていただくことができるのです。パンとぶどう汁を、イエス・キリストの肉と血の単なる象徴としていただくのではありません。あるいは、パンとぶどう汁を、実体においてイエス・キリストの肉と血に変化したものとしていただくのでもありません。そうではなくて、神の性質と人の性質を持つ二性一人格のイエス・キリストが聖霊において御臨在してくださるという約束に基づいて、パンとぶどう汁をイエス・キリストの肉と血として信仰をもっていただくのです。

 そのように御自分の肉と血とにあずかる者たちに対して、イエスさまは続けてこう仰せになりました。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」。

 少し細かいことを言うようですが、この「よって」と訳されている言葉は、「ゆえに」とか「ために」とも訳すことができます。「よって」と訳すと手段を表し、「ゆえに」と訳すと原因を表し、「ために」と訳すと目的を表すということができます。ですから、このところは、「わたしが父のゆえに生きるように、わたしを食べる者もわたしのゆえに生きる」とも訳すことができるわけです(岩波訳)。また、このところは「わたしが父のために生きるように、わたしを食べる者もわたしのために生きる」とも訳すことできるのです。

 個人的なことを申し上げて恐縮ですが、先週、わたしは熱を出しまして何日か伏せっておりました。そのとき、わたしは「何で生きているのかなぁ」「何のために生きているのかなぁ」と考えていたわけであります。そして、熱が下がって説教の準備をしながら、この御言葉にであったときに、わたしはうれしかったわけです。神さまは確かに生きておられるのだなぁと思いました。それは、ここに自分が「何で生きるか」「何のために生きるか」「何によって生きるか」の答えが記されていたからです。イエスさまはこう仰せになります。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父のゆえに生きるように、わたしを食べる者もわたしのゆえに生きる」。またイエスさまはこうも仰せになります。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父のために生きるように、わたしを食べる者もわたしのために生きる」。さらにイエスさまはこう仰せになります。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」。

 イエスさまを天から降って来た命のパンと信じて、聖餐の恵みにあずかる私たちの存在の根拠、目的、手段はイエス・キリストにあるのです。私たちはイエス・キリストのゆえに生きる。私たちはイエス・キリストのために生きる。私たちはイエス・キリストによって生きるのです。

むすび.食べる者を永遠に生かすパン

 58節をお読みいたします。

 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。

 これは22節から始まったイエスさまのお話を総括する御言葉であります。あるいは、1節から15節までに記されていた「5千人に食べ物を与える」というしるしの意味を簡潔に言い表した御言葉とも言えます。実は5千人養いの記述の中には、聖餐を連想させる言葉がいくつもちりばめられているのです。たとえば11節に「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて」とありますが、これは先程お読みしたルカ福音書の主の晩餐でのイエスさまのお姿と重なるものであります。またここでは、パンを人々に分け与えたのは弟子たちではなくイエスさま御自身であると記されています。さらに12節で、イエスさまは、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言っておられますが、これは初代教会の聖餐式において見られたことでありました。このように福音書記者ヨハネは、初めから5千人養いを聖餐と重ねて書き記していたのです。福音書記者ヨハネは、なぜ5千人養いの奇跡と聖餐を重ね合わせて記したのでしょうか。それは五千人養いの奇跡こそが、聖餐の持つ豊かさを最もよく表しているからではないでしょうか。私たちが聖餐式においていただく一欠片のパンは、五千人もの人々を満腹にさせた豊かさを持つ。いやそれどころか、私たちに今永遠の命を与え、私たちを終わりの日に復活させるのであります。そのように私たちが聖餐式においていただくパンとぶどう汁は、かつてイスラエルの民が荒れ野で味わったパンとは全く異なるものなのです。なぜなら、そのパンとぶどう汁には、十字架の死から復活された永遠に生きておられるイエス・キリストが聖霊において御臨在してくださるからです。私たちはこれからその聖餐の恵みにあずかります。このことは偶然のようでありますけども、主のくすしき導きであると信じて感謝しております。

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