天から降って来たパン 2009年9月27日(日曜 朝の礼拝)
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天から降って来たパン
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 6章41節~51節
聖書の言葉
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
6:48 わたしは命のパンである。
6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」ヨハネによる福音書 6章41節~51節
メッセージ
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はじめに
今朝は、ヨハネによる福音書第6章41節から51節より、御言葉の恵みにあずかりたいと思います。
1.ユダヤ人たちのつぶやき
41節、42節をお読みいたします。
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその母も父も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
イエスさまが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたのに対して、ユダヤ人たちはイエスさまのことでつぶやき始めました。このユダヤ人たちの「つぶやき」は、かつてモーセによって導かれ荒れ野を旅したイスラエルのつぶやきを思い起こさせるものであります。前々回に、31節の「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」という群衆の言葉の二重カッコは、旧約聖書の詩編第78編からの引用であると申し上げました。その同じ詩編第78編に次のように記されています。17節から22節までをお読みいたします。
彼らは重ねて罪を犯し/砂漠でいと高き方に反抗した。心のうちに神を試み/欲望のままに食べ物を得ようとし/神に対してつぶやいて言った。「荒れ野で食卓を整えることが/神にできるだろうか。神が岩を打てば水がほとばしり出て/川となり、溢れ流れるが/民にパンを与えることができるだろうか/肉を用意することができるだろうか。」主はこれを聞いて憤られた。火はヤコブの中に燃え上がり/怒りはイスラエルの中に燃えさかった。彼らは神を信じようとせず/御救いに依り頼まなかった。
19節に「神に対してつぶやいて言った」とありますが、「つぶやく」という行為は、神さまを信じない不信仰から出てくるものであるのです。ちなみに、「つぶやく」という言葉を『広辞苑』で調べますと「ぶつぶつと小声で言う」「くどくどとひとりごとを言う」とありました。神さまを試みて「民にパンを与えることができるだろうか」とつぶやくイスラエルの姿と、「これはヨセフの息子のイエスではないか」とつぶやくユダヤ人たちの姿を、私たちは重ねて読むことができるのです。
ヨハネによる福音書に戻ります。
ユダヤ人たちは、イエスさまのことで「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」とつぶやき合いました。イエスさまが、神さまを父と呼び、その父の御心を行うために天から降って来たと言われたのに対して、イエスさまと同じガリラヤ出身のユダヤ人たちは、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」と互いにつぶやくのです。彼らは、イエスさまから「わたしは父の御心を行うために天から降って来た」と聞いても、イエスさまがヨセフの息子であり、その父も母も知っていたがゆえに信じることができなかったのです。それゆえ、彼らはイエスさまの招きに応えようとせず、つぶやき合ったのでありました。
2.引き寄せてくださる父
43節から46節までをお読みいたします。
イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
イエスさまは、ユダヤ人たちの「我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」というつぶやきに対して、ただ「つぶやき合うのはやめなさい」と仰せになりました。そのつぶやきに答えられたのではなくて、つぶやき合うこと、それ自体をやめなさいと言われたのです。そしてイエスさまは、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」と仰せになるのです。ここで「引き寄せる」と訳されている言葉は、他の所では、力づくで重たい網を「引き上げる」とか(21:11)、人を無理に裁判所に「引っ張って行く」と訳されています(ヤコブ2:6)。ですから、イエスさまが「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」と仰せになったとき、それは神さまの全能の御力によって、無理やりにでもイエスさまのもとへ導かれる、そのような神さまの御業について教えられているわけです。イエスさまは、前回学んだ37節で、「父がわたしに与えになる人は皆、わたしのところに来る」と仰せになりましたが、それは言い換えれば、御父の抗うことのできない全能の御力をもってイエスさまのもとへと引き寄せられた人々のことを言っておられるのです。イエスさまは、そのようにして御自分のもとへ来る者たちを皆、終わりの日に復活させてくださるのです。
