永遠の命に至る食べ物 2009年9月13日(日曜 朝の礼拝)

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永遠の命に至る食べ物

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 6章22節~33節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」ヨハネによる福音書 6章22節~33節

原稿のアイコンメッセージ

はじめに.

 今朝は、ヨハネによる福音書の第6章22節から33節より、御言葉の恵みにあずかりたいと思います。

1.残された群衆

 ではさっそく、22節から25節までをお読みいたします。

 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを探し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。

 この群衆は、イエスさまのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、イエスさまを王とするために連れて行こうとした人々のことであります。10節に、「イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった」と記されていますが、ここでは一晩経っておりますので、その数はもっと少なくなっていたと思います。しかし、それでもまだ多くの人々が、イエスさまを王とするために連れて行こうと湖の向こう岸、ルカによる福音書が伝えるところによれば、ベトサイダに残っていたのです。その群衆が、「そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子だけが出かけたことに気づいた」のでありました。これは何を言っているのか少し分かりづらいかも知れませんが、こういうことです。イエスさまと弟子たちは、一そうの小舟でカファルナウムからベトサイダまで、ガリラヤ湖を渡ってきました。群衆は、そのイエスさまの小舟を追って後を湖畔を歩いて来たのでした。しかし、その一そうの小舟に乗り込み、出かけたのは弟子たちだけであったのです。従って群衆は、イエスさまがまだこちらの岸に残っているはずだと考え、イエスさまを手分けして捜したのでありました。そして、そのようなときに、他の小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいてきたのです。なぜ、ほかの小舟がティベリアスから近づいて来たのかは分かりませんが、考えられる一つのことは、ティベリアスから来た人々も、イエスさまを求めてやって来たということです。イエスさまがパン五つと魚二匹で五千人を満腹にしたといううわさは、一日の間にティベリアスの町にまで伝わったのではないか。そのうわさを聞いた人々が、イエスさまを求めて、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ、数そうの小舟でやって来たのではないか、こう考えられるのです。それゆえ、彼らは、イエスも弟子たちもそこにいないと知った群衆を快く乗せ、もと来た場所である、向こう岸のカファルナウムへと向かったのでありました。この記述は、ガリラヤ湖の東側の岸にいた群衆が、ガリラヤ湖の西側の岸に移動する経緯を教えておりますけども、同時に、イエスさまが湖の上を歩いて弟子たちの舟に乗り込まれたことを、間接的に証ししているのです。それゆえ、群衆は、イエスさまを向こう岸で見つけると、「ラビ、いつここにおいでになったのですか」と問うているのです。「小舟には弟子たちだけが乗り込み、出かけたはずなのに、どのようにして、あなたはここに来たのですか」、そのような群衆の問いによって、イエスさまが湖の上を渡って、弟子たちの舟に乗り込まれたことが、間接的に証しされているのです。

2.永遠の命に至る食べ物のために働く

 26節から29節までをお読みいたします。

 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

 群衆の、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」という問いに対して、イエスさまは、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」とお答えになりました。ここで、イエスさまは、群衆が自分を捜している理由をずばり言い当てられたわけです。イエスさまと一緒にいれば、パンを腹一杯食べることができる。そのように自分たちの食べ物を確保しようとして、あなたたちはわたしを王にしようとしているに過ぎないとイエスさまは仰せになるのです。そして、それではしるしを見たことにはならないとイエスさまは仰せになるのです。「しるし」とは、その出来事そのものよりも、その背後にある意味を指し示すものであります。イエスさまが、パン五つと魚二匹で、五千人を満腹にされた。これは、驚くべき奇跡であります。そして、群衆はこの奇跡を見て、イエスさまが王になれば、空腹に悩まされることはないと考えたのです。けれどもイエスさまは、それでは、しるしを見たことにならないと言われるのです。そして、またパンを食べて満腹したいと願ってついてきた群衆に、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と仰せになるのです。「朽ちる食べ物」。これは群衆が食べて満腹したパンのことであります。パンを食べて満腹になっても、時間が経てば、また空腹になってしまう。そのようなパンをイエスさまは、「朽ちる食べ物」と言われるのです。考えてみますと、私たちの働きは、第一にこの「朽ちる食べ物」のためであります。生活の最も基礎となる条件として、衣食住が必要であると言われますけども、その中でも食、食べるものは第一のことです。食べなければ、私たちの命はやせ細り、ついには死んでしまうからです。ですから、言うまでもないことですが、イエスさまはここで、朽ちる食べ物のために働くことを禁じているのではありません。人間がパンのために、ご飯のために働くことを前提として、イエスさまは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われているのです。

 「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働く」とは、一体どのようなことを言うのでしょうか。ここでは、まだそれが何であるかは記されていません。ただ一つ明かとされていることは、「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」ということです。「人の子」とは、イエスさま御自身のことであります。父なる神によって、命を与え、裁きを行う者として認証された人の子が、永遠の命に至る食べ物のために働くことを、私たちに食べ物として与えてくださるのです。かつて、イエスさまは第4章34節で、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と仰せになりました。ここでも、そうでありまして、人の子であるイエスさまが私たちに食べ物として与えてくださるのは、「永遠の命に至る食べ物のために働く」ということなのです。注意して欲しいのですが、永遠の命に至る食べ物を、食べ物として与えてくれるのではないのです。イエスさまは、私たちに、永遠の命に至る食べ物のために働くことを食べ物として与えてくださるのであります。

 このイエスさまの御言葉を受けて、群衆は、「では、神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問います。どうやら、ここで彼らは、「永遠の命に至る食べ物」を、神の掟である律法と結びつけて解釈したようです。それは、旧約聖書の箴言の第9章で、擬人化された知恵が、こう呼びかけていたからです。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために。」

 このような箴言の御言葉から考えるならば、永遠の命に至る食べ物とは、神の知恵であり、神の知恵の現れである律法を指すと考えられるわけです。そもそも、彼らは25節で、イエスさまを「ラビ」と呼びかけておりますが、これは律法の偉大な教師に対しての敬称でありました。それゆえ、彼らは、イエスさまが、「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われたとき、神の律法と結びつけて、神の業を行うためには、何をしたらよいか。どの掟を守ったらよいかと問うたのであります。

 それに対してイエスさまはこうお答えになりました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。細かいことを言うようですが、28節で群衆が言う「神の業」は、もとの言葉を見ますと複数形で記されています。つまり、もろもろの業ということです。しかし、29節でイエスさまが言われる「神の業」は、単数形で記されているのです。すなわち、群衆が、「神のもろもろの業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問うたのに対して、イエスさまは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神のただ一つの業である」と答えられたのです。「神の業」。これは「神の要求される働き」のことです。群衆は、「神の要求されるもろもろの働きをするために、どの掟を守ればよいか」と尋ねました。しかし、イエスさまはそれに対して、「掟を守るのではなくて、神がお遣わしになったわたしを信じること、それが神が要求される唯一の働きである」と答えられたのです。神がお遣わしになったイエス・キリストを信じること、それが神さまが私たちに要求される唯一の業なのであります。そして、これこそが、人の子であるイエスさまが、私たちに与えてくださる食べ物であり、永遠の命に至る食べ物のために働くということなのです。

3.神のパン

 イエスさまの、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」との御言葉を聞いて、群衆は、イエスさまが御自分を信じるように招いていることに気づいたようです。しかし、それでは、群衆はイエスさまを信じたかと言えば、そうではありませんでした。彼らはさらなるしるしを求めるのです。31節、32節をお読みいたします。

 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。

 この群衆の言葉を読んで、皆さんは、おかしいなぁ、変だなぁと思われたのではないでしょうか。この群衆の言葉だけを読むと、ガリラヤ湖の東側の岸でなされた五千人養いの奇跡がまるでなかったかのようです。ある人は、こう言ったのは、五千人養いの奇跡を体験していない、ティベリアスから来た人たちであったと説明するのですけども、わたしはそう解釈してしまうと、福音書記者ヨハネがここで伝えようとしていることが台無しになってしまうと思うのです。群衆が、まるで五千人養いの奇跡がなかったかのように、天からのパンを求めたというところに、彼らがしるしを見たからイエスさまを捜しているのではなくて、パンを食べて満腹したからであったことが鮮明に表れているのです。

 当時のユダヤ人たちは、来るべきモーセのような預言者は、モーセがしたのと同じ奇跡をしてくれると期待しておりました。それゆえ、モーセが天からのパンを先祖に与えたように、あなたも、天からのパンを私たちに食べさせて欲しいとイエスさまに求めたのです。30節の最後に、「どのようなことをしてくださいますか」とありますが、元の言葉を見ると、ここは「業」という言葉の動詞形が用いられています。ですから、ここで群衆は、「どんな業をしてくれますか」と問うているのです。イエスさまが、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の求められる唯一の業である」と仰せになったのに対して、その唯一の業を私たちが行うために、あなたはどんな業をしてくれるというのですか。聖書に、「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と書いてあるでしょう。それなら、あなたも私たちに天からのパンを食べさせてください。先祖が、荒れ野で40年間マンナを食べ続けたように、私たちにも、一度ではなくて、いつも天からのパンをください。そうすれば、私たちもあなたが言われる、神が求められる唯一の業をしましょう。これが、ここで群衆が言わんとしていることなのです。