イエスさまは、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言われましたが、このことは旧約聖書の預言者の書に書いてあることの実現であると仰せになりました。二重カッコで『彼らは皆、神によって教えられる』と記されていますが、これはイザヤ書第54章13節からの引用であります。またここでの「預言者の書」は、もとの言葉を見ると複数形で「預言者たち」と記されているので、このところにはエレミヤ書の第31章も反映されていると解釈されています。はじめにイザヤ書の第54章を見てみましょう。イザヤ書の第54章は、バビロン捕囚から解放されたイスラエルに対する新しい祝福が記されています。その13節に、「あなたの子らは皆、主について教えを受け/あなたの子らには平和が豊かにある」と記されています。イエスさまが「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる」と書いてある」と仰せになるとき、このイザヤ書第54章13節の御言葉を引用しておられるわけです。次に、エレミヤ書の第31章を見てみたいと思います。エレミヤ書の第31章は、「新しい契約」について記している所でありますが、その33節、34節にこう記されています。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。ここに、イザヤ書で預言されていた「あなたの子らは皆、主について教えを受ける」という祝福がどのようにして実現されるのかが記されています。それは神の霊である聖霊によって、私たちの心に神の律法をさずけるという仕方で実現されるのです。
ヨハネによる福音書に戻ります。
イエスさまが、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と仰せになるとき、神さまが抗うことのできない全能の御力によって、御自分の民をイエスさまのもとに引き寄せてくださるということでありました。しかし、それは私たちを強制的に、私たちの意志を踏みにじる仕方で行われるのではないのです。そうではなくて、神さまは、御言葉と聖霊によって私たちを教え、イエス・キリストを信じる者へと造り変える仕方で、私たちを引き寄せてくださるのです。私たちは主の日の礼拝ごとにウェストミンスター小教理問答を告白していますが、その問31で「有効召命」について告白しています。その証拠聖句として今朝の御言葉であるヨハネによる福音書の第6章44節、45節が上げられているのです。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」。こうイエスさまが仰せになるとき、そこで教えられていることは、小教理が告白するところの有効召命についてであるのです。小教理の問31は、有効召命について次のように告白しておりました。「有効召命とは、神の御霊の御業です。これによって御霊は、私たちに自分の罪と悲惨とを自覚させ・私たちの心をキリストを知る知識に明るくし・私たちの意志を新しくするという仕方で、福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのです」。イエスさまが、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」と仰せになる、その父の引き寄せ方は、聖霊によって、私たちに自分の罪と悲惨とを自覚させ・私たちの心をキリストを知る知識に明るくし・私たちの意志を新しくするという仕方によるのです。そのようにして、父なる神は、福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのであります。
しかし、ここでイエスさまが、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」と仰っていることに注目したいと思います。イエスさまは、父から聞いて学んだ者はもうそれで充分だとは言われずに、「わたしのもとに来る」と言われました。それは46節にありますように、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」からです。すなわち、預言者の書に記されている「彼らは皆、神によって教えられる」という終末の祝福は、神のもとから来られたイエス・キリストを通して実現されるのです。父を見た唯一のお方、神のもとから来たイエス・キリストだけが、「彼らは皆、神によって教えられる」という終末の祝福を実現することができるのです。
3.イエスの与えるパン
47節から51節までをお読みいたします。
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
つぶやいていたユダヤ人たちに、イエスさまは「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」と宣言されます。イエスさまは、神のもとから来た御子の権威をもって、「わたしを信じる者は永遠の命を持っている」と仰せになるのです。そして、ユダヤ人たちのつぶやきを吹き消すかのように再度、「わたしは命のパンである」と仰せになるのです。イエスさまは49節で「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」と仰せになっていますが、ここでの「あなたたちの先祖」はもとの言葉から直訳すると「あなたたちの父たち」となります。イエスさまは、「あなたたちの父たち」と言われることによって、自分の父がヨセフではなくて、神であられること強調していることが分かります。イエスさまは、「わたしたちの父たちは荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」とは言いませんでした。イエスさまは、「あなたたちの父たちは荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」と言われたのです。それは、イエスさまがユダヤ人たちが知っていると豪語するヨセフの息子ではなくて、永遠から神と共におられる神の独り子であり、天から降って来た命のパンであられるからです。イエスさまは、「しかし、これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と仰せになりました。イエスさまが天から降って来た命のパンであることは分かりますが、それではそのイエスさまを「食べる」とはどのようなことを指すのでしょうか。それはイエスさまを天から降って来た命のパンとして信じるということです。「わたしは天から降って来たパンである」というイエスさまの御言葉を聞いてつぶやくのではなく、信じること。それが命のパンを食べるということなのです。
今朝の御言葉の最後に、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と記されています。これまでパンを与える方は、イエスさまを遣わされた御父でありましたが、ここではイエスさま御自身であると記されています。イエスさま御自身が、命のパンである御自分を与えになると言われているのです。細かいことを言うようですが、「わたしが与える」の「与える」はもとの言葉を見ると未来形で記されています。これまでイエスさまが「わたしは天から降って来た命のパンである」と言われたとき、それは過去のこと、すなわち御父が御子を人としてお遣わしになられた受肉の出来事を意味しておりました。けれども、イエスさま御自身がそのパンを与えると仰せになるとき、それはこれから起こる十字架の出来事を指し示しているのです。それゆえ、イエスさまが、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われるとき、その肉は、十字架の上で裂かれる体であり、流される血のことを指しているのであります。それゆえ、次回学ぶことになる52節以下では、主イエスの死を記念する主の晩餐に話が移って行くのです。
むすび.プロローグを背景にして読む
主の晩餐については次回学ぶことにしまして、今朝はこの所をこの福音書のプロローグの御言葉との関係から解き明かして終わりたいと思います。
46節に「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」とありましたが、これはプロローグの第1章18節で言われていたこととほぼ同じことであります。そこにはこう記されています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。このように、第6章46節は第1章18節と対応する形で記されているのです。そして、これと同じことが第6章51節と第1章14節にも言えるのではないかと思うのです。つまり、イエスさまの「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」との御言葉は、プロローグの「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という御言葉と対応する形で記されていると読むことができるのです。そのように読むとき、ここで神の御子が人の性質を取られたという受肉の出来事とその肉が裂かれるという十字架の出来事を一つのこととして理解することができるのです。すなわち、神の御子が肉を取られたのは、世を生かすために十字架の上でその肉を裂かれるためであったのです。
イエスさまが、「わたしは天から降って来たパンである」と言われたとき、ユダヤ人たちは、「我々はその父も母も知っている」とつぶやき信じようとはしませんでした。ルカによる福音書が記すところによれば、イエス・キリストはヨセフの許嫁である処女マリアの胎に聖霊によって宿り、お生まれになりました。それだけを聞くならば、誰もがそんなことはあるかとつぶやくのではないでしょうか。イエスさまの父と母と面識がなくとも、「イエスさまは聖霊によって処女マリアの胎に宿ってお生まれになった神の御子である」と聞けば、やはり誰もがつぶやいてしまうのだと思います。けれども、もう少し突っ込んで考えるならば、なぜ、神の御子は、そのような仕方で人としてお生まれにならねばならなかったのでしょうか。なぜ、神さまは愛する独り子を人として、しかも十字架に上げられて肉を裂く人としてお遣わしにならねばならなかったのでしょうか。それは、そのようにしてしか私たち人間の罪を贖うことができなかったからです。この自分の罪を忘れるとき、私たちはイエス・キリストが天から降ってこられた神の御子であることにつぶやいてしまうのです。けれども、聖霊によって心を照らされて私たちの罪がそれほど大きく深いものであることを知るとき、そのことを信じずにはおれなくなるのです。神の御子が罪を他にして私たちと同じ人間となってくださったというこの知らせを、福音として喜んで信じる者となるのであります。そのようにして父なる神は、御自分の民である私たちを主イエス・キリストのもとへと引き寄せてくださったのです。