 しかし、それに対してイエスさまは、こう仰せになるのです。32節、33節をお読みいたします。

 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

 ここでイエスさまは、群衆の二つの間違いを正しております。1つは、彼らの先祖に天からのパンを与えて食べさせたのは、モーセではなくて、わたしの天の父であるということ。あなたがたは、モーセが天からのパンを与えたように、わたしにも天からのパンを与えよと言うけれども、あなたがたの先祖に天からのパンを与えたのは、わたしの天の父である、すなわち神さまであると正されたのです。そして、もう一つは、先祖が食べたマンナは、天からのまことのパンではないということです。すなわち、マンナは、神のパン、天から降って来て、世に命を与えるものではないということであります。マンナについては、旧約聖書の出エジプト記の第16章に記されておりますけども、それは翌日まで残しておくと虫がついて臭くなったと記されています。マンナは、まさに朽ちる食べ物であったわけです。現代は、冷蔵庫がありますから、食べ物を新鮮に長く保存できますけども、それでも、この地上の食べ物は、朽ちる食べ物なのです。食べてしばらくの間は満足を与えてくれますが、しばらくすれば空腹を覚え、また食べずにはおれなくなる食べ物なのです。「マンナが、まことの天からのパンではない」とは、マンナが、天から降ってくる神のパンを指し示すものであったことを教えています。そして、イエスさまは、その神のパンが、今、あなたたちに差し出されているのだとお語りになるのです。また細かいことを言うようですが、32節の「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく」の「与えた」は、元の言葉を見ると完了形で記されています。けれども続く、「わたしの父が天からのまことのパンをあなたがたにお与えになる」の「お与えになる」は現在形で記されているのです。これは、ヨハネの福音書が書かれた時代のことだけではありません。現代の日本に生きる私たちにも、イエス・キリストの父なる神は、天からのまことのパンを与えてくださるのです。群衆は、自分たちが見て信じることができるように、天からのパンを求めましたけども、イエスさま御自身が、天から降ってきて、世に命を与える神のパンなのです。彼らは、その天のまことのパンであるお方を目の当たりにしながら、先祖が食べた朽ちるパンを求めているのです。彼らは「わたしたちが見て信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」と言いましたけども、彼らには、父なる神が与えてくださった最大のしるし、神の御子が人となって、自分たちの前に立っておられることを見ることができないのです。

むすび.神がなさる業である信仰

 こう見てきますと、「神の業」が、「神の要求する働き」に留まらず、「神が私たちの内にしてくださる業」であることが分かってきます。私たちが生まれながらの自分たちの力で、イエスさまを神から遣わされたお方として信じたのではありません。イエスさまは、27節でこう仰せになっておりました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」。永遠の命に至る食べ物のために働くという、キリストを信じて生きる人生、クリスチャンライフとは、人の子から与えられる食べ物なのです。イエス・キリストを信じて生きることは、神さまがすべての人に要求する唯一業でありますけども、しかしそれは同時に、神さまが私たちの内に成し遂げてくださる業でもあるのです。

 人間は誰も、生きていくために朽ちる食べ物のために働く必要に迫られています。しかし、イエス・キリストを信じる私たちは、永遠の命に至る食べ物のために働くという人生をイエスさまから与えられた者たちなのです。礼拝に出席しているときばかりではありません。私たちがキリストに結ばれている者として、それぞれの仕事に勤しむとき、私たちは朽ちる食べ物のためでばかりではなく、永遠の命に至る食べ物のために働いているのです。主に仕えるように、人々に仕えて歩むとき、私たちは、朽ちる食べ物のためばかりでなく、永遠の命に至る食べ物のために働いているのです。もし何らかの事情で朽ちる食べ物のために働いていなくても、イエス・キリストを信じる者は、永遠の命に至る食べ物のために働いているのです。たとえ、寝たきりであったとしても、イエス・キリストを信じているならば、その人は永遠の命に至る食べ物のために働いているのです。

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